番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」2
マリスが嫁いで暮らしはじめた辺境都市は、産業の乏しいさびれたところだった。
これといった特産物もなく、商人たちが交易に使う主要道からもやや外れ、森には時おり獰猛な獣が現れて猟師が被害に遭うこともあったが、若者はみな都市部に出稼ぎに行ってしまっている状況では、それを駆除するにも難儀する。
そういう土地だった。
その状況が変わったのは、ゼレクが次期辺境伯として、現辺境伯オルズベル・サウザーミストの元に養子に入った時からだ。
ゼレクは文官仕事にはまったく向いていなかったが、とにかく体を使うことにはすべてにおいて秀でていたし、どんな猛獣が出ようとあっという間に一人で仕留めてしまう。
しかも彼以外の者に従いたくはないと、先の戦争でともに戦場を駆け抜けた部下たちが幾人も付いてきたため、彼らを私兵として抱えた辺境都市は驚くほど有能な人材を一気に獲得することにも成功した。
そして嫁いできたマリスが、にわかに活気づいてきた辺境都市で、さて増えた人々の食料をどうすべきか、と頭を悩ませていた辺境伯、義父となったオルズベルに言う。
「お義父さま、もしよろしければ、私、故郷に手紙を書いてみましょうか」
マリスの育った孤児院は、国内有数の穀倉地帯を有する領主の庇護下にあった。
とはいえ、魔力の高さを見込まれてさらわれるように魔術師の養成機関に放り込まれてしまったため、マリス自身にはその地の商人たちとの繋がりは無いのだが。
魔術師になればお世話になった孤児院に仕送りができるようになる、と言われて必死で学び、王城魔術師となってからは念願通り毎月仕送りをしていたので、それを頼りに細々と手紙のやり取りをしていたのだ。
手紙の相手は院長だったが、慈悲深い領主は孤児院を放置せず、よく目を行き届かせていたので、一孤児院の院長でも領主と会って話す機会がある。
運が良ければ院長を通して領主と交渉し、食料の取引を新たに始められるかもしれないし、そこまでゆかずとも、院長の知り合いの商人を紹介してもらうことくらいはできるだろう。
「おお、それはありがたい。頼まれてくれるか、マリスさんや」
白ひげの好々爺といった風体のオルズベルは、十月の森を思わせる濃い緑の目を細めて、外見の印象そのままにほがらかな笑顔でマリスに言う。
数年前に妻と、次の辺境伯となるはずだった息子を流行り病で亡くしたオルズベルは、自分はもう老齢だからと後妻を迎えることなく養子を探しており、それを王都にも伝えていた。
しかし運悪く、その後すぐに突入した先の戦争で縁戚の子らは亡くなったり行方が分からなくなってしまっており、血筋の近いところから後継ぎを迎えるのは難しい。
ならば血筋にこだわらずその他はというと、これも次期辺境伯として相応しい人物がなかなか見つからず、何度か探し出した候補者も様々な事情が絡んでうまく話がまとまることなく立ち消えとなってしまい。
これは困った、とここ数年ずっと頭を抱えていたところに降ってわいたように出てきたのが、ゼレク・ウィンザーコートの養子話と、そのすぐ後に彼の妻としてマリスを迎え入れてほしい、という宰相からの要望だった。
ゼレク・ウィンザーコートといえば、王都から遠く離れた辺境にもその名の轟く救国の英雄の名である。
宰相からの手紙を初めて見たオルズベルは、驚くというより「何の冗談じゃろうな?」と、きょとんとした顔で執事に問い、その手紙を見せられた執事も「さぁ……」と困惑顔で首を傾げたものである。
つまりは彼らにとって、それはまるで現実味の無い話だったのだが、手紙が届いてから数日後、転移魔術によって突然この地を訪れた宰相により、一気に現実のものとして受け止めざるをえなくなった。
「できればあなたに引き受けていただきたいのです、サウザーミスト伯」
前触れの無い訪問を詫びた宰相は、彼が確かにカイウス・セレストルその人であると理解して卒倒しかけているオルズベルと執事に、真摯な眼差しで頼み込んだのだ。
「ゼレク・ウィンザーコートは、非常に優秀な兵士ではありますが、いささか扱いの難しい人物です。性質としては善でもなく悪でもありませんから、彼にとって唯一無二の存在であるマリス・ラークさえ無事であれば、さほど害は無いのですが。
それでも彼を辺境伯となるべく教え導くには、かなりの忍耐力と指導力が必要となることが予想されます。とくに書類の処理については、相当な難事となるでしょう。ゆえに私にはあなた以外、それに適う人物はいないと思うのです、サウザーミスト伯」
宰相カイウスはその他にも率直にゼレクの長所や短所をあげ、彼を養子として迎え入れた場合の利点と欠点をオルズベルの天秤に乗せた。
