番外小話「ある花束の事情」
ゼレクの師団復帰後、王都でのある日。
究極の面倒くさがり男、と幼馴染みに評されるゼレク・ウィンザーコートにはひげ剃りの習慣がない。
マリスが彼のことを犬だと思い込んでいた時は、無意識に彼女がそれも含めて世話していたが、二人ともに仕事に戻ると、ゼレクは自分で毎日それをするようにと言われ肩を落とした。
面倒くさい、というのもあったが、単純に、彼はマリスに自分の身の世話をしてもらうのが好きだから、その機会が減ることが寂しかったのだ。
しかし。
「奇麗に剃れたねぇ。クロちゃん、とっても上手だよ」
にこにこ笑うマリスに褒められて頬を撫でられると、これなら毎日やってもいいかもしれない、と思うあたり彼はとても素直だった。
この場にジェドがいたら半眼で「いやチョロすぎだろお前」とつっこみ、フォルカーがいたら生ぬるい眼差しでボソッと「調教師……」などとつぶやきそうだったが、幸い彼らはここにいない。
無論、今までそれをやったことのなかったゼレクが最初からうまくできるはずもなく、褒めながら剃り残しがあるのを目と手で確認したマリスが、「あともう少しだけ剃れるようになったら、もっと奇麗になるね」と言いながら仕上げをしてやっていたが。
ちなみにマリスがゼレクの散髪もひげ剃りもうまくできるのは、孤児院で暮らしていた頃にそうした技術を身に付けていたからだ。
散髪は、年下の子の世話をしているうちに見よう見真似で覚えた。
そして孤児院のそばにあった教会に身寄りの無い老人が世話されている宿舎があり、領主の方針で「助け合いが大事だ」ということを学ぶためにマリスたち孤児は彼らの話し相手になったり、その世話を手伝ったりする時間が設けられていた。
そこでマリスは子供たちの散髪が上手にできることを見込まれて、老人たちの散髪とひげ剃りも任されていたのである。
結果的に魔術師になったので、あそこで身に付けた技術が活用されることはもう無いかもしれないと思っていたのだが。
世の中、何が役に立つか分からないものだ。
「それで? なんで今日のお前はそんな不機嫌なんだ?」
水面下で暗躍する宰相の動きを小耳に挟みつつも、平穏な日常を送っていたある日。
朝から険しい表情で出勤してきたゼレクに、出くわすなりジェドが聞いた。
面倒くさがりのゼレクは、こうして真っ向から質問してやらないと何も言わないのが分かりきっているからだ。
いくら幼馴染で補佐官のジェドといえど、しょっちゅうゼレクにかまってばかりいるわけにはいかないので、実害が無ければ放置しておきたいところだが。
機嫌の悪いゼレクは、普段でさえありあまるほどありすぎる存在感を、部下が命の危険を感じて一定距離以上絶対に近付かないようにするほど物騒なものにするので、仕事に差し障るという実害が発生するのである。
幼馴染だから、というだけの理由で昔からワンセットにされて迷惑をかけられ続けてきて、いいかげんその性格に慣れてはいたが、上官としても厄介であるこの現実に内心ため息が尽きない。
「……マリスに叱られた」
「そのうち絶対そうなるだろうなぁとは思ってたよ、俺は。それで、何やらかしたんだ?」
「なんで俺がやらかした前提なんだ」
「でもそうなんだろ? 解決策教えてやるから、ほれ、さっさと何やらかしたか吐いちまえ」
驚きもせず淡々と言って、心なしかオレンジ色の目で呆れたように見下ろしてくるジェドを、身長はこちらの方がやや高いはずなのにどこか恨めしげな目でゼレクが睨み上げる。
しかし解決策を教えてやる、と言われたのが大きかったのだろう、しぶしぶながら不器用に言葉を並べて話した。
「くそバカップルめ……」
そうしてその内容を聞き終えたジェドが、赤みがかった金髪に片手を突っ込んでうなりながら絞り出した、最初の一言がこれである。
つまりはゼレクを不機嫌にしている「マリスに叱られた」というその内容と顛末は、犬も食わない痴話喧嘩以下の、喧嘩にすらなっていないささいな出来事であったのだ。
独り身で、忙しすぎて恋人を作る暇もないジェドにとっては、俺に惚気るんじゃねぇ、と叫びたいほどのくだらない話だ。
それは、マリスに日々たっぷりと甘やかされたゼレクが、とうとう夕食の支度をする彼女にじゃれついて離れなくなってしまったのを厳しく叱られ、寝る時まで一切の接触を禁じられた、というだけのことだったのである。
しかも接触禁止令を解いたマリスは、「忙しい時はもう邪魔しちゃだめだからね」と優しく言っただけで許し、あとはいつものように寝台で一緒に休んでくれたというのだから、彼女はどれだけ甘い飼い主なんだ、と思わずにはいられない。
