第二十話「宰相と第一師団長」
「私はなんてことを……!」
初めてゼレクが人間に見えるようになったマリスは、その驚きが一段落すると、今度は彼の首輪を見てめまいを覚えた。
これはジェドとフォルカーが騒ぐはずだと理解し、なぜか頑なに「嫌だ」と拒否するゼレクを「さすがにこれはダメだから。絶対にダメだから。外させてくれるまでずっと言い続けるよ。本当に、ずっと、言い続けるよ」という真顔の脅しで打ち負かし、ようやく外すことに成功した。
しかし外した首輪をあまりにも未練たっぷりに、しょぼくれた様子で見つめるゼレクが可哀相になり、マリスはつい、自分と同じように革紐にタグを通してネックレスにするから、と言ってしまった。
とたんに瞳を輝かせて「絶対だぞ」と釘を刺してきた彼を見て、一勝一敗だな、と思い苦笑する。
そんな彼らの傍では、ようやく上官が見てくれだけは普通の人間のようになって、ジェドとフォルカーが生ぬるい視線でそのやりとりを眺めつつ、ほっと息をついていた。
そうしてマリスとゼレクが落ち着くと、すでに場を掌握して次々と指示を出していた宰相が二人に声をかけてきた。
ジェドとフォルカーもともに案内された先は、西離宮の端にある温室の中の東屋だ。
ここでお茶を出されても誰も手を付けることはないと理解しているからか、侍従も武官も下がらせた宰相はゼレクとマリスに向かいに座るよう促した。
その時、空のテーブルを挟んで向かい合う白髪交じりの黒髪に金の目の宰相カイウス・セレストルと、黒髪に金まじりの琥珀の目のゼレク・ウィンザーコート第一師団長の顔を見た副官二人が、一瞬ぎくりと固まった。
しかし彼らはすぐに平静を取り戻し、無言で上官の背後に控えるように立つ。
ゼレクの隣に座らされたマリスだけが、場違いなところにいる緊張で落ち着かなげに、膝の上でそろえた手の下できゅっと小さな拳を作った。
残念ながら人間一日目のゼレクは落ち着かないマリスをなだめるということまで気が回らず、目の前に座った老齢の男を見る。
「まず、謝罪を」
先手を打ったのは宰相カイウスだ。
「今日、私が陛下と君たちとの会談に同席することにしたのは、陛下が禁術に手を出してそれに君を巻き込んでいる、という情報の確証をようやく掴めたからだった。
しかし、遅きに失した。すでに事態は私の予想していた以上の段階に入っていた。
陛下を補佐し、時には諫言すべき宰相として、今回の件は私にも重い責任があると理解している。君たちには本当に申し訳ないことをした」
すまなかった、と潔く頭を下げた宰相だが、対するゼレクは何ら心を動かされた様子なく、常と同じ無表情で問う。
「あの男が手を出していた禁術について、どこまで把握している?」
謝罪の返答をもらえなかったことについては何も言わず、顔をあげた宰相が語る。
「陛下をそそのかして今回の禁術を行った魔術師は、他国の出身だ。
流れの魔術師で、あちこちで詐欺まがいのことをして荒稼ぎしては別の土地に移る、ということを繰り返してきた男らしい。どこの国の諜報員でもなく、今回の事件が我が国の情勢不安定化を狙ったものではない、ということは判明している。
そして肝心の禁術についてだが、我が国の魔術師たちに解析させたところ、何の根拠もない無秩序な調合によって作られた魔法薬が第一王子殿下の精神を崩壊させただけで、君の力を彼に移す効能など最初から持たなかったと分かった」
「第一王子は無駄死にか」
ゼレクの言葉に、宰相の目が悲しみに深く陰った。
王弟である彼にとって、第一王子は甥に当たる。
生涯を捧げて仕えてきた兄王の子であり、独身のカイウスにとって最も血筋の近い青年の身に起きた悲劇に、しゃんと背筋を伸ばしたいかにも能吏という風采の宰相が、一時、ただの人となって悲嘆に沈む。
しかし一、二度、瞬きをしただけでその奈落のような悲しみの影を表から消し、宰相は再びその目に強い光を取り戻して話を続けた。
「残念だが、今回起きたことは、王家にとってそう珍しいものではないのだ。
