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番外小話「迎え」後編



 果てしなくひろがる緑の草原を、二頭の狼がじゃれあいながら、楽しげに駆けてゆく。


 その姿を見つめていたマリスは、いつの間にか赤ん坊を抱いて草原に立っている自分に気付いた。

 ここがどこかは知りようもなかったが、腕の中の赤ん坊が生まれたばかりの息子で、マリスに寄り添って守るように両腕で抱きしめていてくれるのはゼレクだと分かった。


 身に馴染んだぬくもりと、がっしりとしたその体躯への安心感に、知らず詰めていた息をゆっくりと吐いて、マリスは腕の中の赤ん坊の顔をのぞきこむ。

 するとそれまでぴくりとも動かず眠っていた息子が、ぱちりと目を覚ました。

 見えているのかいないのか、まん丸に開いた母親譲りの緑の目できょろきょろと周りを探り、ふぇ、ふぇ、と頼りない声をあげる。


 新米の母であるマリスが、何をどうしてやればいいのか分からず困っていると、不意に、彼女を守るように抱きしめていたゼレクの腕に力が入るのを感じた。

 それに緊張を感じ取ったマリスは、ふぇふぇと誰かを呼ぶような声をあげ続ける息子の様子を気にしながらも顔を起こすと、今まで遠くにいた二頭の狼がまっすぐにこちらに走ってくるのを見て、驚く。


 一頭は大きく、黒い毛並みに金の眼をしている。

 一頭は小さく、明るい栗色の毛並みに琥珀の眼をしている。


 その一対の狼たちからは、まるで敵意というものは感じなかったけれど、本能が反射的に体を動かし、マリスは腕に抱いた赤ん坊を(かば)うようにぎゅっと抱きしめた。

 ふぇっ、うぁん、と腕の中の息子がなく。


 するとそれに応じるように、狼たちは足を止めた。

 距離は近いが、それ以上、自分たちから近付いて来ようとはしない。


 マリスは大きな狼と小さな狼の、焦がれるように赤ん坊を見つめる真っすぐな目に気付くと、すぐさま膝を折った。

 彼らから息子を取り上げたままでいるなんて、とても耐えられない。

 この場所に来る前に、どうにかしてあの人に息子が無事に産まれたことだけでも知らせたかった、と泣いたその気持ちが、彼女を突き動かしていた。


 しかしゼレクは、マリスほどすぐに心を決めることはできないようだった。


 狼たちを警戒してのことではない。

 彼らが自分の父母なのだと、たとえその姿を獣のものと変えても、何の問題もなく分かっている。


 けれど、いや、だからこそ、これまで一度たりとも親として、子として接したことのない相手をそれらしく受け入れることなど、どうやったらできるのか分からなかったのだ。


 その戸惑いを、きっと誰よりも理解しているのは大きな黒い狼――――――、人であった時は「宰相」と呼ばれ、今はそのなにもかもから解放されたカイウスだろう。

 父王に引き離された時と、遠地での死を知った時という、人生の中で二度も伴侶を失った彼は、今その存在をようやく取り戻して傍らにぴたりと寄り添いながら、ゼレクの戸惑いを静かに受け入れているように見えた。


 おそらく彼は、ゼレクが今ここで父母のことを受け入れられず拒んだとしても、その金の眼を黙って伏せ、伴侶を連れて静かに引き下がるだろう。


 でも、そんなのはだめだ、と強く思ったのはマリスだった。

 息子を片腕に抱き直すと、彼女が草原に膝をついたせいで宙に浮いたゼレクの腕を、手を伸ばしてぐっと掴む。


 その力にはっとした様子で妻を見下ろしたゼレクは、真剣な眼差しに出くわして頬を張られたようにびくっとした。

 今を逃せばもう次は無い、この機会を無駄にしてはいけない、と告げる彼女の強い目に、彼は戸惑いながらも気圧されて頷く。


 積極的に受け入れられたわけではなかったし、まだ困惑している。

 けれど彼は、マリスを背後から囲うような姿勢で、自分もまた草原に膝をついた。


 一頭の大きな狼と、一人の大柄な男の視線が交差し、男がわずかに顎を引くような仕草で頷く。


 動きを止めていた一対の狼たちが、それでようやく足を動かした。

 マリスの腕の中で、生まれたばかりの赤ん坊がふぇふぇと頼りなく何かを呼ぶような声をあげるのに、どこか懐かしげに目を細めた小さな狼が、そうっと近づいて鼻先をすり寄せる。


