第二話「マリスの事情」
「ただいまクロちゃん。帰るの遅くなってごめんね、今、ご飯作るからね」
職場を出るなり鳥の姿に変身し、冬の夜空を本気の全速力で飛び続けて帰宅したマリスは、玄関の前で人の姿に戻ると呼吸を整えてから部屋に入った。
王都では乗り合い馬車も朝早くから夜遅くまで多く行きかっているし、王都を網羅する巡行路を各駅に停まりながら飛び続ける飛行便もあるため、いくら変身の魔術を使える者でも普通このような移動はしないのだが。
法で規制されているわけでもないので、マリスのようにどうしても急ぎたいことがある魔術師は、たまにこうしてこっそりとこの魔術を使用している。
法規制が必要になるほど、この魔術を会得している者が多くないのがそのおもな要因なのだが。
その多くはない希少な会得者である魔術師マリスに、その自覚はあまりなかった。
なにしろ仕事を終えた彼女には今、他の何より優先すべきことがあるのだ。
「クロちゃん、お昼ご飯は食べた?」
そっと声をかけながら、玄関扉を閉めて薄暗い部屋をそろそろと進む。
王城は古く堅牢な石造りだが、王都は同じく古い石造りの建物と時代の浅い木造の家屋が入り乱れて立ち並ぶ。
その中でもずっと片隅の方にある閑静な住宅街の中の、独身者用の木造集合住宅の一室を、マリスは王城魔術師となってからずっと借りて住んでいた。
独身者用なので当然ながらいささか狭い部屋だが、キッチンやバスルームはついていて、屋上と地下に取り付けられた魔道具によって上水、下水もきちんと分けられて整備されているので、暮らしてゆくのには十分だ。
あまり物を買わないマリスは、寝台や衣装棚、窓辺の小さなテーブルとイスの他には、キッチンに置いた食材を保管するための保冷箱くらいしか大きな物は置いていないので、殺風景なその部屋はがらんとしてみょうに広く見える。
そして隅に置かれた小さな金属カゴの中、ぼうっと赤く光る魔道具の暖炉石が、絶え間なく熱を発してその空間を冬の寒さから守っていた。
「今日は、少しは動けたかな? まだ体動かすの、つらい?」
薄暗い部屋に目が慣れてくると、暖炉石の赤い光とカーテンの隙間から淡く射し込む月光が光源となって、うっすらと様子が見えるようになってきた。
少し緊張の抜けたマリスが声をかけながら近づいてゆくと、部屋の中で一番大きな家具である寝台の上で、もぞもぞと毛布のかたまりが動く。
柔らかな毛布を三重にして巣のような状態になっているその中から、硬質な黒の毛並みがちらりとのぞいた。
「あ、クロちゃん、今日は起きあがれるんだね。ちょっと調子いい?」
無意識に優しい笑顔になって、マリスは小さな明かりを灯す魔道具を作動させた。
眠っているなら最低限の光源で済ませようと思っていたが、起きているなら大丈夫だろう。
明かりのおかげではるかに見やすくなった薄暗い部屋を、けれどやはりゆっくりと寝台に向かって歩いていく。
狭い部屋だから数歩もあれば辿り着いてしまうのだが、それでも彼を怯えさせないように、マリスは細心の注意を払う。
それは初めて会った時、彼が見せた警戒心剥き出しな手負いの獣そのものの姿が、深く記憶に刻み込まれているからだ。
ケガをした体をかばいながら、必死で牙を剥こうとする手負いの獣を、恐れたのではない。
普通の人よりも強力な反撃手段を持つ魔術師とはいえ、マリスは脆弱な人の子でしかないから、大きな犬に威嚇されて確かに脅威を感じはしたが。
それ以上に、彼が威嚇したのは自分が性急に距離を詰めて怯えさせたからだ、と気付いて自己嫌悪に陥ったのだ。
動物は医者にかかる、ということができない。
ケガが悪化して動けなくなったら、食べ物を得ることができず餓死するかもしれないし、その前に他の獣に襲われて食い殺されるかもしれない。
だから、ケガをした獣が警戒心を剥き出しにしてマリスを威嚇してくるのは、当然のことだ。
それをちゃんと認識せず、ただ心配でたまらなくて、早く手当てをしてやりたくてのことだとはいえ、性急に事を進めようとしたマリスが悪いのだ。
本当にこの犬を助けたいなら、マリスは自分がどうしたいかよりも、彼がどうしたいかを優先し、人のように自らそれを要求できない彼のわずかな意思表示を見逃さないよう、注意深くあらねばならない。
「あ、お昼ご飯は食べてるね。ん? 今日はおやつも食べてくれたの? すごい、よく食べられるようになったねぇ。良かった。じゃあ、また明日もおやつ用意しておくね」
部屋の様子から日中の彼の様子を読み取りながら、穏やかな口調で優しく語りかける声が、夜の住宅街の静寂にとけこむように響く。
それに呼応するように、寝台の上の大きな影がもぞもぞと動いて、次の瞬間、何が起きたのか分からないくらいの速さでマリスは毛布の巣の中に引き込まれた。
あたたかい腕を巻き付けるようにマリスの背に回し、強い力でギュウギュウと抱きしめてくる“犬”に、まだ数日前から始まったばかりのこの帰宅時の儀式めいたものに慣れない彼女は、息苦しさで「ウッ」とうめく。
犬なのに、なぜか大蛇を思わせる執拗さで全身を絡めとるように抱き込まれ、うまく息ができない。
それでも、彼を怯えさせないようほんのわずかたりとも拒絶する動作はせず、マリスは全身でそれを受け入れて、自分からもやわらかく彼女の犬を抱きしめた。