ジェドとしては、もっと厳しく躾けてくれていいんだぞ、もっと厳しく、と言いたい気持ちでいっぱいだ。
しかしそんなジェドを、話したんだから解決策を教えろ、と無言でゼレクが威圧する。
食事の支度を邪魔して叱られたのは昨日の夜のことらしいが、どうも今日の朝食の時も「だめだからね」と言われて近付かせてもらえなかったので、これはちゃんと許してもらえてないのではないか、と彼は気が気ではないらしい。
ジェドは、いやそれ単純にお前が邪魔なだけなんじゃね? マリス嬢は今まで言うの我慢してただけだろ、と口にしかけて、やめた。
迂闊なことを言ってもしゼレクが落ち込んでしまったら、拗ねて今日の仕事を放棄してしまいかねない。
大人としてそれはどうなのか、と思うこともあるが、そういうことを何の違和感もなく平気でやってのけるこの男が師団長であることは確かなので、補佐官としては、そんな事態は出来るかぎり避けなければならないのである。
そして口をつぐんで改めて考えてみれば、『人間』としての経験値が低い、どころかゼロに近いゼレクにとって、マリスとのこうしたコミュニケーションは何もかもが初めてで手探りの状態なのだと思い至った。
忙しい時に図体の大きなゼレクに周りをうろつかれて無駄に煩わされたというのに、軽く叱って短時間の接触禁止令を出しただけで許すような彼に甘いマリスでなければ、とうに破局していたのではないか、という場面も今まで多々あったであろうことは想像に難くない。
しかしこの先、マリスが経験値ゼロのゼレクに耐え切れず破局してしまう可能性も、無いとは言いきれないわけで……
考えたくもないことを一瞬考えてしまい、そうなった時にゼレクがもたらすであろう地獄絵図が頭を過ったのを無理やり振り払ったジェドは、思考を切り替えた。
幸い今はそうはなっていないし、ゼレクに甘いマリスは、彼がその年齢の人間の男としてはおかしな行動をとっても、元が犬だと思い込んでいたこともあって非常に寛容である。
ならばジェドがやるべきは、ゼレクにこういう時のマリスへの謝罪の仕方を教えてやることだろう。
頭を過った地獄絵図が現実にならないよう祈りつつ、ジェドはできるだけいつもの口調で軽く言った。
「しょうがねぇな。後で誰かに花買いに行かせるから、お前は今日帰る時にそれを持ってって、マリス嬢に渡せ。そんで、昨日は悪かった、っつって謝れ」
「……それだけか」
そこはかとなく不満げなゼレクを、せっかく助言してやってんのに文句つけんじゃねぇ、とばかりに睨み返し「それだけだ」と応じる。
しかしこの案にゼレクが納得しなかった場合、彼がどんな余計なことをしでかすか不安に感じたのも事実だったので、仕方なく言葉を付け足す。
これも地獄絵図の予防のため。
「心配しなくても、花もらって怒る女はそうそういねぇよ。マリス嬢はお前みたいなどうしようもない奴でも見捨てないような優しい女だし、そう怒ってるふうでもなかったんだろ? ちゃんと受け取ってくれるさ」
本当にそうなのか、と、どこか不審げな顔をしながらも、最終的にゼレクは「分かった」と頷いた。
そうしてやっと彼が気を落ち着けたので、しばらくすると師団長の決済待ちの書類を抱えた部下が遠慮がちに扉をノックする音が響く。
やれやれ、とため息をつきながらそれを受け取って仕事を始めたジェドは、ゼレクに書類を処理させてから昼休憩に入ると、ふと思いついて一人の部下を探しに行った。
ちょうど食堂で昼食を取っているところだった彼を見つけると、おい、と声をかける。
「前に言ってた花売りの娘、名前くらい聞けたのか?」
「えっ? ……はっ?」
師団長補佐官からの急な質問に目を丸くする彼に代わり、周りにいた兵たちが口々に状況を教えてくれる。
「それがまだなんですよ」
「こいつヘタレすぎて笑えますよ」
「いっつも影陰から見てるだけだもんなー」
「そのうち不審者通報されて警邏兵に捕まりそうです」
「あの娘可愛いから、早く声かけないと他の男に取られるぞって言ってるんすけどねー」
「あー、取られてからも影から涙目で見てるところが目に浮かぶ」
「うっわ、それマジで不審者じゃねぇか」
「お前それだけはやめとけよ。ヤケ酒くらいは付き合ってやるから」
言いたい放題に言われっぱなしの当人は、もうすでに涙目である。
赤い顔で「うるさい!」と叫びはしたものの、言われている内容や予想は正しいらしく、返す言葉に詰まっていることは一目瞭然だった。
「なるほどな」
そうして言われっぱなしの彼に何を思ったのか、ニンマリ笑ったジェドが命じた。
「じゃあ、お前、これからその娘のところに行って、彼女が今日持ってる花ぜんぶ買ってこい。代金はこっちで出すから。そんでその娘の名前、聞き出して来い」
