第十九話「だからもう祈らない」
クロが王の上から脚をどけ、自分の方を向いてくれた。
そのことに心の底から安堵しながら、その譲歩に応えるため、次に譲るべきは自分だとマリスは分かっていた。
自分を拘束した男を弾き飛ばした白炎の鞭をずっと手に持ってはいたが、神のごとき力を持つ巨獣と化した彼に対して、こんなものは何の威嚇にもならないなどということは最初から承知している。
この鞭は、ともすればあまりにも強大な存在となってしまったクロに怖気づいてしまいそうな自分を奮い立たせるために、相手にそうと悟られないよう必死でしがみついていただけの小道具にすぎない。
役目を終えたそれへの魔力の供給を断てば、足元でとぐろを巻いていた白炎の鞭はふっと消え、黒コゲになった芝生だけが残った。
罪のない植物を傷つけたことに心が痛んだが、今はそれよりも優先すべきことがある。
慣れた動作で手元を見ることもなく杖を腰のホルダーへおさめると、空いた両手をクロに向かってせいいっぱい広げた。
「いい子ね、クロ。……ね、クロちゃん」
先ほど言ったことを、もう一度。
今度はいつものように微笑みながら言おうとして、……残念ながら失敗した。
声は情けなく震え、笑おうとした顔はみっともなく泣きそうなものになってしまう。
けれどそのおかげか、マリスが譲ったことにクロも気付いてくれたらしい。
いつの間にかぴたりと伏せられていた耳がぴくぴくと動き、おそるおそる立ち上がってマリスの方に向けられるのと同時に、鼻先がそうっと近づいてきて、彼女の腹のあたりにほんのわずかに触れる。
マリスは彼を驚かせないよう、ゆっくりとした動作で広げていた両手を閉じてゆき、彼の長い鼻の上を撫でた。
いつも撫でてやっていたその黒い硬質な毛並みが、なぜかひどく懐かしくて、ますます泣きそうになりながら言う。
「ごめんね、クロちゃん。怖かったね。私、人質になっちゃって、ごめんね。私が殺されそうになって、クロちゃん、怖かったよね」
漆黒の獣が驚いたように大きく目を見開いて、ふるりと身を震わせた。
それだけでどうしてか、彼がそのことに、今はじめて気付いたのだと分かる。
生き物は大切な存在が命の危険にさらされた時、それを怖いと思うのだ。
そんなごく普通のことを、これまで彼は学ぶ機会が無かったのだろう。
いったいどんな厳しい道を歩んできたのか、ケガをしてひどく衰弱した状態だったクロを思い出し、とうとう我慢しきれずマリスはぽろぽろと涙を流しながら震える声で彼を慰めた。
「もう、大丈夫だから。私ね、これでもけっこう強いんだよ。だからね、もう、大丈夫。でも、ごめん。もうあんなことがないよう、これからはもっと気を付けるから。ごめんね、クロちゃん。どうか許してね」
いつの間にかクロの大きな眼からも、大粒の涙があふれて零れ落ちていた。
一切の感情を消し去ってしまったかのように無機質で、不穏な輝きを帯びた黄金の眼が、いつもの金まじりのとろりとしたやわらかな琥珀色に戻っている。
そのことに安堵しながらも、ああ、よく泣く犬だとは思っていたけれど、まさか自分が泣かせてしまうことがあるなんて、と罪悪感で胸が苦しい。
けれど、クロはただ怖かったから泣いているのではなく、どこか途方に暮れて泣いているのだと、しばらくしてマリスは気付いた。
なぜ分かったのかは自分でも理解できないが、クロは吠えないけれど感情豊かで意外と分かりやすい子だから、不思議はない、とも思う。
ほんのわずかな仕草で、その眼差しに浮かぶほのかな表情で。
ささやかなものを積み重ねて、クロはその心を伝えてくるのだ。
うん、とマリスは頷いた。
そんなふうに途方に暮れた迷子みたいな、これからどうすればいいんだろう、なんて顔をする必要は無いのだと、伝えるために唇を開く。
「帰ろう、クロちゃん。私たちの部屋に、帰ろう。
クロちゃんがどんな姿をしていてもいいし、さっきみたいに喋っても、前みたいにずっと何も言わなくてもいい。
帰ったら、クロちゃんの好きな物、いっぱい作って食べさせてあげるから」
震える声でゆっくりと言葉を綴ってゆくうちに、マリスもクロもようやく泣きやんだ。
マリスに迷いは無かった。
「ね? 帰ろう、クロちゃん」
