番外中編「ゼレクとマリスの生活、たまに辺境発展記」1
本編後、辺境都市でのある日。
「ああ~! 可愛い~!! クレスタさま可愛い~~~!!」
笑みくずれた女性にすりすりと頬ずりされながら抱きしめられて、癖毛の黒髪に緑の目をした豪胆で人懐っこい息子は楽しそうにきゃっきゃと笑う。
街に出かけて古書市を歩いていると、たいてい知り合いに声をかけられてこの状態になるので、その流れはもう日課の一部となってきていたが。
息子のこの人懐っこさは、いったいどこからきたのだろうかと、マリスはいつも不思議に思う。
次期辺境伯ゼレク・サウザーミストと妻マリスの間に生まれた男児、クレスタ・サウザーミスト。
生まれたその日に「未来の領主様だ!」と歓喜の叫びに迎えられたとおり、何事もなければいずれこの地の領主となるであろう彼は、極端な面倒くさがりやの父親や控えめでおとなしそうに見える猫をかぶることに慣れすぎた母親に似ず、いつも全力で人懐っこい。
とにかく誰かにかまってもらうのが大好きで、それは起きた時に誰もいないと怒って「誰か早く来て!」とばかりに泣き叫ぶほどだ。
まだ生まれたばかりの頃、そのすさまじい泣き声にびっくり仰天したマリスが駆けつけ、どこかケガでもしたのかと慌てふためきながら抱き上げたとたん、ぴたりと泣きやんでふにゃふにゃ笑いはじめた時は、いったい何が起きたのかすぐには理解できなかったものである。
さて、それはそれとして。
「若奥様は次期様と王都のお城で出会ったってお聞きしました! 初めてお会いになった時、次期様はどんなふうだったんですかっ?」
クレスタが子供好きな夫人たちに双方大喜びであやされている間、こちらは好奇心に瞳を輝かせた赤い頬の年若い娘たちに取り巻かれ、夫である「次期様」ゼレクとの出会いについて話を聞かれる「若奥様」マリスである。
言えない……
仕事が忙しすぎてちょっとトチ狂ってた頃に、ケガした野良犬だと思って拾ってそのまま一ヵ月くらい部屋で飼ってました、なんて、絶対に言えない……
しかも首輪つけてたことまでバレたら、その場で私の社会的死亡が確定してしまうこと間違いなし……
思わず遠い目になって、心の中でつぶやく。
マリスがゼレクを犬だと認識してしまった理由について、ジェドは「こいつが本当は犬だったからだろ」と言ったし、フォルカーもなぜかその理屈で納得してしまったが、いまだにはっきりとした原因は分かっていない。
ゼレクが巨狼から人に戻ったあの日から、マリスが彼を犬と見間違えることも無くなったから、この出来事が何らかの大きな変化をもたらしたのは間違いないだろうと思われるが。
しかし、何年も休みなしで職場に入り浸るように働き続けていたあの頃の自分が、本当に精神的におかしくなっていたから、という理由も、無いとは言い切れないわけで。
お休みって大事だなぁ、と内心しみじみ思いつつ、嫁入り前にきっと聞かれるだろうと予測してジェドやフォルカーを巻き込んででっち上げた「次期辺境伯とその妻の出会いの物語」を、瞳を輝かせている娘たちへさも事実であるかのように穏やかな微笑みで語る。
準備しておいて良かった。
「初めて旦那様にお会いしたのは、仕事でのことでしたから。私はあまり位の高い魔術師ではありませんでしたし、上司と旦那様の部下の方たちがお話されている間、この方がかの救国の英雄さまなのかと、片隅から見つめるばかりでしたよ」
よくもまぁこんな作り話を平然と語れるものだ、とマリスは自分で自分に感心するが、こうした話をねだられるのはしょっちゅうなので、もうだいぶ慣れて諦めの境地に足を踏み入れつつあった。
次期辺境伯ゼレク・サウザーミストの姓がまだウィンザーコートだった頃、彼が先の戦争で多大な戦功をあげて『救国の英雄』と呼ばれ、第一師団長の地位に立って国中から尊敬の視線を集めていたことは事実だから、マリスの作り話に出てくるような女性が何人もいたであろうことは考えるまでもない。
