最終話「犬を拾った、はずだった」
真昼の空に夜が降り、そこから白い星が流れて西離宮のそばの山を吹き飛ばしたという話は、一日とかからず国中を駆け巡った。
空が一時的に真っ暗になったのはこの国だけのことではなく、話に聞こえるかぎりほぼすべての地で起きたことだったらしく、後日それを知った宰相はゼレクの持つ黒狼としての神威が本物であったことに震撼した。
もしもあの時、マリスが王に殺されてしまっていたら、天にあった無数の白い光のすべてが大地を貫き、全世界が本当に焦土と化していたのかもしれない。
だがそれはそれとして、その凶事の予兆とも思える現象に怯える民に、彼は安寧をもたらさなければならない。
吹き飛ばされた山は西離宮に近い王家の所有地であったため、民家などは無く人的被害が無かったのは幸いだったが、それでも王家の領地に流星が落ちたという話自体が民心に不安をかきたてるものである。
そこで時をおかず、宰相は国王の崩御を国中に伝えた。
あの真昼の夜と流星の大破壊は、凶事の予兆ではなく、国王の崩御という悲報を告げるものであったのだ、と認識をすり替えたのだ。
人々は隣国との戦に勝利をおさめたばかりの国王の、突然の崩御に驚き戸惑いながらも、あの真昼の夜と流星が、これから起きる凶事の予兆ではなく、すでに起きてしまった凶報を告げる使者であったことを受け入れた。
そして以前から体調を崩して床に伏していた王太子の第一王子も、その悲報に耐え切れず後を追うように逝去なされた、という続報が伝わると、民衆の認識は完全に固まり、国中が国王の崩御とともにあまりにも早く訪れた王子の死を悼み、喪に服した。
これが政治というものなのか、と複雑な思いを抱えながら、あの日のすべてを知るマリスは王城魔術師の一人として、新たな王に擁立された第二王子が宰相カイウス・セレストルに補佐されて国葬を執り行う式典に参列した。
そしてさすがに欠席を許されなかったゼレクが、救国の英雄、第一師団の団長として黒を基調とした正装の軍服で同じ式典に列席し。
公の場ではじめて兜を脱いで身を整えた彼が現れた瞬間、すべての人々がその存在に目を奪われてさざ波のようにざわめくのを、どこか遠く眺めていた。
朝、同じ寝台で目覚め、向かい合ってマリスが用意した食事を食べていたことがまるで夢のように思える。
それほどに、ただそこにいるだけであらゆる人から強烈な畏怖や羨望や憧憬を勝ち取る彼は、その他大勢の中に何の違和感もなくとけこんでいる彼女とは、違う世界の人のように見えた。
犬だと認識していた時には、考えなかったことを考える。
自分は彼にふさわしいのだろうか、と。
「捨ててもいい、マリス」
第一師団長としての仕事を再開したゼレクは、忙しい日常の中でもマリスの変調を見逃さず、ある時、ふと不安をこぼした彼女にそう言った。
「俺はお前がいないと死ぬが、お前は違う。そしてそれは、お前のせいじゃない。だから、本当に俺のことが重荷なら、お前は俺を捨てていい」
いまだに話すのが苦手なゼレクは、端的過ぎて誤解されがちな言葉を不器用につないで、マリスに言う。
そしてその不器用な言葉が、彼女の胸を鋭く突いた。
本当に?
本当に、私は彼がいなくても、生きていける?
「だめ」
考えるまでもなく、反射的に心が叫んで言葉がこぼれる。
「きっと私も死んじゃうから、だめ」
その言葉を聞いた時の、心の底から幸せそうに笑ったゼレクの顔が、マリスの体の一番深いところに刻み込まれたような気がした。
数ヵ月後、後継者のいない辺境伯の元にゼレクが養子となって入り、名をゼレク・サウザーミストと改めた。
王都より隣国との国境に近いといえば近かったが、とくに要衝という位置でもなく、特産品も無ければ目立つような事業もない、さびれた辺境都市があるだけのこの地になぜ救国の英雄とまで呼ばれた男が、と誰もが不思議に思ったが。
ともかくこれによって軍学校に入った時からほぼ絶縁状態だったウィンザーコート伯爵家とは、完全にその縁を切ることとなる。
そして次期辺境伯となった彼は養父、現サウザーミスト伯オルズベルの協力を得て数週間で準備を整え、王都から花嫁を迎えた。
ゼレクの妻となった彼女の名は、マリス・サウザーミスト。
救国の英雄が次期辺境伯となってくれただけでなく、誰に対しても見下すことなく真っすぐに話をしてくれる優秀な魔術師が花嫁としてやってきてくれたことに、領民達は大喜びで歓迎した。
そして長年後継者探しに頭を痛めていたサウザーミスト伯を筆頭に、領民達は二人の結婚式が華やかで楽しいものとなるようそれぞれが協力して、永遠の誓いを交わす二人を心から祝った。
その騒ぎの中で幸せそうに笑う妻を眺めて、ゼレクは結婚式が無事に終わると彼を慕って第一師団から居を移した部下を率いて着々と辺境の防衛体制を整え、マリスにどんな危険も及ばないよう、都市と街道の安全を確保する。
