番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」3
「久しぶりだなー、マリス……、じゃなくて、若奥様」
「本当に久しぶりだね、エイリク。ああ、ずいぶん背が伸びたねぇ、昔は私よりずっとちっちゃかったのに」
「やめてくれよ。最後に会った時から、どれだけ経ったと思ってるんだ。そりゃあ背ぐらいのびるさ」
少し照れくさそうに言う同じ孤児院出身の青年エイリク・アーテルに、それもそうだね、とマリスが頷く。
幼い頃は年上のマリスの方が背が高かったのに、今ではすっかりその身長差も逆転し、いつもあちこち泥で汚れていた淡い金色の髪だって、今は明るい茶色に変わって奇麗に整えられている。
マリスとよく似た明るい緑の目にいたずらっぽい光が時折ちらつくのを見ると、幼い頃のエイリクがまだそこにいるようで可愛らしいが、それを口に出しては怒るだろうと思うくらいには、彼はもう青年だった。
そうして再会を懐かしんでいると、少し遅れて待ち合わせ場所に現れた、ひょろりと背の高い、眼鏡の女性が慌てた様子で頭を下げる。
「お、遅れてすいません、若奥様!」
栗色の髪に金の筋が混じる美しい髪を、その価値に気付くことなく飾り気のない紐で束ねて背に流し、分厚い眼鏡に澄んだ青の目を隠した彼女は、いつもどこか所在なさげに背を丸めている。
けれどうまく人に馴染めない性質の人間には、魔術師の養成機関や魔術師団にいた頃ですっかり慣れてしまったマリスは、まるで気にせずにっこり笑って彼女を迎えると、エイリクに紹介した。
「ルーシャさん、ちょうど良かった。私も今来たところだから、気にしないで。エイリク、こちらがルーシャ・イルミエさんよ。動物学にとても詳しくて、植物のこともよく知ってらっしゃるの。今回の話の中心人物だから、よろしくね」
ルーシャがインク染みのついた指をあわあわと組み合わせ、「中心人物だなんて……!」と恐れおののくように身を震わせるのを見て、エイリクが快活に笑った。
「なんだ、すごい博識な学者先生だって聞いたから、どんなおっかない人が出てくるのかと思ってたら、可愛いお嬢さんじゃないか」
年頃はエイリクの方が少しだけ上だろうが、身長はおそらく背筋をのばしたルーシャの方が高いだろう。
しかし彼には身長などあまり重要ではないらしく、それより慌てるルーシャが可愛らしく見えたようで、軽口を言うその顔は楽しそうに笑っている。
「こら、失礼なことを言わないの。ルーシャさんは本当に素晴らしい、博識な学者さんなんだから」
しかしいたずらっ子のエイリクをよく面倒見ていたマリスは、離れていた時を忘れて思わず昔のように注意する。
マリスにとってはどちらも可愛い年下の子らだが、元気すぎるエイリクよりも気弱なルーシャの方が、庇護の必要なか弱い娘に見えるのだ。
そんな二人に挟まれた、本ばかり読んでいて人慣れないルーシャは、彼らの口からぽんぽん飛び出してくる、彼女からすれば過分なほど褒められているとしか思えない言葉に顔を真っ赤にして、何も言えなくなってしまった。
「まあまあ、若奥様、お話を続けられるなら落ち着いてからにいたしましょう」
マリスがエイリク達と話すのに、クレスタを預かって抱いていた付き添いの侍女がルーシャの様子を見かねて苦笑気味にとりなした。
するとエイリクが真っ先に「のどが渇いた」というので、三人とマリスの息子を抱いた付き添いの侍女は、学者街の天幕へ移動する。
そして途中の出店でそれぞれに好きな飲み物を買うと、小さな天幕を借りて中に入った。
今日彼らが集まったのは、この地の新しい産業になるかもしれない、ある動物について話し合うためだ。
次期辺境伯となったゼレクが防衛体制を刷新したことで、一部の商人がこの辺境都市を交易の中継地として使うようになったことを発端に、魔術の研究を続けるマリスが火付け役となってできた古書市と学者街の中で、この話はポンと出てきた。
この地は特産品の無いただの辺境都市だが、とある草がよく生えている。
すり潰すと独特の匂いを発するそれは、肉の臭み消しに良いとよく領民の家庭料理に使われていたが、それ以上の薬効などは無いのにとにかく繁殖力が強く、どこまででもはびこるので畑を侵食される農家が「おのれ」と怨嗟の声をあげるほどだった。
しかも匂いが強いせいか味が気に喰わないのか、ヤギですらそれを食べるのを敬遠するのである。
臭み消し用に、採って乾燥したものを細々と商人に売っていたりもしたが、独特の匂いは好き嫌いが分かれるため、それほど取引量は多くない。
けれどマリスはかつてその草が王都の市で取引されるところを見ており、その時、匂いにつられたらしいある獣が、それをパクッと食べてしまうのを見た覚えがあったのだ。
