第二十四話「ご感想はそれだけ」
マリスの休暇終了とともに、ゼレクも第一師団へ復帰したその初日。
「し、師団長ォォーーーッ?! 髪とひげが、な、な、無い!! どこに落っことしてきたんですかァーーーッ?!」
第一師団の拠点で最初に遭遇した部下が、驚愕のあまり絶叫した。
面倒くさがりやのゼレクが出勤をすっぽかしたり、何も考えずにマリスの部屋から普通に出てきたりしないように、念のため迎えに行って一緒に来たジェドが、「驚くところはそこかよ」とつぶやいたが、確かに大きな変化ではある。
ちなみにゼレクの転移魔術でマリスの部屋から第一師団の寮にある彼の自室へ移動させ、元々まったく掃除をしないおかげで前から人の手を借りて清掃されていた、ほとんど物の無い殺風景なその部屋から出勤させた。
独身女性であるマリスの部屋からゼレクが出てくるのも問題だが、彼が『救国の英雄』ゼレク・ウィンザーコート師団長で、マリスと特別な関係にあるということが知れ渡ると、彼女が厄介な事態に巻き込まれる可能性が高いからだ。
最初からそれを懸念していたジェドとフォルカーは、彼女の部屋を訪れる際は軍服を覆い隠すマントを身に付けた上で、出入りするところを見られないようにも注意している。
そしてゼレクとマリスの事情を知ると、すぐさまマリスの部屋の大家に彼女は第一師団の関わる案件の関係者であると伝え、彼女に妙な噂が立ったり危険に巻き込まれたりしないよう目を配ってほしい、と頼んであった。
それはゼレクと違って“第一師団”という肩書の持つ力をよく知るジェドとフォルカーが、これを振るうべき時であると判断したという意味であり、大家は必ずそうすると約束した。
無論、それ以外の返答など許されないと承知した上でのことである。
そうした『第一師団』という名の持つ力や、第一師団を率いる『ゼレク・ウィンザーコート師団長』の名がどれほどの影響力を持っているのかを、いまだ本人だけが自覚しないままでいる。
「師団長っ?! えっ? あれっ? 師団長っ???」
「良かった師団長生きてたァーーー……、アアア? 師団長? あれウィンザーコート師団長??」
ジェドが呆れている間にも、次々と寄ってくる兵たちは、ゼレクを最低五度見してから凝視して口々に騒ぐ。
彼とフォルカーが再会した時は、目を疑うようなものがその首にガッチリと装備されており、どう見てもその対であるものがマリスの首にもかかっていたので、すっかりそちらに気を取られてしまったが。
そういえば、極度の面倒くさがりで伸ばしっぱなしの髪ともじゃもじゃのひげがトレードマークだったゼレクのこの姿を見るのは、部下たちには初めてのことだったな、と思い出した。
幼馴染みのジェドでさえ、思い返せばひげが生える前から髪の手入れなどまるでしたことがないようなゼレクしか見たことが無かった気がする。
たまに伸びすぎた髪を掴んでナイフを当て、自分でバッサリ切って焼却処分するという、普通の人間にはとうてい手入れとは認められないそれが彼の最低限の手入れであったので。
「うっわ若! もっと老け顔だと思ってたのに若ぁっ!!」
「やべぇ……、魔力の匂いも気配もウィンザーコート師団長なのに、目で見ると本気で分かんねぇ……」
集まってきた部下たちは、誰もがゼレクの姿に唖然として、その目が釘付けになっている。
つまりはこの騒ぎがおさまるまで、まるで仕事になりそうにない。
彼が暴走した元・部下への報復をしに来た際には、さっさと見張りを放り出して地下牢の扉を閉めてしまったあげく、何の遠慮も無しに物騒な気配をまき散らしていたせいでその姿にまで注意が至らなかったらしい。
魔力の匂いと気配で仲間を認識できるよう訓練された兵たちにとって、ゼレクの存在は間違いようもなかったが、改めて身綺麗に整えられた姿を目にすると、大きな戸惑いが生じたようだった。
仕方ないな、とため息をついたジェドが、パンッ! と手を打ってその騒動を一瞬にして鎮める。
