番外小話「人間一年目」
ゼレクの師団復帰後、王都でのある日。
「今すぐマリスのいるマリスの部屋に行きたい」
「マリス嬢は仕事中だ。そしてお前も仕事中なんだよこのボケ。さっさとその書類片付けろや」
仕事中、唐突にペンを放ってそんなことを言い出したゼレクに、落ちたペンを拾ってその手に押し付けたジェドが、いつもながらの彼のやる気の無さにうんざりしつつも容赦なくせっついた。
反乱組織や犯罪者集団の鎮圧、捕縛を命じる緊急出動には誰よりも素早く動き、慌てて後を追う部下たちを背にサクサクと一人で片付けてしまうくせに、書類仕事となるとカタツムリよりもその動作は遅く、しかもカタツムリよりもやる気がない、というのがゼレク・ウィンザーコート師団長という残念な上官である。
「マリス……」
押し付けられたペンを嫌そうに握ったものの、しかしいっこうに仕事を再開しようとせずぼんやりつぶやく師団長に、「まだ言うか」と補佐官の顔が引きつった。
「いや、呼んでも来ねぇし行かせねぇからな? っつーか、マリス嬢が仕事中だってことくらい分かってるだろ。今、あの部屋に行ったって誰もいねぇぞ」
「関係ない。俺は、マリスのいる、マリスの部屋に行きたいんだ」
同じことをまた言われてうんざりしながら、ジェドはふと気付いた。
珍しい。
ゼレクと「会話」しているぞ? と。
無言で頷くか、黙ったまま無反応でいるか、その場からいなくなってしまうのが長くゼレクの“返事”であったので、時折ほんのわずかな言葉を口にすることですら「珍しい」と思われる彼と、まさか会話できる日が来ようとは思わなかった。
マリスと出会って様々な経験をして、野生の猛獣のようだったゼレクが「人間」になってからまだそれほど時は過ぎていないが、それでも前よりずっと成長しているらしい。
長い付き合いのある幼馴染みのジェドでさえ珍事として数えられるその成長に免じて、今だけはこの会話に付き合ってやろう、と彼にしても珍しく寛容に応じた。
「つまりお前は、記憶の中にある“マリスのいるあの部屋”に戻りたいのか。
そりゃあ、あれだな、『帰りたい』ってやつだな。俺もよくあるぞ。とくにお前の相手してると、むしょうに『帰りてぇ』と思う」
返事の中にうっかり恨み言が混じったが、これまでかけられてきた苦労を思えば可愛いものである。
そしてそんな恨み言などまるで気付いたふうもなく、「違う」とゼレクが反論してきた。
「『帰る』は、寝床に戻る、だろう。俺は寝床に戻りたいんじゃない。マリスのいる、マリスの部屋に、今すぐ行きたい」
「はぁ? だから、それが『帰りたい』ってやつだろ? ……って、ああ! そういうことか!」
ジェドはぺちっと自分で自分の額を叩いた。
そして、こいつはいきなり何をしているんだ、と怪訝そうな様子で見てくる幼馴染みを、思わず指さして言う。
「お前、『帰りたい』と思うの、これが初めてなのか! そんで、今まで『帰る』ってのは寝床に戻るって意味しかないと思ってたのか!
ああ、あー……。ゼレク、お前、マジで、人間一年目なんだなぁ……」
なんだかみょうにしみじみとした口調で言われ、ゼレクはその声にまじる憐れみを察知して、それが何であるかは理解できなかったものの不快そうな様子でむすっとした顔になる。
しかしジェドはジェドで、こちらもそんなことなど気にしたふうもなく、遠い目でつぶやいた。
「分かっちゃいたけど、信じらんねぇな……。俺らもう三十過ぎだぜ……。それなのに、なんで俺は今さら幼馴染みが赤ん坊から幼児に成長したところを見せられてるんだ……?」
事情は知ってるが意味が分からん、と、ジェドはため息をついた。
慣れないことはするものではない。
やはりこの男の情操教育と躾は、飼い主兼調教師兼恋人である彼女に任せよう、と思う。
「もういい。この話は終わりだ。どうしても気になるなら仕事が終わって帰ってから、マリス嬢に聞いてみろ」
一方的に話を打ち切って仕事を再開させたジェドに、マリスに聞く、という一点で納得したゼレクが頷く。
そして、副官が(こいつ本当に扱いやすくなったなぁ)と心の中で思っているとは気づきもせず、相変わらずやる気は皆無であったが、ともかく再び書類仕事にとりかかった。
「マリス。……いいか?」
夕食の片付けを終えたマリスは、みょうにおとなしいゼレクが遠慮がちに名を呼び、おずおずと伸ばしてきた手に自分の手を乗せた。
「いいよ。クロちゃん、今日はなんだか元気がないね。お昼に何かあったの?」
ゼレクが異形と化したあの日、マリスの、本人には自覚の無かった熱烈なプロポーズによって周囲は二人を結婚前提の恋人として認識したが、当人たちはいまだ飼い主と犬のような関係のままである。
あれから言葉を使ったコミュニケーションがとれるようになった、というのが進歩といえば進歩なのだが、ゼレクの書類仕事並みにその歩みは遅い。
なにしろ二人とも恋人がいた経験の無い者同士であるため、「恋人、とはなんぞや?」という、そこは未知の領域なのである。