けれどクロはわずかに鼻先を下げて、うかがうようにマリスを見上げる。
なぜ? という声が聞こえるようだった。
どうしてそう言ってくれるの? と、聞きたくて聞けない、怖がりな子供がそこにいるのが見えるようだった。
今度は微笑むことに成功して、マリスは答えた。
「あなたが大事だから」
マリスはまたクロを驚かせてしまったらしい。
眼を丸くした巨躯の獣が、あまりの驚きに息を止めていることには気付かず、ふふ、と彼女はほがらかに笑った。
「私はあなたが大事なんだよ、クロ。
……いつか、祈ったことがあった。あなたに安らぎのなかで眠ることができる日が訪れますように、って。本当に、いつかそうなったらいいって思って、祈ってたの。
でももう、私は祈らない。
だって私が、そういう夜をあなたにあげたいと思うから。いつかきっとそれをあげるって、決めたから」
だからもう祈らないの、と言って、マリスはクロの鼻先に小さなキスを贈った。
その贈り物は拒絶されることなく、やや戸惑ったようではあったけれど、どこか嬉しそうに受け取られ、それに力を得た彼女は囁くように言う。
「大切にするよ、私のクロ。一緒に帰ってくれるなら、ずっと、いちばん、大切にするって約束する」
マリスは黒い犬の姿のクロしか見たことがないし、今は恐ろしく巨大で強い力を持った獣と化してしまって、元に戻るのかどうかさえ分からないけれど。
それでも彼女の心は揺るぎなく、変わらなかった。
「だから」
そしてマリスはぐっと力を込めて顔をあげ、白い光のきらめく空を睨むように見上げて叫んだ。
「あなたの空の剣は、もう二度と、一つだって増やさせない!」
その言葉に、今度はクロの方がマリスに何もかもを見抜かれているのだと理解した。
きっとこの場の誰もその意味を知らない決意が、彼の全身を鋭く貫いて、深くこだまする。
もはや彼には、どうすることもできなかった。
全面降伏するように、全身の力を抜いて大地へ沈み込むように伏せ、長く深く息をつく。
その時「あっ」と、誰かが声をあげた。
空を指さして騒ぐ声につられて、巨狼の傍に座ったマリスが、彼の毛並みを撫でてやりながらそちらを見る。
そこには神のごとき獣が降ろした夜の帳がゆるやかに消えてゆき、かわりにその向こうでずっと輝いていた太陽へと空の舞台を譲りゆく、美しい光景があった。
「朝だな」
「朝ですねぇ」
いつの間にか近くに座っていたジェドとフォルカーが、疲れた顔をして陽射しを浴びながら、目を細めてつぶやいた。
時刻としてはまだ明るい昼過ぎ頃であったが、彼らの言う「朝」はそういう意味ではない。
きっと人生で初めての、本当の夜明けを迎えたのであろう昔馴染みへの、それは不器用な祝福だ。
そしてそんな分かりにくい祝福を受けた昔馴染みはといえば、これまで大きく変化したところを誰も見たことが無いその顔にとろけるような笑顔を浮かべ、隣に座って彼の髪を撫でていたマリスを腕に抱き、膝の上に引っ張りあげた。
わっ、と小さく声をこぼした彼女は、大きな手に挟まれて上を向かされ、間近で見つめあうことになった男の顔をその新緑の瞳に映して。
「マリス」
どんな場であろうとよく通る、独特の迫力のある低い声がはじめて真っ向から彼女の名を呼ぶのに、ぽかんとした顔で「えっ」と間の抜けた声をこぼした。
そして、つい先刻、衆人環視の中で熱烈なプロポーズをしたとは思えない、驚愕の表情で言う。
「…………誰?」
事情を知っているジェドとフォルカー、そして「誰?」と問われた当人であるゼレクだけが、彼女の驚愕の意味を理解して笑った。
ゼレクが初めて迎えた朝。
きっとそれは、初めてマリスがゼレクという“人間”と出会った日。
なぜならおそらく今日こそが、ゼレクが本当の意味で人として生まれた日だから。
「えっ? 人間?? クロちゃんが人間?! えっ? あっ、ジェドさんとフォルカーさんは、そういえば最初からそう言ってたけど。でも、ずっと犬だったのに! えっ、えっ、本当に人間だったの?! え、えええぇぇぇーーー?!」
混乱した声をあげるマリスを腕に抱きしめたまま、ゼレクは生まれてはじめて声をあげて笑った。
笑い方さえ知らなかった彼にマリスが教えた、それはあたたかで楽しげな笑い声だった。