この国の王家に、聖始祖、黒狼の伝説が語り継がれていることは君たちも知っていることと思う。だが、この伝説は王家の男子として生まれた我々にとっては、呪いにも等しいのだということを、民は誰も知らないだろう。
恨み言を繰るつもりはないが、事実として、そうなのだ。
我々、王家の男子は、代々この視線にさらされてきた」
――――――なんだ。黒狼の末裔と聞いたのに、この程度か。
「王家に生まれたとはいえ、特殊な力を持つ子供などそうそういない。だが周囲の誰もがそのことに落胆し、私たちを見下した。陛下は……、兄は、昔からそのことに心を削られてきた」
語る宰相の言葉を、苛立たしげにゼレクが遮る。
「あの男を擁護する話など、聞くつもりは無い」
そのまま立ち上がろうと腰を浮かせた彼を、さっと先に立った宰相が「待ってくれ」と強い口調で押しとどめた。
「すまない。君にどうしても伝えたいことがある。どうか話を最後まで聞いてもらいたい。……これを誰かに話すのは初めてのことで、私にも、どう話せばいいのかわからないのだ。そのせいで回りくどくなってしまっているのは分かっているのだが……、すまない、だが頼む。……もうそれほど長くはならないから、どうか、話を、聞いてくれ」
いつもの無表情に険しさを漂わせたゼレクは、なぜお前の頼みをきかなければならない、と言わんばかりである。
けれど宰相のあまりにも必死なその様子に、隣に座っていたマリスがたまらなくなって、ついゼレクの膝に手を置いた。
睨みつけるような眼差しが一瞬にして凪ぎ、うかがうようにマリスを見たゼレクが、頷いて姿勢を戻す。
二人の様子に虚を突かれた顔をした宰相は、だがすぐに「ありがとう」とつぶやいて自分も席に戻った。
ゼレクの隣から気づかわしげな表情でじっと見つめるマリスに、小さく顎を引くように目礼をして、話を再開する。
「王家の男子はそうして聖始祖の伝説に苦しめられ、時に禁術に手を出しては代償を支払ってきた。だから今回の兄の行動は、王家にとってそれほど珍しいものではない。しかし今回、君がそれに巻き込まれたのは、私のせいだ。
兄は君を自分の子だと言い、それを信じ込んでいるようだったが、そうではない。
君は、私の、息子なんだ」
急な言葉に、さすがに目を見開いたゼレクやマリスとは逆に、背後の副官二人は、やはりそうか、と内心つぶやいた。
妄執と狂気に憑りつかれた王が、実際の年齢よりずっと老けた外見となってしまっていたことは、この点にはそれほど関係ない。
さすがは親子と言うべきか、王と宰相は同じ両親から生まれた兄弟だというのに、並べてみればゼレクは王よりも宰相の方に、その眼差しから立ち姿から、何もかもがずっとよく似ているのだ。
「君の母親であるシルビアは、王城の女官だった。
そして正義感が強く、第一王子としての強い自負を持っていた兄と違って、若い頃は王家の重責から逃げてばかりだった私は、あの日も剣術の鍛錬から逃げて中庭の隅に隠れていた。城中にある黒狼の絵画や彫像を、あそこなら見ずにすむのでね……
そこにシルビアが、どこかの令嬢が帽子を風に飛ばされたとかで探しに来て、私を見つけたんだ。
木の影に寝ころんでいた私に気付いた時、シルビアはとても驚いて、次に笑って、こう言った。『ああ、驚いた。黒い犬がいるのかと思ったわ』と」
それは何十年前の事なのか。
確実にゼレクが生まれるより前のことのはずが、たった今起こったことのように語り、宰相はほとんど無意識に微笑みを浮かべた。
「王家の重責に加えて、聖始祖、黒狼伝説にも苦しめられていた私にとって、彼女の言葉は天啓のように聞こえたよ。それまで何の力も無い自分には重荷だと思っていたものが、祝福に変わった。力は無くとも私は黒狼の末裔で、シルビアこそが自分の番なのだと感じて、何もかもが引っくり返った。
そしてどうにか時間を作って周りの目をぬすんでシルビアと過ごすうちに、無気力で逃げてばかりだった憶病な私は、彼女にどんどん惹かれてゆくのと同時に、まるで生まれ変わったかのように気力を取り戻して王子としての務めに励むようになった。