なので作り話ではあるが、事実もちょっとずつ混じっているそれは、今のところ誰にも創作だと見破られたことは無かった。
勿論、ここが王都から離れた辺境の地で、実際の第一師団とマリスが所属していた魔術師団の距離感を人々が知らないことも、有利に働いている。
もしよく知る人が聞いたら、マリスの部署の名を聞いて「ん?」と首を傾げるだろう。
魔術師団の中でも高位貴族だけが所属する花形の部署ならば、第一師団とともに仕事をすることもあるかもしれないが、マリスの所属していた地味な仕事をする魔術師の寄せ集めのような部署が外に出ることなど、そうそう無いことだ。
まあ、雑多な仕事を抱えた魔術師の寄せ集めであるだけあって、絶対に無いとも言いきれないので、よく知る人ほど「非常に珍しいが、そういうこともあるかもしれない」と思うだろうという目算あっての作り話であるが。
ちなみにそういった見込みが無駄に細かくゆきとどいているのは、フォルカーの功績である。
大変な面倒くさがりやの英雄を上司に持った不運な副官たちは、この創作の辻褄合わせに大いに貢献してくれた。
感心したマリスに、伊達や酔狂であの男の副官は務まらないんだ、と言ったジェドの夕焼けを思わせるオレンジ色の目は、真剣だった。
もっとも、その時彼らがやっていたのは、ただの恋物語の創作だったのだが。
嘘をついてごめんなさい……
でもさすがに、幻術にかかっていたわけでもないのに本気で人を「犬だ」と思い込んで飼っていた女が次期辺境伯夫人とか、言ってはいけないことだと思うので……
このまま墓まで持っていきますから、どうぞお許しを、と心の中で深く詫びながら、マリスはきゃあきゃあと黄色い声をあげてはしゃぐ娘たちに恋物語を話し終えた。
有能な副官たちを巻き込んで作りこんだおかげか、娘たちは頬をますます赤くして興奮した様子で、口々に「素敵」「私もそんな人がいたらいいのに」と言い合っている。
ここ最近はだいぶ発展してきたとはいえ、嫁いでだいぶ経った今でも、この辺境都市ではゼレクとマリスの話は彼女たちにとって良い娯楽であるらしい。
そうしてはしゃぐ娘たちを眺めているうちに、できることなら彼女たちの期待通り、王都で英雄に見初められて恋に落ちた幸運な女性であれたら良かったのかもしれない、と、ふと思い。
……うん。それは無理かな。
ゼレクと自分の性格を思い出して普通にそう結論すると、優しい女性たちからたっぷり甘やかされてあやされてご満悦な息子を受け取って、今日の目的地へと付き添いの侍女を連れてまた歩き出した。
娘たちの期待通りに語った甘い恋物語を地で行こうとしても、おそらく人に無関心なゼレクはマリスの存在にすら気付かなかっただろうし、仕事で手一杯だったマリスも『救国の英雄』を雲の上の人とみなしてそれ以上の関心など持たなかっただろう。
彼女が初めて会った時、ゼレクが妄執に憑りつかれた先王のせいで人知れずケガを負い、まともに動くこともできないほど疲れ果てていたことは今思い出しても心が痛むが、その蛮行が無ければきっと二人が出会うこともなかった。
縁とは不思議で、皮肉で、奇妙で。
けれど今、その奇縁を自らの意思でより確かなものとして結び、この地で息子を抱いて歩いている今日を、マリスは一片の後悔もなく幸福であると言いきれるから。
きっとこの先、何度ゼレクとの出会いを問われても、今を守るためにあの娘たちにしたのと同じ、人々の期待通りの恋物語を話すだろうと思う。
「マリス! ……あっ、しまった! えーっと、何だっけ? 若奥様?」
手紙で会おうと約束していた相手である青年が、人ごみの向こうから名を呼んで手を振った後、慌てて言い直す。
懐かしいその人の、相変わらずな様子に笑って、マリスは足早に古書市を通り抜けていった。