なにしろ売り物を食べられたわけだから、何をしてくれるんだ、と怒る商人と、通り道に売り物を放っておくほうが悪い、という獣の飼い主の怒鳴りあいで、かなりの大騒ぎになっていて、おそらくそのせいでマリスの記憶にも残ったのだろうと思う。
そしてその獣こそが、モルカ、という耳慣れない名の、遥か東国の動物であるのだと、マリスの頼りない記憶をもとにルーシャが教えてくれたのだ。
モルカはロバのように丈夫だが頑固で、見た目は羊のようにモコモコした白い毛皮で覆われた動物である。
群れで暮らす習性があるので、東国では毛と乳と肉を得るための家畜としてよく飼われており、何でも食べるし荷物を背に乗せて連れ歩くこともできるため、長距離の移動の際にも重宝されているのだと、ルーシャは本も見ずに瞳を輝かせてすらすらと語った。
ちなみにモルカを実際に近くで見たことのある人に話を聞くと、大半の人が「ああ、あのゲップの臭い」という記憶とともに思い出すそうである。
マリスは遠巻きに騒ぎを見ていただけだから、ゲップが臭い、というのは知らなかったが、とにかくこの地に大繁殖する、しかしあまり使い道のない草を、あの獣ならば食べてくれるのではないか、と思ったのだ。
そしてそれを孤児院の院長への手紙で相談すると、ちょうどエイリクが東国の商人と取引している商家で働いているからと連絡をとってくれて、彼と商家の主人が「面白そうな話だ」と食いついたので、いつも辺境都市まで食料を届けに来てくれる隊商に加わってわざわざ直に話し合いをしに来てくれた、というわけだった。
「最初は様子見だろう? うちの方でどうにか十か十五頭くらいなら買い取れそうだから、それくらいの数でどうだ?」
「うん。その数ならそんなに問題なく受け入れられると思う。頭数は代金も関わってくるからお義父さまに相談してからになるけど、畜舎は何年か前に馬の飼育をやめて引越しした人の家がそのまま残っているそうだから、そこを使ったらどうかって」
エイリクとマリスの話を聞きながら、動物の飼育のこととなると途端に専門家の顔になるルーシャが考え込むように言う。
「馬用の畜舎とモルカに必要な畜舎は違うでしょうから、少し改装が必要かもしれませんが、そうですね、だいたいは良いと思います」
そうして一通り予定していた話がまとまると、エイリクが語る他の異国の動物の話へと話題が移った。
動物好きなルーシャは宝物を見つけた子供のように無邪気に瞳を輝かせて、もっともっとと質問を挟みながら話を聞きたがるので、その眼差しを一身に浴びることになったエイリクは得意げにいろんな動物について語り続ける。
マリスからすると、この二人は弟か妹くらいの年頃だ。
彼らがすっかり仲良くなって話し込むのを、天幕に入ってしばらくしてから眠り込んでしまった息子を抱いて、彼女は微笑ましく眺めていた。
「マリス」
その時、半分開いたままになっている天幕の入口に、ひょいとゼレクが顔をのぞかせた。
領地の見回りの途中であるらしく、今はサウザーミスト伯の私兵として武官をやっているジェド・ウォーレンもその後ろに姿が見える。
ゼレクとマリスの結婚後、間もなく愛らしい娘を花嫁に迎えた元・第一師団長補佐官の彼は、「ゼレクの下で文官やるのは二度とごめんだ」と宣言して武官としての仕事で羽を伸ばしているのだが、ゼレクの“見回り”に追従できる人員が限られるために、しょっちゅうそのお供として駆り出されているのだ。
「クロちゃん? お仕事お疲れさま」
急に現れた夫に驚いたものの、マリスはぐっすり眠りこんだ息子を侍女に預けて、天幕の入口に立ったまま動かない彼の元へ行く。
「よくここが分かったね。今日は私、学者街の天幕で話をするって言っただけじゃなかったっけ? どこの天幕が空いてるか分からないから、いつも入るところ、バラバラだし」
「俺はマリスの匂いは間違えない」
そこはかとなく自慢げなゼレクとは逆に、まさか匂いと言われるとは思わなかったマリスは驚いて、緑の目をぱちぱちとしばたたかせた。
「えっ、匂い? 私ってそんな匂うの? ……ん? あ、そっか、魔力の匂いで識別できるんだっけ? すごいねぇ、クロちゃん。私たちみたいな魔術師は、いつもいろんな魔道具に囲まれてるせいか、そういう感覚って鈍いんだよね。自分の匂いとか分からないし。魔道具なら、触った時に感じる波長で誰の作品か分かったりもするけど」
「訓練内容の違いだな。魔道具の波長を感じ取って製造者を見抜くのも、俺からすると十分に凄い」
「あははっ、私のはあんまり役に立つようなものじゃないけどねぇ。職業の違いがこんなところに出てくるなんて、ちょっと面白いね」
そんな話をしていたら、いつの間にか背後が静かになっていて、どこか様子をうかがうような視線が向けられていることに気付いた。
マリスは、そういえばこの都市にしばらく前から住んでいるルーシャは顔見知りだが、エイリクとゼレクは初対面だったと思い出して、彼らにお互いの姿が見えるよう一歩下がる。