あるいはマリスが、思春期に魔術師の修練に没頭したり、王城魔術師の職についてその仕事に忙殺されたりしていなければ。
もしくはゼレクがもう少し社会性を持って兵たちの話の中に入っていれば、自然とそういった情報は得られていたはずなのだが。
残念ながら両者ともに持ち合わせがなかったので、後に、おもにマリスがそのツケを支払わされるような大変な苦労をするはめになるのだが、それはまた先の話。
「今日、昼に、ジェドと話した」
寝台に座ったゼレクに手を引かれ、自然とその膝に乗る形になったマリスが、掴まれている方の手はそのままに、空いている腕を伸ばして彼の頭を包み込むように抱き寄せ、指を差し入れてやや硬質な感触の黒髪をすいてやる。
それに気持ち良さそうに金まじりの琥珀の目を細めたゼレクが、マリスの手を離して両腕で彼女の小柄な体をぎゅっと抱きしめた。
「どんな話をしたの?」
あきらかに恋人でしかありえない体勢で、それなのになぜか甘い空気にならない飼い主は、ごろごろと懐いてくる大きな愛犬を空いた両手で撫でてやりながら優しく問いかける。
黒髪の大型犬は主人の細い手に撫でられるのにうっとりしていたが、かろうじて答えた。
「俺は今日、はじめて『帰りたい』と思ったんだと、言われた」
話すのが不得意なゼレクの言葉から、彼が何を言わんとしているのかを正確に理解することは困難である。
それは幼馴染みのジェドですら時々「何が言いたいのか分かんねぇな。まあ、とりあえず、やってみろ」と解読を放棄して、やらせてみれば分かるだろう、などという脳筋的発想に走るほどだ。
ちなみに、実際にやってみせても理解される確率は低いため、ゼレクはめったに自分から何かを提案することはなく、思いついたことは即実行することによって意思表示をすることにしている。
彼にとってはそれが一番確実であり、たまに周囲に多大な被害をもたらすこともあったが、たいていはそれでうまくいったからだ。
しかしゼレクは、マリスとは話したかった。
なぜかは分からない。
ただ、不器用な言葉にじっと耳を傾け、理解した内容をまとめて「こういうことかな?」と訊ね、その鮮やかな緑の目に彼を映してきちんと意思を確認しようとしてくれる彼女と“話す”ということが、ゼレクはとても気に入っていた。
そうしてたどたどしくも、互いの言葉を繋げていった結果。
どうにか昼間のゼレクとジェドの会話と、その意味を理解したマリスは、泣きそうになった。
「ううっ……! クロちゃん、苦労したんだねぇ……!」
今まで『帰りたい』と思える家が無かっただなんて、この子はひどいケガをしていただけでなく、帰る先を心に思い浮かべることもできなかったのかと、それはなんという辛いことかと、涙目でぎゅうっとゼレクを抱き返す。
「この部屋はクロちゃんにはちょっと狭いだろうけど、いつでも帰ってきてくれていいからね……! ここはもう、クロちゃんの部屋でもあるんだから……!」
半泣きの涙声で言いながらぎゅうぎゅう抱きしめられて、その細腕の中でゼレクは深く息をついた。
マリスの言葉を聞きながら、彼はその時、ようやくジェドの言ったことの意味を理解したのだ。
――――――今まで『帰る』ってのは寝床に戻るって意味しかないと思ってたのか!
ゼレクの認識では「マリスのいる部屋に行きたい」が正解であったはずのその衝動は、ジェドが言う通り、確かに『帰りたい』だった。
そして彼が『帰りたい』と思ったのは、寝床でも、マリスが「いつでも帰ってきてくれていい」と言ってくれたこの部屋でもなく、“ここ”だった。
彼を思ってこれほど強い感情を抱いてくれるマリスの、腕の中。
世界で一番、ゼレクが安心して目を閉じられるところ。
恋人にしか見えないのに、まだそこに至るには距離のある二人は、やや思考がすれ違ったまま互いをぎゅうぎゅうと抱きしめる。
ゼレクは時おり彼の髪を撫でるマリスの指の優しさを、どうしてか少しもどかしく思いながら、ふと、気が付いた。
じゃあ俺は今、帰りたかったところに、帰ってきたんだな、と。
翌日からゼレクの仕事中の口癖が「帰りたい」になり、数日後、あまりにもそれが続くことにとうとうブチ切れたジェドと「そんなに帰りたいんなら生まれる前の場所に帰らせてやんぞゴラァ!!」という乱闘が発生、師団長執務室の備品が大破する事態となった。
その後、二人を並べて始末書を書かせながら、事の顛末を聞いたフォルカーが呆れ顔で言う。
「第一師団の長とその補佐官が、いったい何をしているんですか。今時、子供だってこれほどの喧嘩をするならもう少しマシな理由を出してきますよ。あなたたちはその地位とその図体で、いったいいつまで三十二歳児を続けるつもりなんです?」
銀縁フレームが光る眼鏡の奥、凍りついた湖を思わせる青い目から放たれるその冷たい眼差しに、幼馴染み二人はこの日ばかりは揃ってさっと視線をそらした。