そしてその上で、引き受けてほしい、と一辺境領主に頭を下げた。
何か裏があるな、と察するには、十分すぎる材料である。
正直なところ、面倒の種を大事な自領に迎え入れることを、オルズベルは躊躇した。
そばで控えて話を聞いていた執事も、隠してはいたが不安そうな様子であった。
しかし、宰相の人柄は、遠く離れた辺境に暮らし、ごくたまに王都へ赴くだけのオルズベルでも知っている。
何より、とくに有益な資源があるわけでもない辺境領の後継者探しを、宰相ほど多忙な人物が覚えていて、ゼレク・ウィンザーコートという国の英雄の行き先として候補にあげてもらえたことが、彼の胸を打った。
そしてこの辺境領からも戦争に駆り出された領民がおり、死んでしまった者もいたが生きて戻れた者もいて、帰ってきた彼らが一様に「第一師団のウィンザーコート師団長が、次々に敵将を討ちとってくれたんだ。大軍のぶつかり合いになれば真っ先に先兵として使い潰されるようなおれたちが生きのびられたのは、そのおかげだ」と口を揃えていたことも、オルズベルの背を押す一因となった。
「……宰相閣下。わしは御覧の通り、老い先短い身であります。いったん引き受けたのならば、出来るかぎりのことはするつもりですが、どこまでできるか何もお約束はできません。それでも、よろしいか」
引き受けるか断るか、短い時間ながら一領主として己の天稟を厳しく見定めた結果の、ぎりぎり絞り出された言葉だった。
「あなたにお任せできるのであれば、これほど心強いことはありません」
そんなオルズベルの言葉に宰相はそう答えると、深みのある金の目に安堵の色を浮かべて「感謝いたします」と微笑んだ。
まさかその宰相が、オルズベルより先に逝ってしまうとは、誰にも予想できないことだった。
ゆえにその急報を受けた時、オルズベルは濃緑の目を陰らせてつぶやいたものだ。
「宰相閣下がなぜあれほどわしを見込んでくださったのか、聞きそびれてしまったのぉ」
まあ、その続きに「わしが逝った時に聞けばよいことか」などというので、「またそんなことを!」と執事に叱られるはめになったのだが。
話は戻り、マリスの手紙である。
「ゼレクどの、マリスさんはいい嫁じゃなぁ」
思いがけず話は順調に進み、誰かが後ろで手をまわしてくれたとしか思えないほどあっさりと、マリスの故郷の領主との新たな取引がまとまった。
おかげで急増した辺境都市の人々の食料についてその確保に困ることもなく、オルズベルはそれ以上悩まず済んだのだから、二重の意味でありがたいことである。
そして嫁いできてすぐそんな幸運を舞い込ませてくれたマリスは、子を身籠って無事に出産し、すくすく育っていくその子を育てながら今また、さらなる次の話を進めようとしてくれているのだ。
ほくほく顔のオルズベルが笑顔でそう言うと、ゼレクはいつもの無表情を心なしかやわらげて頷いた。
彼はマリスが褒められるのを聞くと、自分が褒められた時より何百倍も嬉しそうな顔をするので、その素直さに思わずつられて言った方まで嬉しくなってしまうほどだ。
そしてともに暮らすようになって一年以上が過ぎたこの頃は、オルズベルも使用人たちもだいぶゼレクのことが分かってきて、彼を動かすにはマリスの名を使うのが一番であると理解していた。
うっかり使い方を間違えると恐ろしい思いをすることになることも、何人かが犠牲となって判明しているため、その使用法は注意深く配慮されたものとなっているが。
中でも昼は辺境伯としての仕事をゼレクに教えるために一緒にいる時間が長いオルズベルは、その使用法に熟達してきている。
なので今、彼が言ったのは間違いなく本心ではあったが、これから本日の執務を始めようというこの時、まずはそうした言葉でゼレクの警戒心を解いて、できるだけ身構えさせずに書類仕事を教え込みたいという気持ちもあった。
「早く隠居したいのぉ」
なにしろこれが、ここしばらくのオルズベルの心からの言葉であり、口癖なのである。
救国の英雄と謳われるゼレク・ウィンザーコートほどの人物が養子になってくれるのであれば、おそらく早々に自分は隠居することになるだろうと思っていた彼は、宰相の真剣な警告を軽く見積もってしまっていたことを後悔しながら今日もまたつぶやく。
そして文官たちに必死の形相で縋りつかれるのだ。
「お待ちください領主様!」
「いましばらく! いや、だいぶしばらくお待ちくださいぃぃ!!」
「お願いします領主様ッ! 本ッ当に!! 今すぐ世代交代とかされたら私達が倒れますのでぇぇぇ!!!」
宰相から遠回しに文官仕事に向いていないと評されたゼレクの、その向いてなさは予想以上だった。