 赤ん坊が手を動かせるよう、両腕で抱き直したマリスの胸元から、あー、と嬉しそうな声が響いた。

 まだろくに見えていないはずの目で、あるいは鼻先が頬に触れた感覚で、求めていたものを見つけた赤ん坊の歓声。

 じたばたと振り回される手が当たるのにもむしろ嬉しそうに、明るい栗色の毛並みの小さな狼が、愛おしげに琥珀の眼を細めて赤ん坊をあやす。


 そうしてしばらくすると、静かに身を引いて、隣から彼らの様子を熱心に見つめていた伴侶へとその場所を譲った。

 すると大きな狼は、譲られたその場所に行くことに、少し戸惑ったようだった。

 本当に自分がそこへ行っていいのか、それは許されるのか、と。


 怖気づいて問う声が聞こえるような、いつになく気弱な金の眼に、小さな狼はゆるく尾を振ってみせた。

 誰がそれを非難するの。

 あなたはもう、人ですらないのに、と、それは彼がすでに解放されていることを示しているかのような返事だった。


 思わず、といった様子でその眼を丸く見開いた黒狼が、伴侶をまじまじと見つめてから、ふとゼレクを見上げた。

 彼の口下手な息子は、むっつりした顔でふいと顔をそむけたが、大事な妻や息子をどこかにやろうとはしなかった。

 父が触れられるすぐそばに二人を置いたまま、何も答えはしなかったが、拒絶することもまた無かったのだ。


 カイウスが真に解放されたのは、その瞬間だったのかもしれない。


 赤ん坊のやわらかいまるい頬に、そうっと狼の鼻先が触れる。

 その金の眼からぼろぼろと大粒の涙があふれてこぼれおちていくのを、マリスはどこか懐かしい気持ちで見守った。

 もうずいぶんと前の事のように思える、ゼレクが真昼に夜を降ろした日のことを思い出し、ああ、親子って、泣き方も似るのかなぁ、と。


 そして彼女の腕の中では、彼らの血を継いだ赤ん坊が楽しげな声をあげていた。

 生まれたばかりの息子には、祖父母を見分けるのに姿形などきっと関係無いのだろう。

 ただ自分が愛されていることを感じて、無邪気に喜んでいるように見える。


 そんな彼らを、楽しげな声につられたように、顔をそむけていたゼレクもいつしかじっと眺めていた。


 それからしばらくして、大きな狼はもみじのような手をのばしてひげを掴もうとするいたずらな赤ん坊からそうっと身を引き、小さな狼の元へと戻っていった。

 番の狼たちは少し離れた場所に並び立つと、草原に膝をついたままのゼレクとマリスと赤ん坊を、目に焼き付けようとするかのように、じっと見つめた。


 いずことも知れない地でのこの不思議な邂逅の中で、マリスは彼らの眼差しが一心に自分たちの方へ向けられているのを強く感じながら、ふと、彼らの金の眼と琥珀の眼に、二人のそれが合わさった金まじりの琥珀の眼を持つ人が夫なのだと気付いて、胸の奥をぐっと掴まれたような気がした。

 孤児院育ちで親兄弟の顔も知らないマリスが、ゼレクと夫婦になって彼の子を産むことで、ゼレクの両親である彼らともまた繋がったのだと急に理解したのだ。


 これまで一度たりともそうした繋がりを持ったことのなかったマリスに、それは息をのむような圧倒的な衝撃をもたらした。


 そうして、誰もが断ち切りがたい思いを抱きながらただじっと見つめあっていたその時。

 ふと、小さな狼が大きな狼を見上げ、促すように鼻先で彼の体を優しく押した。


 すると大きな狼が、返事をするように小さな狼に全身をすり寄せて、そのせいで倒れそうになる彼女に戯れかけるようにじゃれついた。

 小さな狼は怒ったように飛びのくと、まるで挑発するかのように彼へちらりと視線を流してから走り出し、大きな狼もまた、魅了されたようにその背を追って駆けてゆく。


 あっという間のことだった。


 身の内からあふれる喜びでまぶしいほどに光り輝く番の狼たちは、それきり振り向かず、草原を吹き渡る風のごとく遠く、駆け抜けていった。







 翌日、王都からの急使が宰相逝去の報を伝えた。


 まだ寝台から起きあがれないマリスのそばに座って手を握り、ゼレクがその報せを告げる。

 すでに二人ともが知っていた事実が裏付けられたにすぎない急使だったが、マリスの手を握ったゼレクは深く考え込むように沈黙し、長くその場から動かなかった。


 あまりにも遠く離れすぎたために、あるいはそれぞれの立場のために、お互い親子の情を結び直すことなど考えもしなかった父と子だった。

 それでもゼレクが今、番であるマリスを妻に迎え、次期辺境伯として王都から離れた静かな地で平穏に暮らすことができるのは、彼を救国の英雄たる第一師団長という地位から解放してくれたカイウスのおかげだ。