そして、どうにか細い呼吸を繰り返して空気を確保しながら、相手が拘束されていると感じない程度の力加減で抱き返し、なだめるように背中を撫でてやる。
「……ただいま、クロちゃん。ごめんね、ひとりにして。寂しかったね」
犬は答えない。
だって犬には人間の言葉なんて分からないから。
マリスはそれを理解しながらも、話しかけることをやめない。
きっと、マリスがこの犬を拾ったのが、マリス自身の寂しさのせいだったから。
たぶん、その言葉で癒されるのが、マリス自身だったから。
クロと離れている時、“ひとり”なのはマリスも同じなのだ。
同僚に囲まれ、ひっきりなしに人の出入りが繰り返される王城魔術師団の拠点の一室で仕事をしているが、孤児院出身で女性の魔術師などマリスしかいない。
たまたま配属先が同じになった同期のウィル・コールジットと話すこともあるが、仲間意識はあまり無い。
誰もがマリスを、いずれどこかの魔術師家系の貴族に嫁入りするか、第二夫人として囲い込まれる産み腹としか見ておらず、今はその相手先の選定期間中であると認識しているからだ。
意識的にせよ、無意識にせよ。
けれどそうやって、いずれどこかの家に囲い込まれるだろう未来を、マリスはさほど悲観してはいなかった。
孤児院育ちのマリスは、親兄弟の顔も名前も知らないが、血のつながらない兄弟は両手両足の指でも数え切れないほど大勢いた。
比較的温暖な気候の農耕地を擁する領地の孤児院だったので、その経営はさほど苦しいものではなく、慈悲深い領主の庇護のもとで優しい院長に育てられたマリスは、人と関わること、自分より幼く弱いものを世話することが好きになった。
誰かが自分を必要としてくれることが嬉しい。
人のぬくもりに触れると、根無し草のような自分が、今確かにここにいるのだと感じられてほっとする。
だから、いつか囲い込まれたその先で、たとえただの産み腹としてであっても、必要とされるならそれでいいのだ。
むしろそんなことよりも、魔術師としての才能を見出され、あたたかい孤児院から一人連れ出されて養成機関に放り込まれたことの方が、マリスにとってはよほど厳しい試練だった。
魔術師としてきちんと仕事ができるようになれば、お世話になった孤児院に仕送りができるようになるくらい稼げる、と言われて必死で修練を積み、一人前の魔術師になって念願の恩返しの仕送りもできるようになったが。
今の自分はひとりだ、という寂しさは、どうしようもなくマリスを苛む。
しかも彼女には、そんな状況をさらに悪化させる頭の痛い問題があった。
できるだけ目立たないよう、猫をかぶっておとなしくしていたというのに、王城魔術師になって間もなく、なぜかとあるボンクラ御曹司に目を付けられたのだ。
血筋だけは良いものの、性悪で魔術師の才能も低く、家名だけで仕方なしに魔術師団の花形部署に配属されたが、異常に自信家の彼にはその自覚も無いとくる、そんな人物に。
何の因果か「そこのお前、オモチャにするのにちょうどよさそうだ」と真っ向から直接言われ、妻でも第二夫人でもなく、メイドとして自分に仕えろと命令された。
さすがに王城魔術師になったばかりでまだ年若いマリスを、壊されるだけと分かっていながらメイドとして差し出すことなどできないと、止めてくれたのは上司のブライス・エルダーレン室長だ。
口は悪いが悪人ではない彼は、自身に強い権力があるわけではなかったが、それなりの古い魔術師の血筋であるエルダーレン伯爵の弟、という立場を利用して裏から各所へ話を通し、マリスが強引に連れ去られないよう上司として保護してくれた。
そして、正攻法でダメなら秘密裏に、と休日のマリスが狙われるようになると彼女に休日出勤を命じ、住まいも魔術師団の独身寮ではなく、ボンクラ御曹司の手が届かない外部の独身者用集合住宅を紹介し、引越しの手配までしてくれたのだ。
働けば働いただけ給金は増えるし、それは仕送り金額と貯蓄できる金額が増えるということでもあったから、安全のためだけでなくマリスは喜んで応じたし、感謝した。
だからだんだんと保護のための休日出勤が、多忙のための果てしない連勤となっていっても否やは無い、いや、無かった、のだが。
休みが無ければ体も心も休まらず、ひたすらに疲れは溜まり。
一連の騒動でケチのついたマリスを妻、あるいは第二夫人として求める家も見つからず。
一人でいる時間が長くなるばかりの状況は彼女をゆっくりと、だが確実に疲弊させていった。
そこに現れたのが、クロだ。
深夜、ケガをした黒い犬が道端でうずくまっているのがたまたま帰宅途中のマリスの目にとまったのは、きっと神の助けだったのだと彼女は確信している。
それくらい、マリスの孤独は限界に近かったし、もう何年も休日の無い、果てしない連勤を続けている過労状態の彼女の心は人知れずすり減り、凍えていた。
「いい子だね、クロちゃん。いい子」
その心がとけてゆく音が聴こえるような、安堵と歓喜の入り混じった声で繰り返し言いながら、マリスが優しく犬の背を撫でる。
彼女を絞め殺しそうな強さで抱きしめていた彼の腕からゆるやかに力が抜け、離れて食事の支度ができるようになるまで。
マリスはずっと、至福の笑みで彼女の“犬”を撫でていた。