「はいぃ?!! な、なんでそんなことッ?!」
飛び上がらんばかりに仰天した彼が椅子から転げ落ちそうになるのを笑って眺め、ジェドは用意していた代金を握らせると「行け」と容赦なく命じた。
上官のその声に、悲しきかな条件反射で起立、敬礼した彼は「はっ!」と即応して走り出す。
そうして反射的に走り出した後でさらに情けない涙目になった彼の背を見送り、ジェドは満足げに頷いた。
「よし! 俺いいことしたな! 怒りを善行に変える俺、素晴らしいな!」
いつの間にか静寂の降りた食堂で、部下たちから鬼を見るような目で見られていたが、すっきりした顔のジェドは恥ずかしげもなく堂々と自画自賛すると、自分とゼレクの分の食事を受け取ってさっさと出て行ってしまう。
その後、残された兵たちは一つのテーブルに集まって、花を買いに行かされた彼が無事に花売り娘の名前を聞き出せるかどうか、賭けをすることにした。
「もしダメだったら、あいつ連れて飲みに行こうな」
その言葉に、今にも葬式が始まりそうな沈痛な表情で皆が頷く。
そうして集まった賭け金がどうなるかは、神のみぞ知るところである。
その日の夜、何をどうすればいいのか分からないゼレクが、マリスの部屋に帰るなりずいっと花束を突き出して言った。
「悪かった。……昨日」
「えっ? 昨日?」
精悍な顔立ちをした長身のゼレクにはまるで似合わない、ピンクや白や黄色の花を束ねた可愛らしい贈り物が強引に差し出されるのに思わず受け取りながら、なにかあった? と、きょとんとした顔でマリスが首を傾げる。
それから少し考えて、彼が何を言っているのかにようやく思い当たった彼女は、花束を抱いて笑った。
「ええ? もしかして食事の前の時の、あれのこと? もう、あんなのぜんぜん気にしなくていいのに! ……でも、お花、ありがとう。クロちゃんからの、初めての贈り物だね。すごく、嬉しい」
ちょっと照れて、どこか気恥ずかしそうに頬をそめたマリスがうつむきがちに言うのを見て、ゼレクはざわりと体が騒ぐのを感じ、戸惑った。
マリスといる時のこうした奇妙な感覚を、彼はまだうまく理解できずにいる。
けれどマリスが喜んでくれることが、自分にとっても嬉しいことなのだというのは分かった。
「……ん」
何と答えればいいのか分からず、その場に突っ立ったまま小さく頷いた彼に、マリスが「あ」と思い出したように言う。
「おかえりなさい、クロちゃん」
その言葉でようやくほっと息をついたゼレクが、マリスの傍へと歩み寄る。
彼女の手の中にある可愛らしい花束に、どんな事情が詰まっているのかまったく知らない彼らに、そうしていつもの穏やかな日常が戻った。
蛇足の後日譚。
ジェドに花売り娘の名を聞き出すことを命じられた彼は、テンパって勢い余ったあげく、名前を聞き出す前に「お付き合いを前提に結婚してください!」と死にそうな顔で申し込んでしまい、その決死の勢いと第一師団の軍服に気圧されて上げた「はひぃ!!」という悲鳴が「はい」という返事として受け取られてしまった花売り娘と流れで結婚することになりました。
いったいなぜそうなったのか、当人である二人ともがしばらくそれぞれ首を傾げていましたが(原因:娘が大通りで花を売っていたため、たまたま近くにいた通行人全員が証人と化し話が広がる→彼が戻るより先に第一師団までその告白劇が伝わる→本人たちが事態を認識する前に周囲が「おめでとう!」の嵐と化した)、彼が花売り娘にベタ惚れだったせいでだいたいうまくいき、そこそこの額が集まっていた賭け金は急遽開かれた祝宴代になったそうです。
ちなみに名高い第一師団の一員は花売り娘に名前を聞くつもりでうっかり公開プロポーズした後、「あ、花、ください」と言って「アッ、ハイ」と応じた娘から持っていた花をすべて買い取り、花束にしてもらってジェドの元に持ち帰りました。命令完遂。不審者通報回避。……かと思われた夜、賭け金による祝宴時に「そういえばまだあの娘の名前聞いてない」と気付いて、「お前何してんの?」と仲間全員から呆れられるはめになりました。
↓ その頃の上官たち in 別の飲み屋
ジェド「納得いかねぇ! なんで意味不明なバカップルが増えて俺はまだ独り身なんだ?!」
フォルカー「自業自得、としか言いようがないですねぇ。まあ、良いことしたんですから、いいんじゃないですか」
ジェド「くそー! こうなったらあいつの結婚式は絶対に俺が仕切ってやる! 美味い酒揃えさせて祝うついでに飲みまくってやるー!!」
フォルカー「この忙しい時に部下の結婚式の手配……。なんだかんだ言いつつ、面倒見いいですよねぇ……」
~完~