どう考えても部下をまとめて導くという仕事に向いてないゼレクに代わり、フォルカーとともにそうした事態の収拾も担ってきた彼にとっては慣れた作業である。
「師団長がお戻りになられて嬉しそうなお前たちに、朗報だ」
そうして場を鎮めたジェドがニヤッと笑って言うのに、騒いでいた兵たちがあっという間に青ざめ、ゼレクは面倒くさそうにそっぽを向いた。
次に彼が何と言うか、いつものことなので皆、予想できてしまったのだ。
そしてできれば外れてほしいと願う部下たちの期待に応じ、明るいオレンジ色の目を楽しげに輝かせたジェドは見事に予想通りの言葉を告げた。
「しばらく団を空けていた師団長が、体ならしのついでにこれからお前たちに訓練をつけてくださるぞ。さあ、全員、ただちに訓練場へ集合!」
その鋭く命令を放つ声に、一糸乱れぬ動作で敬礼した兵たちが「はっ!」と応じて走り出す。
日々の訓練の賜物たる、悲しき条件反射である。
しかし今日の彼らには、一縷の望みがあった。
(「師団長って、行方不明になってた間どっかで暴れてたわけじゃないんだよな?」)
(「ないはずだ。それに前よりちょっと肉がついてる」)
(「ああ、それオレも気付いた。健康そうになったよな。でもそれと“動けるか”は別の話だ」)
(「しばらく動かなかったせいで肉がついたんなら、今日こそもしかして……」)
(「ああ! 念願の一撃が、とうとう入れられるかもしれんぞ!」)
(「おお!」)
(「ついにその日が!」)
じつにささやかな願いであったが、彼ら全員が真面目に小声で話し合っていた。
なにしろ地獄の申し子のごとき師団長補佐官のせいで、こうした突発的な訓練はしょっちゅうだったが、国内最強のエリート集団の中でも桁違いの実力を持つゼレクに一撃を入れるというのは、部下たちの悲願になるほど不可能なことであったのだから。
いまだ誰の記憶にも新しい先の戦争の折、途中で前師団長の戦死により昇格したゼレクの、誰よりも先頭に立って決して退かず負けず最強であり続けた背中は、彼らにとって崇拝に等しい尊敬を勝ち取るのに十分すぎるものであったが。
それとこれとはまた別の話なのだ。
国内最強の存在として常に最も過酷な戦場にあることを求められ、そこで勝ち続けることを当然とされながら、これまで肩を並べて訓練に励んできた仲間の顔が日々一つ欠け、二つ欠けてゆく中で、それでもゼレク・ウィンザーコート師団長のその背を追って戦い続けてきた彼らの、それは決して折れなかった矜持がかかっている。
自分たちとて第一師団の一員であるのだ、という強烈な自負が。
ジェドに「全員集合」と命じられたため、それを聞いた兵たちが拠点にいる他の者たちに声をかけ、どうしても手が離せない者以外は訓練場へ続々と集まってゆく。
部下たちの後ろからのんびりと歩いてゆきながら、手を抜いてさっさと終わらせようかな、とでも考えていそうな気のない顔をしたゼレクに、そんなことなどとうにお見通しの幼馴染みが言った。
「ゼレク、魔術は禁止な。壁を壊すのも地面を抉るのも無しで、一撃も受けずに全員に勝てよ。もし一撃でもくらったら、後でマリス嬢に話して大笑いしてやる」
それまでひどく面倒くさそうだったゼレクの目つきが、最後の一言でさっと変わるのを、おかしげに眺める。
ニヤニヤ笑うジェドが本気だと、それで察したのだろう。
嫌そうに口をへの字に曲げたゼレクが歩調を早めた。
そしてウィンザーコート師団長にはじめて一撃入れられるチャンスかもしれない、と密やかにざわめき沸き立ちながら訓練場へ急ぐ兵たちは、残念ながらその短くも重要なやり取りを見逃していた。
数十分後、第一師団拠点、訓練場。
石造りの壁に囲まれた長方形の剥き出しの土の上で、死屍累々、あるいは魚市場の魚のごとき惨状となった兵たちを眺めおろし、ゼレクがぽつりとつぶやいた。
「よく、見えるな」
髪を切ったことに、今初めて気付いたような言いようである。
その声を聞いた部下たちの心が、一つになった。
((((これだけやっといて、ご感想はそれだけですか師団長ーーーっ!!!))))