ゼレクの師団長退任から時をおいて第一師団を後進に委ねたジェドやフォルカーも、辺境に移り住んでそれに協力し、しばらくすると昔馴染みに遅れて彼らもまたそれぞれに伴侶を見つけ、身を固めた。
そうして救国の英雄が辺境都市を中心としたサウザーミスト伯爵家の領地を守護するようになると、情報に敏感で安全を優先する商人たちがこの都市を交易地として使うようになった。
そこへさらに次期辺境伯夫人であるマリスが魔術師としての研究を続けていることが商人たちを通じて知れ渡ると、魔術に関する雑多な学術書が集まってきて、いつの間にか古書市とそれ目当ての学者街まで出来上がってしまった。
石造りの古びた領主館をはじめとして、さびれた辺境都市はもともと石造りの建物が多かったのだが。
その間を縫うようにして商人たちが急ごしらえの天幕で商売を始め、長期滞在する学者たちのための木造家屋が造られ、あるいは彼らが話し合いをするための天幕も無数に並び立つようになり。
辺境都市は、だんだんと複雑なモザイクタイルのように独特な模様で彩られていった。
そんな中、元が孤児院出身の庶民であるマリスは、次期辺境伯の妻となっても気軽に街へ出かけて商人や学者たちに話しかけては人の輪を広げてゆくので、古書市や学者街は今もなお拡大の一途をたどっている。
その行動を許すゼレクに手厚く守られて自由に学び、魔術師としての研究もできるようになったマリスは純粋にそれを喜んでいて、自分のその振る舞いがさらに人々を呼び込んでいることにはまるで気付いていなかったが。
「まさか、こんなに賑やかなところになるなんてねぇ」
分野の違う雑多な学術を学ぶ学者たちが、学者街の中で一番大きな天幕に息子を連れて現れたマリスを取り囲み、しかしあっという間にその関心を無邪気に笑う幼子に向ける。
父親譲りの黒髪と母親譲りの緑の目をした息子、クレスタ・サウザーミストは、誰に抱かれても笑っている豪胆で人懐っこい性格で、マリスの手を離れると次々と顔見知りの学者たちの腕に抱かれて大はしゃぎしながら、天幕の中を隣から隣へ手渡しされて移動してゆく。
そんなクレスタの行く先々で、普段は気難しげな顔をした学者たちが珍しく笑みくずれて楽しげな声をあげるのを見守りながら、マリスは微笑んだ。
犬を拾った、はずだった。
それがどうしてか、次期辺境伯夫人になって、一児の母にもなった。
そして犬だった夫と暮らすようになった、さびれた辺境都市は、なぜか今やそこそこ有名な学術都市として栄えていた。
世界は不思議に満ちている。
「マリス」
ふいに、領地の見回りから戻った夫が騒ぎを聞きつけて天幕をのぞき、どんな喧噪の中でも耳に届く独特の声で彼女の名を呼んだ。
マリスは彼の方を振り向くと、鮮やかな緑の目にゼレクの姿を映し、にっこり笑って両手をひろげる。
「おかえりなさい、クロちゃん」
人であふれた天幕の中、誰を押しのけることもなく、すり抜けるような身ごなしで難なくマリスの元に辿り着いたゼレクは、たおやかにひろげられた妻の腕の中にぴたりとおさまった。
片腕を彼女の腰に回して抱き寄せながら、彼と比べるとずっと小さく柔らかな手をとり、その手のひらに頬をすり寄せる。
どこか獣の挨拶に似た仕草に、そして彼女の手のひらの中で彼がかすかな吐息をこぼし、金まじりの琥珀の目をやわらかくとろけさせたことに、マリスの愛しげな笑みが深くなる。
「ただいま、マリス」
かつては「ん」と頷くだけでも精一杯だったゼレクが、この言葉をごく自然に口にできるようになったのはまだ最近のことだ。
けれどそれはゆっくりと生活の一部になりつつあり、マリスにだけ聞こえるくらいのささやきで戯れるように返されるようになったりもしている。
そんな日々の中、今日も手のひらのなかに落とされたその戯れに、くすりと小さく笑ったマリスが応じた。
抱き寄せられたゼレクの腕の中によりいっそう身を寄せて、甘えるようにふわりともたれかかってきた彼女に、満足げな笑みが返される。
そうして二人がぴたりと寄り添うと、彼らの胸元に揺れる銀色のタグが一対のものだと誰もが気付いたが、それがどんな由来でそこにあるのかを知るのは世界にただ四人だけ。
愛情深い妻に支えられたゼレク・サウザーミストは、類稀な彼自身の武勇と有能な部下たちの働きにより、後に辺境にその人ありと謳われる有力な領主となる。
そしてそんな彼が自分をその変わった愛称で呼ぶことを許したのは、生涯でただ一人の妻だけだったと、領民たちは親愛を込めておかしげに語り継いだ。
2019年4月18日、本編完結。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
引き続き、番外の更新をしていきますので、よろしくお願いいたします。