おかげで「自分たちがしっかりしなければ!」と奮い立った辺境領の文官たちが、今までのぬるま湯につかっていたかのような状態から抜け出し、日々驚くほど有能に成長していっているほどだ。
ゆえに幸か不幸か、今のところゼレクのせいで仕事が滞るようなことは起きていないのだが、残念ながら成長した文官たちでもオルズベルの「引退したい」というセリフに悲鳴をあげるほど、いまだ次期辺境伯の教育の進捗具合ははかばかしくない。
それというのも、ゼレクには時々、一目見るなり無言で放り出してしまう書類、というものがあったのだが。
最初、それは他の誰が見ても何の問題もない報告書類であったために、ただ彼の機嫌が悪いのかと思われたものの、古馴染みのフォルカーの一言で彼らは凍りついた。
「ゼレクが何も言わずに捨てたなら、それには汚職が関わっていますね」
彼にはこれまでも、ほぼ百発百中の確率で不正を見抜き、しかし本人には「何となく嫌だ」という程度の自覚しかない、という特技があったのである。
そして過去にいったい何があったのか、フォルカーは遠い目をして「どうも自分に対する害意がある、と嗅ぎ分けるようでしてね。そういう書類には、ゼレクは絶対にサインしません。私もそれで苦労しましたから、断言できます」と話し、ゼレクが書類仕事をする時は執務机にカゴを置いておくよう助言した。
何も無いと無造作に投げ捨ててしまうので、そういうものはカゴに入れろ、とジェドとともに教え込んだのだという。
「しかし、それでは当面の仕事が滞ってしまうのではありませんか?」
「はい、仰る通りですね。あと、わざと泳がせて尻尾を出すのを待っている間の書類も滞ることになります」
「え。あの、そういう時はいったいどうやって……」
その場をしのいだのか、と一人の文官が問いかけるのに、フォルカーはふと微笑んだ。
「ゼレクの筆跡は、特徴的でしょう。字が実を表しているかのように、じつにやる気がなく、しかし有り余る力のせいで筆圧だけは強い。とても、見分けやすい、筆跡です」
眼鏡の奥のその目がまったく笑っていないのに気付いて、その場にいた文官たちは全員察した。
あ、この人たぶん、次期様の筆跡でサインができる、と。
そしてズゥン、と沈んだ場の空気に目を細めて、フォルカーが言う。
「なにぶん必要に迫られてのことでしたので、ジェドも得意でした。まあ、これからは皆さんの仕事ですので、健闘を祈りますよ。それでは」
サウザーミスト伯に仕える文官の一人となったものの、ジェドと同じくゼレク直属の部下になることを断固として拒否したフォルカーは、そう言って持ってきた報告書を置くと、巻き込まれる前に領主館からさっさと帰っていった。
引っ越してきてから早々に領内の情勢を把握し、領主館からは距離を置いているものの、その周辺での仕事をおそろしい勢いで効率化していく彼も、それなりに忙しいのである。
結果的にその場に取り残された文官たちは、もはや言葉も無く。
しかし現状に対処せねばならなかった。
そうして、とりあえず、と助言通りに用意されたカゴへ放り込まれるようになった書類は、徐々に成長しつつある文官たちが青ざめるほどの量であった。
おかげでサウザーミスト伯爵家の領地から汚職役人が一掃されたのだが、そうなるまでに調査する文官たちとその裏付け捜査に当たる私兵たちが四方八方を走り回ることになり、しばらくゼレクの教育どころではなくなってしまったのも痛かった。
長い目で見れば汚職役人が一掃できたのは良い事だったし、文官たちが忙しくしている間、その教育から解放されたゼレクが元・第一師団員だった部下たちを率いて領地を見回り、問題点を把握して防衛体制を刷新するという功績もあげたのだが、それはそれとして、「次期様」が「辺境伯」となる日がいっこうに見えてこないのだ。
深いため息をついたオルズベルは、せめて領主館の中では隠居したい、というワガママを通し、主寝室を改装してゼレクとマリスに譲ると、自分は何代か前の領主が建てていたすぐそばの別棟に移り住んだが、それが今のところの精一杯である。
「分かった、分かった。いましばらくな、いましばらく……。……はて、しばらく、というのは、どれくらいのことなんじゃろうなぁ?」
オルズベルの「隠居したい」が口癖となり、その後に文官たちに縋りつかれるようになってから、もうすでに一年以上は経っている気がする。
ゼレクを養子に迎え、マリスの嫁入りを祝い、二人の息子であるクレスタの誕生に領地中が沸いた時が過ぎて、しかし今もなおオルズベルが現サウザーミスト伯なのだ。
「さぁ。どれくらいのことなんでしょうねぇ」
今日もまた文官たちが群がってゼレクに書類を処理させようと四苦八苦する様子を眺め、時折それに助言しながら見守る主人に、傍らに控えた執事が苦笑気味に答えた。