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第二十一話「飼い主と犬」



「あんたがずっと独り身なのは、そのせいか?」


 長く話し続けた宰相が、呼吸を整えるためにかしばらく言葉を途切れさせると、ぽつりとゼレクが聞いた。

 宰相が頷く。


「私にはシルビア以外、女性として愛せる人が現れなかった」


 シルビアを失った後、ともに失われた彼の現実を取り戻すための方策の一つとして、側近たちが女をあてがおうと何人も送り込んできたにも関わらず。


「不思議なものでな。何年経っても、何十年経っても、シルビアがどんなふうにこの身に触れてくれたか、私は覚えているんだ。誰に何をされようとも、その記憶が消されることも上書きされることもなく、覚えている。

 ……まるで、この身にその存在が刻み込まれているかのように、私は今も、シルビアの指が触れるのを感じるんだ」


 すでに失われた存在の、その指とともに生きるということがどんな意味を持つのか。

 この場にいる誰にも分からないそれを背負った人は、けれど大樹のごとく揺らがない声で続ける。


「あいにく私には君のような強い力はないが。それでもこれが、私に現れた黒狼の血だったのだろう。狼は、唯一の番と生涯を共にするというから」


 そんな言葉で、彼は過去を締めくくった。


「さて、長くなってしまって申し訳なかったね。それでは本題の、君たちの話に戻ろうか」


 口調一つで、カイウス・セレストルという一人の男性から、国王の手綱を握る能吏とささやかれる宰相の顔に変貌し、彼はゼレクに問う。


「君が王と初めて個人的に接触したのは、先の戦争の最中、陛下が君を第一師団の団長に任命した、その直後のことだね?」


 言葉は問いかけの形をしていたが、それはすでに知っていることの確認でしかない。

 宰相はかなりの精度で事態を把握しているらしいと、一言で告げる問答の始まりだった。


 まさかそんな前にゼレクが王と、と驚く副官二人の視線に、問われたゼレクは嫌そうな顔をして答える。


「お前の父親はウィンザーコート伯爵ではなく、自分だと言われた。母親だとかいう女の肖像画も見せられたが、俺には見覚えの無い顔だった」

「そして戦後、君はたびたび王に呼び出されるようになった。そこにいる腹心の部下たちにも知られないよう、内密に」


 密偵が集めてきた情報からの推測だったが、やはり正しかったか、と宰相は顔には出さず苦渋の思いでゼレクへの質問を続けた。


 王がゼレクに接触する前、血のつながらない三男が戦場へ行ったことを知ったウィンザーコート伯爵が、愛人に「あれは王家の御落胤だ」と口をすべらせ、それが一部で密かに噂になったことがあった。

 先王からシルビアの子について話を聞いて以降、彼女の死の衝撃から体がいくらか回復すると、カイウスは兄王がゼレクのことを知った時の反応を恐れ、人知れず息子の保護に力を尽くしてきた。

 彼が養子だという噂や、王の寵愛を受けた女官がウィンザーコート伯爵家の領地へ逃げたという噂が出るたび、王の耳に届く前にどうにかもみ消してきたのだ。


 だが、今回ばかりは戦争への対応で時間も人手も足りず、なんとかもみ消した時にはすでに誰かがこの件について調べまわった後であったと、密偵が報告してきた。

 遅かったかと歯噛みしつつ、王の動向を注視してきたつもりだったが、戦時中も戦後も、宰相位にあるカイウスは激務が続いたあげくとうとう倒れてしまい、その隙を突かれる形となった。


 愛した女を守れず、彼女が産んだ子も守れず、無力感に苛まれるカイウスの苦悩は、しかしその鉄壁の理性によって表情にも態度にも表れることはなく、ゼレクは相変わらず不機嫌そうな様子で彼の問いに答える。


「あの男は腐っても王だった。あらゆる城や砦の隠し通路を知り、動かせる手駒も多い。誰の目にも触れない場所に俺を呼び出すくらい、たやすいことだ」

「そこで王に血を要求され、君はそれに応じた」


 その時、わずかに宰相が首を傾けた。

 周囲には返答を求める仕草のように見えただろうそれが、ゼレクの背後に立つ二人の青年を指し示すものであると気付いたのは、その理由を知るただ一人。


 ――――――王は君の身近な者たちの命を人質にして、服従を強いたのだろう?


 おそらくジェドとフォルカーがそれを知った時、どんな思いをするか配慮して言葉にはしなかったのだろうと、さすがにゼレクでも分かる。

 そんな配慮を、ありがたく思うべきかもしれなかったが、しかし同時になぜかひどく気に障った。


 ゼレクは顔をしかめて、無言で頷く。


 それに顔色を変えたのは、背後に控えていた二人の部下だった。

 宰相が言葉にしなかったところはさすがに彼らとて見通せなかったが、それでも今告げられたことだけで、激怒するには十二分に過ぎる。


「おいっ、テメェふざけんじゃねぇぞ!」


 宰相の前ではあったが、周囲に侍従や武官はいない。

 そんな状況もあって、たまらずぶち切れたジェドがゼレクの肩を掴んで無理やり振り向かせた。


「あのケガはそのせいだったのかよ! お前、刺客のせいだとか、訓練中の事故だとか何だとか……! おかしいとは思ってたんだ。昔ならともかく、今のお前が刺客や事故程度であんなに何度もケガをするなんてな。でもお前がそう言うから、俺は……!

