第二十二話「黒狼の番」
「王の起こした不祥事を、公にすることはできない。だが王には間もなく崩御による退位をしていただく。どうかそれで、手打ちとしてもらいたい」
勝利で終えたとはいえ、いまだ隣国との戦争の影響が色濃く残る国にとって、王が救国の英雄を相手に起こしたこの事件が公になれば、いったい何が起こるか予想がつかないほどだ。
宰相に言われ、もとより公正な裁きの場に王を引きずり出せるとは思っていなかったゼレクは頷いた。
「そのかわり君には、今回の件の謝罪も含めて、王都とは別の場所を用意しよう。
これは私の個人的な印象だが、君は王都での権力を求めているわけではないだろう?
第一師団長という地位と、実績に裏打ちされた名声を持つ君には、その気になれば今すぐにでもこの国の軍部を掌握できるだけの力があるのだが」
ゼレクは短く「いらん」と答える。
第一師団長としての仕事ですら、ジェドとフォルカーをはじめとした部下たちの助けがなければまともにこなせなかった彼が、そんな面倒なものを望むはずがなかった。
そのあまりにも正直で無造作な返答に、わずかに苦笑を浮かべた宰相が頷く。
「ならばやはり、王都からは離れた方が、君は今より気楽な生活が送れるだろう。
我々王城の人間にとっては、救国の英雄である君が王都にいてくれるのが最も心強く、民心の掌握という意味でも効果的ではあるし、それが続くことを願う者も多いだろうが……。まあ、これから突然の王の崩御で今の貴族たちの勢力図が変わって、王城はそれなりに慌ただしくなるだろうからね、その隙にどうにかしてみるとしよう。
転居先については、後ほど幾つか候補をあげるので検討してみてほしい。無論、他にも望みがあるなら前向きに考慮するが、どうかね?」
「俺は、マリスのいるところにいられれば、それでいい」
率直なゼレクの言葉に、宰相はすぐさま同意した。
「それは当然のことだ。……黒狼の番を引き離すことなど、私は考えもしないよ」
誰よりもその痛みを知る彼の言葉は重く、ゼレクもようやく、宰相の申し出を信頼できるものと感じられるように思えた。
そうした今後の話の最後に、ふと宰相が言った。
「良い女性と巡り合えて、君は幸運だな。
あの鞭を持って君を制した時の彼女は、まさに黒狼に並び立つに相応しい対等の番。どんな芸術家が描いた伝説の王妃たちよりも、はるかに素晴らしい威厳があった」
ゼレクが即答した。
「ああ。惚れ直した」
ジェドとフォルカーは正気を疑うような目でまじまじとゼレクを見たが、宰相は息子に同意するように、そしてどこか嬉しげに、小さく笑う。
そうして胸を張るゼレクの隣では、怒りのあまり完璧にキレていた時の自分がしでかしたことに今さら青ざめたマリスが、それでも彼の言葉に頬が熱くなるのを止められず、何とも言えない、いたたまれない気持ちでうつむきがちに身を縮めていた。
宰相との話し合いがまとまる頃には日も暮れて、マリスたちの長い一日が終わった。
マリスはゼレクの転移魔術で王都の自宅に戻ると、着替えもそこそこに彼と抱き合って狭い寝台へ倒れこむようにして眠りにつく。
短い時間の間にあまりにも色んなことがありすぎて、頭の中はごちゃごちゃだし、体はもう指一本動かせないくらいくたくたに疲れきっている。
肉体を異形のものに変化させ、世界を滅亡の瀬戸際に追い込むほどの神威を顕現させたゼレクの方もそれは同じだったらしい。
けれど彼はマリスと離れることだけは嫌がって、その腕にしっかりと抱えるとようやくほっと息をつき、そのまま夢も見ない深い眠りに沈んだ。
そして翌日、昼過ぎに目覚めたマリスは、休暇が七日から十日にのびた、という室長からの手紙を受け取った。
宰相が手を回してくれたのか、あるいはもしやこれは遠回しに退職を促されているのだろうか、とぼんやりした頭で思いながら、ごそごそと起きだして身支度を整える。
それからいつものように食事の準備をしていると、その匂いでようやく目を覚ましたゼレクが、腕の中にマリスがいないことに気付いて寝ぼけたまま跳ね起き、寝台から転げ落ちた。
狭い部屋に、じつに痛そうな音が響く。
「クロちゃん、大丈夫?」
とてとてと歩いていって、寝台から転げ落ちたことにびっくりしているゼレクの隣にしゃがみこみ、マリスが聞く。
自分が何をしたのか、じわじわと理解していったらしいゼレクは、片手で顔をおおって無言で頷いた。
その失態が恥ずかしかったのか、手で隠しきれなかった耳が赤くなっていることに気付いてマリスは小さく微笑み、彼の頭をよしよしと軽く撫でてから食事の支度に戻る。
そうして料理を作りながら、自分が今までもゼレクの分として“人間の食事”を用意していたことに、ようやく気が付いた。
ゼレクのために買った服や日用品も人間用のものだし、そういえば髪を切ってやったりひげを剃ってやったりしていた記憶もあるのだから、自分が最初から彼を人間の男性として扱っていたことは疑いようがない。
彼と一緒に食事をとるために、窓辺に置いたテーブルの横にもう一脚のイスを買ってきた時、ゼレクを犬だと思い込んでいたくせに、何の疑問もなくそんな行動を取った自分は本気で意味が分からない、と思う。
それでもやはり、何度記憶を探っても彼女の目には彼が犬にしか見えず、その認識も完璧なまでに“犬”であったことが、今さらながら本当に不思議だった。
彼を拾った時、自分がだいぶ疲れていたことは、ここしばらくの連休の間になんとなく感じられるようになったが。
それにしても他の人々が全員「人だ」というゼレクを、どうしてマリスだけが「犬だ」と思ってしまったのだろう?
「そりゃあコイツが本当に犬だったからだろ。マリス嬢だけには真実の姿が見えてたってわけだ。いやー、人間になれて良かったな、ゼレク。マリス嬢がいなかったら、お前ずっと本当は犬のままだったんじゃねぇの」
もうずいぶんと前の事のように思える昨日の約束を守って、フォルカーがマリスの好きな焼き菓子を手土産に部屋を訪れた時、雑談のついでにそんな話をしたら、一緒に来ていたジェドがそう言った。
「それなら俺が人間に見えていたお前の目は節穴か。なるほどな」
「なんだとテメェ! 喧嘩売ってんなら買うぞコラァ!」
寄ると触ると喧嘩しそうになるゼレクとジェドにもようやく慣れてきたマリスは、今日のはそれほど深刻なものではないと判断して放置だ。
騒ぐ二人の横で平然と手土産の焼き菓子をもぐもぐ頬張る彼女を眺めて、フォルカーがつぶやく。
「おお、これが黒狼の番……」
何やら勝手に納得して感心していた。
じつに平和な、穏やかなある日の昼下がりだった。