番外小話「迎え」前編
マリス嫁入り後、息子出産の日。
小さな紙片を手に、宰相カイウス・セレストルは嬉しげな笑みをこぼした。
白髪まじりの黒髪に縁どられた顔は、老齢になってもかつての精悍な面差しを残して威厳を増し、何事も見逃さない鋭い金の目はどこか物憂げであることが常であるのに、今はすべてが和らいでその大きな喜びを示している。
カイウスがクッションに身を預けて座る寝台の傍らに控えていた、白髪に青い目をした老齢の執事は、珍しいその表情に思わず声をかける。
「何か、良い報せがございましたか?」
カイウスは紙片から顔をあげると、「ああ」とため息をつくように頷いた。
その目じりにうっすらと光るものがあることに気付いて、執事は内心驚く。
長く宰相を務めて兄王を補佐し、先ごろ王が崩御して王太子が逝去すると電光石火で第二王子を王に擁立し、勢力図の変化に戸惑い騒ぐ王城の貴族たちを見事に御して新王に跪かせた時でさえ微塵も表情を変えなかった主人が、喜びの涙を浮かべるようなことがあるとは。
若い頃から仕えているが、伴侶となるはずだった女性と引き裂かれて本物の笑顔を失ってしまったカイウスのこのような表情を、彼は初めて目にした。
「良い報せだ。……ああ、本当に、良い報せだ」
噛みしめるような声で言うと、二、三度瞬きをしてその金の目から涙を払い、彼は紙片を折りたたんで執事に「頼む」と渡した。
この紙片は執事を介することなくカイウスの元に届いたもので、そうした秘密の報告書は彼自身かこの執事によって焼却処分されることが常である。
執事は紙片を受け取ると、中を見ることなくサイドテーブルの灰皿の上で燃やした。
金属棒を取って、燃え落ちたその灰を、あらかじめガラス皿の中に入れてある魔術干渉を弾く植物の灰と混ぜることで、魔術によってそれが復元されないようにする。
いつもの手順で紙片が処理されるところをじっと見つめ、すべてが終わるとカイウスは安堵したように深い息をついてその身を寝台に沈ませた。
「お休みになられますか?」
「そうだな。今なら薬がなくとも、よく眠れそうだ。……きっと、良い夢を見られることだろう」
王城の薬師が調合した、眠りに導く薬がなければまともに眠れない生活を続けてきたカイウスからそのような言葉を聞くのも、かつてないことである。
執事はしかし、何も聞かず「それはよろしゅうございますな」と微笑んで応じ、主人がよく眠れるよう背のクッションを外して寝台を整えた。
「ありがとう。……お前にはずいぶんと、世話をかけた」
寝台に横たわったカイウスが、魔導具の明かりを落とす執事へつぶやくように言う。
王族出身で文官最高位の宰相という座につく人とは思えないほどの人格者である彼の主人は、日頃から下位の者にも礼の言葉をよくかけてくれる気遣いの細やかな人だ。
ゆえにこうした言葉も珍しいものではなかったのだが、なぜかこの時、執事は返答に詰まった。
けれどその動揺を決して表には出さず、全身全霊の力を尽くして、いつもと同じように返す。
常と何も変わりなく、主人が憂いなく穏やかな眠りにつけるように。
「もったいないお言葉でございます。どうぞ、ごゆっくりお休みください」
明かりの落ちた部屋で、けれど執事の動揺を見透かすようにふと小さく笑い、カイウスは「ああ」と応じてまぶたを閉じる。
足音を忍ばせて主人の寝室を辞した執事は、そっと閉じたその扉の前からしばらく動けなかった。
すでに夜の静寂の降りた王都の邸宅の奥、廊下で立ちつくす彼の老いた肩が震えるのを見るものも、完璧なまでに押し殺された嗚咽に気付くものもないままに、やがて執事はふらつく体でどうにか自室へ戻る。
夜がゆっくりと、更けてゆく。
領主館の主寝室の寝台で、それまでぐっすりと眠っていたマリスは唐突に体を強ばらせて飛び起きた。
その直後、体中に走った痛みにうめきながら荒い息をつくはめになる。
「……マリス? どうかしたのか? まだそんなふうに起きあがってはだめだ」
隣で眠っていたゼレクがすぐさま目を覚まし、寝台の上でうずくまるように体を丸めて痛みに耐えるマリスの背にそっと手を当てた。
先ほど彼の息子を出産したばかりのマリスは、赤ん坊を乳母に預け、今日はよく休むようにと言われて寝台に入ったところだ。
兵士として訓練され、長く戦場で生きてきたゼレクは、体の感覚だけでまださほど時間が経っていないことが分かる。
そして彼の妻に今何よりも必要なのは、休息だ。
出産を終えたばかりで疲弊した小さな体が痛みに震えるのに寄り添い、心配そうに背を撫でて休むよう促すゼレクに、しかし彼女は波打つ金の髪を揺らして首を横に振る。
そして。
「クロちゃん……、声が。誰か、女のひとの、呼ぶ声が聞こえて……、でも、よく分からないの、遠吠えみたいな声で……」
少しして痛みがやわらいだのか、うずくまっていたマリスが顔を上げてそう言った。
痛みに潤んだ新緑の目で、やや混乱した様子の彼女が「聞こえなかった?」と問うのに、彼は首を横に振る。
「いや、俺には何も」
聞こえなかった、と答えようとして言葉を失う。
彼の耳にまさにその瞬間、それが届いたからだ。
――――――オオォォーーーン!
マリスには聞こえていないらしいそれが狼の遠吠えだと、なぜか教えられずとも分かった。
その雄々しい遠吠えを放った狼が誰であるのかも、どうしてマリスが遠吠えを聞いて呆然とした顔になったゼレクを見て、はっと息をのんだのかも。
長く尾を引いてゆっくりと消えていったその遠吠えの余韻が遠ざかると、どちらからともなく腕をのばしてゼレクとマリスはぴたりと抱き合った。
どくどくと激しく鼓動するゼレクの胸に頬をつけ、伏せられたマリスの目から涙があふれて、とめどなく流れ落ちてゆく。
「……あなたの、孫が、……元気な男の子が、生まれましたよって。いつか会って話して、抱いてやってもらいたかったのに……! ああ、せめて、無事に生まれたことを伝えたかった……!」
ゼレクの本当の父、宰相カイウス・セレストルが、長く引き離されていた番の迎えを受けたのだと。
いったいどんな力の働きによるものなのか、彼のいる王都から遠く離れた辺境の地で、その番たちの呼び合う遠吠えによって彼の死を知ってしまった二人はすぐには受け止めきれず、ただ固く抱き合っていた。
けれど嘆くマリスもそれに答えられないゼレクも、間もなく落とし穴に落ちるように眠りへと飲みこまれる。
抱き合ったまま崩れ落ちるように寝台へ沈んだ二人の、小さな寝息だけが寝室にこだまし、カーテンの隙間から射し込む月光が、寝台の上に波打つように広がるマリスの金の髪と、彼女の目じりにたまった涙を淡く輝かせた。