 なんでだ? 王のせいなら、なんでそう言わなかったんだ! 最初から俺たちに言えよ! なんで、なんでだよ?!」


「面倒だ」


 鬼気迫る形相で詰め寄るジェドに対し、火に油を注ぐような端的な返答をするゼレク。

 元より喧嘩っ早いところのあるジェドが拳を握ったのは当然の結果で、予想済みだったフォルカーが後ろから羽交い絞めにして彼を止めた。


 フォルカーとてゼレクに対して激怒してはいたが、さすがに宰相の前でこのまま乱闘に突入するのを、ただ見ているわけにもいかない。


「やめなさいジェド!」

「放せフォルカー!! この野郎は、いいかげん本気で一回ぶちのめしてやらねぇと何も分からねぇんだ!!」


 この騒動もまた面倒くさい、という顔でどんどんジェドの怒りを激化させるゼレクを、それまで隣で黙って座っていたマリスが突然呼んだ。



「クロ」



 静かな声だったが、それは傲岸不遜な面倒くさがり男がびくっと背筋を震わせて、ぱっと振り向くよりほかない力を持っていた。

 マリスは自分の方を向いたゼレクに両手を伸ばし、パンッ! と鋭い音を立ててその頬に手のひらを当てる。


 彼女の細腕程度では、たとえ全力で叩かれたところで、それほどダメージを受けるようなゼレクではない。

 が、いつも優しく撫でてくれる手に頬がじーんと痺れるような力を叩き込まれ、そのまま手のひらを当てられてあたたかな体温を添えられ、そんなことをされた経験の無い彼は何が起きているのか分からず戸惑った。


 そこにマリスの、変わらず静かな声が響く。


「あなたは言葉が足りない。

 ジェドさんとフォルカーさんを巻き込んで、彼らを傷付けることを心配して、何も言わなかったんでしょう?

 相手はあなたでさえ手出しを躊躇(ちゅうちょ)する、この国の王様だったんだから。何を言っても無駄で、へたにこの話を二人に知られたら、彼らが口封じに殺されるかもしれない。

 そういうのを心配して、言えなくて、でも耐えきれなくなって、黙って一人で消えてしまったんだよね?」


 言わないと伝わらないことは、たくさんあるんだよ、と口調を和らげて、マリスは子供に言い聞かせるように語りかける。


「あなたの言う“面倒だ”の中には、あなたなりの意味がいっぱい詰まってる。でもそれを知っているのはあなただけで、他の人にはそういうのはうまく伝わらないの。

 だから、それをちゃんと言葉にする必要がある。

 そういう大事なことを面倒くさがったせいで、こんなふうに誤解されて、ジェドさんと喧嘩になるなんて、私はすごく悲しいよ。ねえ、クロちゃん。クロちゃんだって、ジェドさんと喧嘩したいわけじゃないんでしょう?」


 それほど長い付き合いがあるわけではなかったが、ゼレクのことは犬だと思い込んでいたものの一ヵ月あまり見てきた。

 そして彼が再会したジェドやフォルカーに色々言われて面倒そうにしながらも、その存在を受け入れていることを、マリスは傍で見て感じていた。


 だから、今言ったことはマリスの推測にすぎないけれど、それほど的外れなものでもないはずだ。


 思った通り、ふてくされた子供のような顔をしたゼレクは、それでも確かにマリスの手の中で小さく頷く。

 その反応で、自分の独善的な思い込みではなく、やはり言葉が足りないだけなのだろうと分かって、マリスは内心ほっとしながら優しく彼に問いかける。


「今、クロちゃんは言葉がとてもたくさん足りなくて、ジェドさんをすごく怒らせたね。それは分かる?」


 べつに俺だけのせいじゃない、と言いたそうではあったが、ゼレクのその無言の訴えを黙殺したマリスは「ん?」と微笑んで返答を催促する。

 しかたなく、彼はしぶしぶと、本当にしぶしぶと、頷いた。


 ゼレクの方がずっと年上で、階級も上で、マリスは彼の背丈の胸程までしかない小柄な女性だというのに、二人の関係はいまだ完全に飼い主と犬のそれだった。


「じゃあ、ちゃんと謝ろうか。まず、そこからだよ」


 ようやく手をはなしたマリスが、ゼレクの後ろでフォルカーに羽交い絞めにされたままのジェドの方を向くよう促す。

 ふてくされた子供の顔のまま、それでも自分の方を向いて。


「……俺が悪かった」


 それは正確には謝罪とは言えないものだったが、ともかく自分の非を認めたゼレクを、それぞれオレンジ色と青の目をまん丸にしたジェドとフォルカーが穴の開くような視線で見つめる。

 すでにジェドはまったく抵抗していなかったが、フォルカーが拘束を解くのをうっかり忘れてしまうほど、二人にとってその光景は衝撃的なものだった。


 しばらくの沈黙の後。


「猛獣使いハンパねぇ……」と、ジェドが唇の端をひきつらせ。

「彼女だけは絶対に怒らせないようにしなければ……」と、フォルカーの心の声がぽろりと漏れた。




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