――――――すべては若すぎた私の、ただの勘違いなのかもしれないが。それでも私にとって、今もシルビアが自分の番であるという確信は変わらない。
だがそれよりも、問題はこの話を兄に打ち明けた時の、思いがけない反応だった」
微笑みが消え去り、苦悩が広がる。
「兄はどうしてか、私を黒い犬と見間違えたシルビアさえ手に入れれば、自分も黒狼王と呼ばれた歴代の名君のようになれると思い込んだのだ。彼らに黒狼の姿を見通した王妃のような存在があれば、自分もそうなれると。
だがその時には私はシルビアと深い仲になり、臣籍降下して彼女を妻にするつもりで、父上、先王陛下にも話を通していた。
そして父上は、兄と私がシルビアを巡って争うことを懸念した。だからシルビアをウィンザーコート伯爵の元へ逃がしたのだ。私にも兄にもその行方を調べられないよう、完璧に痕跡を消して」
宰相の金色の目が、いつの間にかじっと話に聞き入っているゼレクを見つめた。
彼の視線はゼレクを見るものではなく、その向こうの誰かを探すように頼りなくさまよっている。
「私は知らなかった。その時シルビアが私の子を身籠っていたことを。知っていれば絶対に手放しはしなかっただろう。……だが、手放してしまった。兄は彼女が自分のものにならないのならば殺すと言い、私はそれを恐れて、傍にいられずとも彼女が生きていてくれさえすればそれでいいと、諦めてしまったんだ。
それから何年も経って、彼女が死んだと父上が告げた時、初めて君のことを教えられた。シルビアは私の子を産み、その子にゼレクという名を付けて、ウィンザーコート伯爵に託したと」
宰相の虚ろな目がふう、と中空をただよった。
「後を追えなくなった」
静かな言葉は誰に言うわけでもない、ただの回顧だ。
けれどゼレクは、思わず自分の膝に置かれたままだったマリスの手に自分の手を重ねた。
そうせずにはいられなかった。
番を失った宰相の姿に、マリスを失った時の自分の姿を、重ねざるをえなかったからだ。
いつか彼は、マリスを殺せば自分は解放されるのではないかと考えたことがあったが、それはとんでもない間違いだと今なら分かる。
マリスと会う前ならばともかく、出会ってしまった今はもう怒りも悲しみもマリスがいてはじめて生まれるものであり、彼女を失えば自分は抜け殻になるだけだ。
解放されて自由になるどころか、永遠に終わらない喪失の闇に落ちて、何が起きているのかも理解できないまま死ぬだろう。
その時、まるでゼレクの思考を見通したように、ふいに声がかかった。
「これはただの忠告だが、ゼレク・ウィンザーコートどの。番を失った狼はみじめなものだぞ」
再び瞬き一つで現在に戻った宰相が、穏やかな微笑みとともに告げる。
「食事は喉を通らず、夜は眠れず、現実はすべての感覚を素通りしてゆく。そんな時間が長期間続いたせいで、だいぶ内臓をやられたよ」
宰相の声に重なって、はっと息をのむ音がかすかに響く。
彼は昔、大病を患って離宮で静養していたという話だったが、その体を破壊したのは病ではなく、想い続けた伴侶の死であったのだと理解して。
「城の薬師や魔術師たちの治療のおかげで、どうにかまだ生きてはいるが。私のこの体は、もうそれほど長くはもたないだろう。時間切れになるまでに、今回の後始末と、君たちのことをどうにかしてゆくつもりではあるが……
マリス・ラークどの。あなたはどうか、彼よりあまり早くに旅立たないでやってほしい」
急に名を呼ばれたマリスは、びくっとして、反射的に頷いた。
王家だの聖始祖だの、あまりにも雲の上の話すぎて彼女にはさっぱりついていけていなかったのだが、今、彼のその言葉には、絶対に頷かなければならないと感じたのだ。
そしてそれは正解だったと、隣で身を強張らせていたゼレクがわずかにほっと息をついたことで分かった。
マリスはゼレクの膝の上で彼の大きな手を重ねられた自分の手を、くるりとひっくり返してきゅっと指先で握る。
彼は無言で握り返し、そのささやかではあるがあたたかい触れ合いに気付いた宰相が、安堵したように目じりの表情をやわらげた。