だが残念ながら、実際にそれを声に出せるほど余力のある者は一人もいなかったため、ゼレクの耳には届かない。
訓練場にただ一人息の乱れもなく無傷で立つ彼は、その身に修めた武術と剛力だけで部下全員 (こちらは魔術使用あり)を叩き伏せると、これでいいんだろう、とでも言いたげに近くの建物の壁に背を預けて見物していたジェドを見た。
ゼレクにはまったく鍛錬などせず、マリスの部屋でひたすら彼女に甘やかされていた約一ヵ月のブランクがあるはずなのだが。
ブランクとは、いったい何だったのか……
これでも師団長の力の衰えを懸念して突発訓練を課したつもりだった補佐官ジェドは、その心配がまったく無用なものであったことを目の前ではっきりと証明されてしまい、十分だ、と苦笑気味に頷く。
それを見たゼレクは、一度も抜くことの無かった剣を鞘におさめたまま、その先端を地面にトンッと軽く打ち下ろした。
この合図を受けたならば、兵たちは即座に上官の前に整列して直立不動の姿勢をとらねばならない。
しかし完膚なきまでに叩きのめされた彼らはわずかにピクピクと痙攣しただけで、誰もその場から立ち上がることすらできず。
「訓練を終了する。立礼は無し。休憩を許可する」
すぐには動けそうにない部下たちを起立させ、整列させることが面倒だったのだろう。
淡々と、一方的にそう告げてさっさと立ち去る師団長と、途中から彼に合流して建物に入ってゆく補佐官の足音を、訓練場に転がったまま聞いていた。
しばらく荒い呼吸だけが響いていたそこに、やがてぽつぽつとぼやく声があがる。
「……誰だよ、今なら師団長に一撃入れられるかもしれん、とか言ったヤツ」
「いっそ清々しいほどムリだったな……。もう一生ムリなんじゃね?」
「いや、今日の師団長の強さは今までの中でも異常だったぞ。あれは補佐官が何か余計なことしたんだ。絶対そうだ」
「師団長、いつもやる気ねぇもんなぁ。やる気があるのは補佐官か副長が何か余計なこと言った時だけ……」
「くそ~~~、今日こそ一撃、せめて一撃、と、思ったのによォ……」
「しっかし、聞いたかお前ら? 今日初めて師団長が言った言葉」
「『よく、見えるな』」
誰かが声真似をして言うのに、ぶふっ、とあちこちで噴き出す声がする。
「一ヵ月ぶりに聞いた師団長の言葉が、『よく、見えるな』……!」
「訓練終わるまで何も言わなかったのに、最初の一言がそれとか……!」
「つーか、今日の朝に髪切ってきたんじゃねぇだろうに、今それに気付いたのかって話だよ……!」
げふっ、ぐふっ、とおかしな声をあげながらしばらく忍び笑いをしていた彼らは、けれどふいに、涙のにじんだ目で空を見上げて口々につぶやいた。
「あー……、師団長だなぁ」
「だな、ウィンザーコート師団長だよ」
「帰ってきたー」
「そうだな、帰ってきたんだなぁ、俺らの師団長が」
「めちゃくちゃ強ぇーのは変わんねぇのに、身綺麗になっちまってなぁ」
「ああ、前より肉も付いてたし、あれ絶対、女だな。師団長、女ができたんだ」
「ええ~? あの師団長に女ぁ?」
「それ俺も思ったけど、相手の女がさっぱり想像つかねぇわ……」
「どんな女傑だろうな……」
ぽつりと誰かがつぶやいた声に、全員が沈黙した。
ウィンザーコート師団長の相手がどんな女性か、誰も想像できなかったらしく、しかしそのことがみょうにおかしくなって、笑いだす。
「なんだっていいさ、師団長、なんか前より元気そうだったし」
一人が言ったそれに、誰も反論することなく、ただ笑い声が広がっていく。
よく晴れた空は天高く青く、訓練場に転がったままの兵たちの楽しげな、嬉しげな声がこだまする。
しばらく後、副長フォルカー・フューザーの「おや、なにやら楽しそうですねぇ」という、彼らにとって地獄の使者の到来を告げる声が響くまで、兵たちの笑い声はやまなかった。