第十八話「闇夜に輝く白炎の」
「俺はお前に跪かない」
最初に言ったのと同じ言葉をもう一度繰り返したゼレクが、鋭い爪が飛び出した前脚をぬうっと伸ばしてあやまたず国王の首をとらえた。
流星の暴威にすっかり魅入られてマリスの首から短剣の刃を下ろしてしまっていた王は、ろくな抵抗もできないまま後ろに倒され、巨躯の獣の脚にそのまま踏み潰されそうな力をかけられ苦悶のうめき声をあげる。
「屈するのはお前の方だ」
王が言葉にならない喚き声をあげながら、片手に握ったままだった短剣でゼレクの脚を切ろうとしたが、漆黒の毛並みは鋼鉄の鎧のごとく刃を弾いた。
脚の下でぶざまに体をくねらせながら無意味な抵抗をする年老いた男を、何の感情も無いように見える無機質な黄金の眼で冷徹に眺めおろし、四つ足のケダモノは切りつけられたことなど気にしたふうもなく言う。
「それほどまでに俺の力を望むなら、俺がお前を喰ってやる。それで終わりにしてやる。本望だろう? お前の望む、俺の力の一部となれるなら」
その言葉が終わらないうちに、不意にバチィッッ!! と激しい打擲音が獣の真横で響いた。
王を脚下に捕らえたまま、ゼレクの視線だけが動く。
そしてその音の発生源を見つけると、闇夜に爛々と光る黄金の眼の縦に割れた瞳孔が、あまりの驚きに丸くなった。
「やめなさい、クロ」
臙脂色のローブをひるがえし、片手に掴んだ杖から伸びる白炎の鞭を足元に垂らして仁王立ちした女が、傲然と顎を上げて命じる。
乱暴に捕らえられたせいで髪紐が取れてしまったのか、いつも三つ編みにしている長い金の髪がほどけて波打つように広がり、それが白炎の鞭の光をはじいて闇夜の中で輝くように浮かびあがっていた。
真昼に降ろされた月のない夜の中で、その姿はすべての人々の視線を否応なしに惹きつけるほど豪奢で美しく、しかし鮮やかな緑の目に映すのはただ一頭の漆黒の獣だけ。
彼女は叫ぶのではなく、怒鳴るのではなく、泣きわめくのでもなく。
その完璧なまでに感情の制御された冷静な声は高く澄みわたり、夜闇の世界にりんと響いた。
普段の優しく穏やかで、どちらかといえばやや控えめな姿とはまるで異なる。
見間違いか幻としか思えなかったが、その声の主、彼女は確かに、マリス・ラークだった。
先ほどの打擲音は、白炎の鞭で自分を拘束していた侍従の男を弾き飛ばすためのものだったらしい。
少し離れた場所に倒れて苦悶の声をあげている男と、その際に焼かれたのだろう芝生の跡に、ゼレクは信じられないものを見る目でマリスを凝視した。
「食事はちゃんと与えているでしょう。そんな汚いものを拾い食いするなんて、私は絶対に許しませんよ」
ジェドとフォルカーも、あまりのマリスの変貌ぶりに唖然としている。
それと同時に、彼女がいったい何を言っているのか、どうにも緊迫した状況とはまったく別のことを問題にしているようで、理解が追いつかない。
けれど、そんなことは激怒した彼女には関係ない。
「あなたは私の作った食事が好きでしょう? こんなところで拾い食いしたものでお腹を壊すのと、帰って私が作ったものを食べるのと、どちらがいいか。よく、考えなさい」
今まさに猛獣を従えんとする調教師、あるいは悪童を躾ける厳しい母。
まさしくそうとしか見えない圧倒的な迫力をもって、マリスは緑の目で真っすぐに見据えた己の犬に命じた。
「さあ。それを、離しなさい。――――――クロ」
その名を呼ばれた瞬間、思わずゼレクは従った。
従ってしまった。
己の姿を異形に変貌させるほど怒り狂い、世界に夜を降ろして地上のすべてを滅亡させる瀬戸際にあった四つ足の化け物が、その時、ただの犬になった。
脚を離す前に、マリスからの強烈なプレッシャーのせいでうっかり力加減を間違えて強く踏んでしまい、カエルが潰れるような音を立てて王が口から泡を吹きながら失神したが、もはやそれどころではない。
数分前まで地上のすべての生命が彼のせいで滅亡の瀬戸際にあったが、今やマリスのせいでゼレクの何かが風前の灯火である。
ゼレクにとってそれを失ったら命を奪われるのと同等の意味を持つものが、危うい均衡のところに置かれているのだと、初めて見るマリスの激怒した目を見て悟った。
無数の白い光が天にきらめく夜闇の世界で、その支配者であるはずの獣が白炎の鞭を持っただけの女の前に恭しく向き直り、巨大な体躯を折り曲げるようにしてそうっと顔を下げ、視線を合わせる。
「いい子ね、クロ」
穏やかに褒めたように“聞こえる”その口調に、はたで見ているだけのジェドとフォルカーでさえ、ゾオッと自分の背筋が凍る音を感じた。
当事者ではない自分たちでこれでは、今、真っ向から彼女に見据えられているゼレクの恐怖は、いかばかりか。
先ほどからついていけない状況の連続で、疲弊した精神はすでに限界に近かったが、ジェドとフォルカーは思わず昔馴染みに同情してしまった。
大丈夫か、お前。初恋なのに、とんでもない女を選んじまったみたいだぞ……
夜闇の世界にとけてほとんど見えないはずのゼレクの毛並みが、全身すっかり逆立ってしまっていることにこの場にいる誰もが気付いて……、かつて軽い気持ちでイタズラをしたせいで泣くほど厳しく叱られるはめになった幼き日の自分の姿を見てしまったような気持ちになり、そっと、目をそらす。
おかげでゼレクの尻尾がきゅっと丸まって後ろ脚の間に収納されてしまっていることに気付いた者はいなかったのだが、彼にとってそんなことは何の慰めにもならなかった。