第三話「“クロ”の朝」
カーテンの隙間から射し込む光に気付いて、“クロ”は煩わしげに目を覚ました。
しばらくぼんやりした後、狭い部屋の小さな寝台の上、柔らかな毛布で作られた巣のようなそこで、自分がマリスの寝間着に顔を突っ込んだ状態で寝ていたことに気付く。
すん、と鼻を鳴らすと、マリス独特の少し硬質さがある甘い匂いが感覚を満たしてくれることに喜びがあふれ、しかし同時に寝間着の中身が空っぽであることに静かな苛立ちを感じた。
夜、ずっと自分を腕の中に抱き込んで眠っていたマリスが、朝になるとどんなに嫌がっても出かけてしまうことに腹を立て、彼から離れようとする彼女の寝間着を掴んで離さずに握り続ける、という反抗をしはじめたのはここ数日のことだ。
マリスは困ったようだったが、半分寝ぼけているクロの駄々っ子のようなありさまを怒ったりはせず、するりと脱いだ服で彼の腕の中を埋めるという対処をするようになった。
おかげでクロの生活には、マリスの残り香がある寝間着に顔を突っ込んで二度寝する、という新たな習慣が加わった。
それはそれでなかなかに幸福な時間であったが、目が覚めると今日のように苛立ちがつのるようにもなっている。
クロが離れることを嫌がっても、マリスは毎日、出かけてしまう。
一緒にいる時はあんなにも大事にしてくれて、いい子、と言いながら撫でてくれて、何の見返りも求めずただひたすらに愛してくれるのに。
行かないで、という、たったそれだけの自分の望みを叶えてくれることだけは、絶対に無い。
自分が本当の獣、本物の犬であったなら、こんな苛立ちとは無縁でいられたのだろうか?
傷付き疲れ果て、何もかもが嫌になって行き倒れていたところをマリスに拾われ、なぜか彼女に犬として扱われているうちに、本気で自分は本当は犬だったのではないかという希望を持つようになったのだが。
マリスが玄関の横にかけている、身支度を整えるための鏡をおそるおそる覗き込んで、やはり人間であった己の姿に膝が砕けそうになるくらい絶望したことは、まだ記憶に新しい。
しかし不思議なことに、マリスは最初からクロを犬としか認識しなかった。
クロは精神干渉系も幻術系の魔術も使えるが、拾われた時も今も、そういったものは何も使っていない。
しかも彼は犬を飼ったことも、身近に接したこともないから、犬らしい振る舞いなんてものは真似しようにも知らなくて出来ない。
それなのにはじめから変わらずマリスがクロのことを“犬”として扱ってくるのは、まったく不思議で奇妙なことだった。
おそらくクロの側ではなく、マリスに何らかの問題があるのだろうと思う。
けれど、それがなんだというのだろう。
もとから無精者だったせいで髪もひげも伸ばしっぱなしのボサボサで、しばらくまともに食事がとれず痩せこけた体には幾つもケガを負い、近付いてくる者には手負いの獣のごとく威嚇して。
普通の人間なら絶対に見向きもせず素通りしていっただろう彼を、犬だと思い込んだマリスだけが拾って助けた。
手当てしようとした細い手を拒絶し、俺に近寄るなと脅すように威嚇した彼を怒りもせず、怖がりもせず。
ただじっとそばにいて、彼の荒い呼吸が落ち着くのを長いこと待ち、それから静かな声で「大丈夫、怖くないよ」と語りかけてきた。
彼女の三つ編みにされた長い金の髪は、この国の民にはさほど珍しいものでもないのに、月光に照らされて淡く浮かびあがるように見えたその姿はどこか浮世離れしていて。
五月の森を思わせる鮮やかな緑の目は、けれどどこまでも優しい静けさに満ちていた。
そんな彼女に身をゆだねたのは、自暴自棄になっていたからなのか、もう抵抗する気力も体力も無かったからか。
あるいは他の理由からだったのか。
自分でもよく分からないし、深く考える気もない。
そうしてマリスに拾われて、丁寧にケガの手当てをされ、あたたかい寝床と美味しい食事を与えられ。
疲れきった体が望むまま眠りを貪るのにも、怒られるどころか「よく眠れたね、良かったねぇ」と嬉しげに微笑まれ。
おずおずと伸ばした手は拒絶されることなく、「ん? なぁに?」と甘やかすようなやわらかな声が返り。
これが現実なのだと、にわかには信じられないほど平穏な生活の中、気付けば彼は、むしろ自ら望んで彼女の“クロ”になっていた。
優しく髪をすいてくれる手に、もっと撫でてくれと自分から頭を押し付けるようになったのはいつからか。
そっと寝台に近付いてきて「ただいま」と声をかけてくれる彼女を、この腕に抱きしめたくてたまらなくなったのはいつからか。
我慢しきれず抱き込んだマリスが、ほんのすこしも嫌がる様子を見せず、それどころか抱きしめ返してくれたことに全身が痺れるほど安堵したのはまだほんの数日前のことで、そのあまりの心地良さに以後毎日の習慣になってしまったことだけが確かだ。
マリスの手当てのおかげで傷は膿むことなく癒え、疲れきった体が回復しつつあるのも感じていたが、もうどこにも行きたくなかった。
この部屋に、マリスの帰ってくるところに、ずっといたかった。
どうしてか、マリスは相変わらず彼のことを犬だと思っているが。
それでもクロは、マリスの傍にいるのが心地良い。
そしてマリスも、クロの世話をすることに喜びを感じているように見える。
それなら、それで、いいじゃないか。
今の俺はマリスの犬、マリスの“クロ”。
それで、いい。
それが、いい。
すべての現実に背を向けてクロは毛布の巣の中から身を起こし、背を向け続けるために必須である、執拗な追跡から身を隠すための百七十二の魔術が正常に作動していることをほとんど無意識のうちに確認し、解けないよう幾つか上書きするように術を更新したりパターンを変化させて攪乱効果を維持する作業を行うと、寝台からおりた。
出かける前にマリスが暖炉石を足しておいてくれたのだろう部屋は、金属カゴの中で赤く光るその石の熱に守られ、いまだ春遠い冬のなかにあっても陽だまりのようにあたたかい。
おかげでクロは毛布から出てもさほど寒さを感じず、窓辺のテーブルの前に置かれたイスに座ると、マリスが用意しておいてくれた朝食をとる。
彼がのんびり二度寝していたせいで、彼女が起こそうとしてくれた時には出来立てだったのだろうパンケーキもスープも、とうに冷めている。
けれど、マリスの残り香のようにほのかな甘い香りがするそれは、今まで食べた何よりも美味しくて、彼女と出会うまでしばらく何も通らなかった喉を何の抵抗もなくするすると滑り落ちていくのが、彼にはどこか面白く感じられた。