「あ、ごめんなさいね。旦那様、ご紹介します、彼が私と同じところの出身で、今度モルカの仕入れを手伝ってくれる、エイリク・アーテル」
「はじめまして、エイリク・アーテルといいます。これからお世話になります。よろしくお願いします」
昔のいたずらっ子がどこへやら。
いつの間にか大人になっていたかつての少年が、紹介を受けて緊張した様子ながらきちんと挨拶するのを、マリスは嬉しそうに見つめた。
いたずらっ子のエイリクには手を焼かされたこともあり、その喜びはひとしおだ。
そんな彼女に何を思ったか、ゼレクは急に腕を伸ばしてその腰に回すと、小柄な体を持ち上げるようにぐいっと引き寄せた。
口より先に体が動くタイプである夫に、だいぶ慣れてはいたが、さすがに驚いたマリスが小さく声をあげて、すぐそばにきたゼレクの腕にしがみつくような格好になる。
「ゼレク・サウザーミストだ。妻が世話になる。よろしく頼む」
「……ッ、は、はいッ!」
まっすぐに視線を向けられたエイリクが、なぜか一瞬息をのんでから、まるで新兵のようにぴしっと背筋をのばして慌てたように返事をする。
天幕の外で待っていたジェドが、ぶふっと噴き出して「ガキ相手に威嚇かよ……」とつぶやくのが聞こえたが、マリスにはなぜゼレクがエイリクを威嚇するのか、意味が分からない。
エイリクはそれなりに体のできてきた年頃の青年ではあるが、兵士としての訓練を受けたわけではないからゼレクに敵うはずがないし、いろんな意味で最初から勝負にならないのは分かりきっている。
それなのに、威嚇?
ジェドが何か勘違いをしているのではないかと思ったが、マリスよりゼレクとの付き合いが長い彼は、幼馴染みのことをよく知っている。
それに、なぜか挨拶しただけのエイリクが、異常にびくついているのも気になった。
ゼレクの懐に抱きこまれてしまったせいで、ただでさえ身長差のあるマリスでは、彼がどんな表情をしていたのかまったく見えなかったのだ。
ただ、びくついているエイリクの隣では、人慣れしないルーシャも息子を抱いた侍女も平然としているので、それほど怖い顔をしたわけではないだろうと分かる。
「マリス、話し合いは終わったのか?」
いったいどういうことだろう? と内心首を傾げていたマリスは、ゼレクにそう聞かれると、ひとまず自分の疑問は置いておいて、返事をした。
「一通りはね。ただ、お義父さまに相談しないといけないことがあるから、今日はここまでで、いったん私が話を持ち帰って、また次の話し合いを持つことになると思うけど」
「分かった。それなら今日はもう帰れるんだな?」
「うん、そうなるね」
「少しここで待っていろ」
言うなりマリスをきちんと立たせると、さっと離れたゼレクが天幕を出てゆく。
訳が分からないまま取り残されたような心地で、それでもたぶん彼がまた戻ってきて領主館まで送り届けてくれるつもりなのだろうということは理解し、マリスは息子を抱いている侍女のそばへ戻る。
するとびくついて青い顔になったままのエイリクが、マリスに聞いた。
「い、今のって、ゼレク・ウィンザーコート師団長さまだよな……?」
もう一年以上も前に姓が変わってしまったから、今となっては懐かしい名前だ。
そんなことを思いながら、マリスは「そうだよ」と頷いた。
第一師団を辞してサウザーミスト伯の養子となってからも、救国の英雄として国中に轟いたその名でゼレクを呼ぶ者は多い。
そしてその声に含まれているのは尊敬や憧憬だったりすることが多いのだが、なぜかエイリクの口調には、多分に畏怖が含まれていた。
「怖かったの? エイリク。大丈夫だよ、彼はちょっと不愛想なところもあるけど、優しい人だから」
なぜかルーシャと侍女に微笑ましげに見守られているのが気になったが、よく分からないところで昔馴染みに夫が誤解されるのは嬉しくない。
できるだけゼレクを擁護しようとしてみたマリスは、しかしエイリクの真剣な目にかちあって驚く。
「マリス、さっき師団長さまのこと、“クロちゃん”とか呼んでなかったか? そんなことして大丈夫なのか? いやべつに、師団長さまも普通に答えてるみたいに見えたけど、愛称? にしては、なんか変だろ、それは」
相手はあの師団長さまだぞ、不興を買う前にやめておけ、と昔馴染みのよしみで忠告をしてくれているらしいのだが、これについてはちょっとした、いや、だいぶ深い事情と、その他諸々を含んだ経緯があるのだ。
そしてそのどれもが、迂闊には口に出せないことだったり、とても人様には言えないことだったりするもので……
思わず、あ~、と曖昧に言いながら顔をそらして視線をさまよわせたマリスに、エイリクは不安を強めたらしい。
おい、と彼が思わず距離を詰めようとした、その時。
天幕の入口から射し込む陽光がふっと陰り、獣のようになめらかな動作でゼレクが戻る。
彼は当然のような顔で妻をその腕に抱きあげると、無言でエイリクを見下ろした。