 だがゼレクはカイウスを父と呼んだことも、自分のためにしてくれたことの礼を言ったこともなかった。

 カイウスの方でも、そんなことを望んでいたわけではなかったと、知ってはいたが。


 昨夜の奇妙な草原での邂逅の時ですら、マリスが動かなければ、ゼレクはカイウスが息子に触れることを許すことなどできなかっただろう。

 そしてまたカイウスも、ゼレクが許したのを感じなければ、決して赤ん坊に触れることはなかっただろう。


 ――――――うまくできないな、俺も、あの男も。


 そんなことを思って、ふと考えついた。

 もしかしたらこの不器用さは、父親の性質を継いでしまったせいなのではないかと。


 彼の人生の中で、親から伝わった何かについて考える、あるいは思い当たるということは、これが初めてだった。


「ねぇ、クロちゃん」

「……うん?」


 深い沈黙から、ふいに声をかけてきた妻に意識を引き戻される。

 何度か瞬いてから、ようやく視線を向けた夫に、マリスがにっこり笑って言った。


「宰相さまでも、あんなふうに遊ぶんだね。見ててちょっと、びっくりしちゃった」


 あの番の狼たちの、駆け去る間際の戯れのことを言っているのだろう。

 まるでいたずらっ子みたいだった、と笑うマリスを、ゼレクはまぶしいものを見つめるように目を細めて眺めてから、その言葉に答えた。


「遊ぶ相手が一人だけだから、他のやつは知らないんだろう。……俺もそうだ」


 唇に小さな笑みをのせて、マリスの手を握ったまま覆いかぶさるように上体を倒したゼレクが、彼女のやわらかな頬に自分の頬を寄せる。

 獣の挨拶のように頬を寄せ合ったまま、ゼレクがささやいた。


「俺が戯れる相手も世界でただ一人だから、他のやつは誰も知らない」


 きっとこれも、受け継いだ血の一部なのだろう、と、今まではきっと受け入れられなかっただろう、そんなことを思いながら。

 しかしマリスからは。


「ええ~? それは困るなぁ」


 すぐさまそんな不満げな声が返って、ゼレクはむっとした顔で体を起こした。

 けれど見下ろしたマリスの鮮やかな緑の目は、口調とは裏腹に幸せそうに笑っていて、意味が分からずいぶかしげな様子になった彼に言った。


「あなたはもうお父さんなんだから。これからは息子とも遊んでくれなくちゃ。ね?」


 その言葉に一瞬虚を突かれて目を見開き、次に思わず苦笑したゼレクが、返事の代わりにずっと握っていたマリスの手を引き寄せて、やわらかな肌にくちづけた。

 彼女はくすぐったそうに笑って、しばらく穏やかな沈黙に身をゆだねる。


 そうしてゼレクがようやく落ち着いた頃、マリスが言った。


「いつか三人でご挨拶に行こうね」

「……ああ」


 わずかな間をおいて頷いたゼレクは、マリスの目を見てもう一度、しっかりと頷いた。

 金まじりの琥珀の目には、強い意志が宿っている。


「ああ。三人で、行こう。……いつか、必ず」


 臣籍降下したとはいえ、先王の弟であり、現王の叔父である前宰相カイウスの墓が一般公開されているとは考えにくいが、ゼレクは『救国の英雄』と呼ばれた元・第一師団長だ。

 自ら望んで手に入れた地位や名声ではなかったが、どんな頑固な墓守であっても、彼に望まれてなお扉を閉ざすことはないだろう。


 そして家族三人で墓参りをして、いずれしかるべき時が来たならば、息子に本当の祖父について話をしようと。

 言葉はなく、ただ彼がそう決意したことに、マリスはきゅっとその大きな手を握って力づけるように賛成した。




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― 新着の感想 ―
とても美しい情景でした。 前頁にやられた!と思いましたが……わ〜ん! 本当に外出中に読んだのではなくてよかったです。
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