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第十七話「真昼の夜」



「ウィンザーコート師団長が着いたら、王子の変調の件も含めてお話をうかがう予定だったはずです! それが、なぜそのような戯言(ざれごと)をおっしゃるのですか!」


 大気が波打ち、庭園の花木がざわめくほどのゼレクの殺意に気圧されまいと声を張り上げた、白髪まじりの黒髪に金の目の宰相は、国王にそう詰め寄ることで場の崩壊を懸命に防ごうとしているようだった。

 しかし、その決死の覚悟は王には伝わらない。


「どういうこともなにも、今言った通りだ」


 妄執に憑りつかれた王が嗤う。

 彼は最初から弟である宰相のことなどまったく見ておらず、ゼレクだけにその声を向けていた。


「ゼレク・ウィンザーコート、シルビアの子。儂の子であるこの男の力を、儂は王子の身に移さなければならないのだ。

 分かるだろう? カイウス。

 残念だが父上のせいでゼレクを王子と認めることはできない。だがその力は、王家のものだ。ゆえに正統なる王家の、儂の子のものとせねばならないのだ!」


 その妄執を薙ぎ払うように、ゼレクが静かに指摘した。


「だが失敗した」


 そして王と宰相とともに東屋に座っていた、今も微動だにせず背もたれに身を預けたままの青年へと視線を向ける。


「残り、二人。お前が続けても、その失敗作と同じものが、あと二つ増えるだけだ」

「黙れ!」


 激高した王がダンッ! とテーブルを叩く。

 その衝撃でテーブルの上にあったカップがガチャンと耳障りな音を立てて転がるが、空っぽの人形のように虚ろな顔をした黒髪の青年は背もたれに身をゆだねたまま、相変わらず微動だにしない。

 その顔を見たジェドとフォルカーが目を剥き、ジェドが「まさかあれ、第一王子か……?!」と驚いたようにつぶやいた。


「黙れ、黙れ黙れ黙れッ!!」


 白く泡立つ唾を飛ばして王が叫ぶ。


「血が足りなかったのだッ! お前の血が足りなかったゆえに、魔法薬が未完成のものとなってしまったのだッ!!」


 その時、王の血走った目がゼレクから視線を外して横に流れた。

 いったい何を、と誰もが身を強張らせた瞬間、マリスは背後から強い力で宙にさらわれる。


 そして何が起きたのか理解できない数秒の浮遊感の後、芝生の上にドサッと落とされるのと同時に、後ろから身動きできないよう抑え込まれて息がつまった。

 うめき声をあげることもできず痛みに耐える緑の目に映った上等な作りの靴が、その持ち主の名を告げる。


「マリス!」

「ラークさん!」


 王とゼレクの方に気を取られていたジェドとフォルカーはマリスを連れ去られるのを阻止できず、ここまで彼らを案内してきた侍従の男に拘束された彼女の首に、すかさず短剣の刃を当てた王を見て動きを止める。

 その冷たさにマリスがびくりと震えたせいで、白く細い首筋にすうっと一本の赤い筋が引かれ、小さな赤い雫が刃を伝ってその切っ先に揺れた。


 宰相は王のすぐ近くにいたが、もはや事態は彼ですら手に負えない。

 誰も何もできず、限界近くまで緊迫した場に、欲望に(よど)んだ王の声だけが響く。


「この娘がお前の(つがい)なのだろう? ゼレク。黒狼は生涯に唯一の番に忠誠を捧げ、命すら捧げるという。ならば貴様も捧げよ、その血を、その命を!

 この娘を守りたくば、その力を儂に捧げるのだ!」


 狂ったような叫びが静かな西離宮の庭園に広がって、消えた。


 その時ようやく、皆が気付いた。



 先ほどまで強く吹いていた風が、やんでいる。


 いつの間にか虫の音も鳥の声も無く。


 世界が凍りついたような静寂で満ちている。




 王の乱れた呼吸音だけが時の流れを告げるその場で、けれど一つだけ、(うごめ)くものがあった。




 完全に瞳孔の開ききった琥珀の目でマリスの首から滴る血の雫を凝視する男の。

 ゼレク・ウィンザーコートの、足元の、影が。




「俺がお前に従わなければ、マリスを殺すのか」




 黒い軍服を着ていても分かる。

 蠢く影が炎のようにゆらめき、足元からゼレクの体を覆ってゆくのが。



 黒く、黒く、昏く。



 漆黒の影がゼレクの顔を覆いつくす刹那、その唇がいびつな三日月めいた弧を描くのを、その場にいたすべての者が声も無く見ていた。




「やってみろ」




 全身をゆらめく影に覆いつくされたゼレクは、もう誰の目にも人に見えない。

 化け物が嗤う。

 嗤いながらいっそ無造作な口調で言い放つ。





「やってみろ。この世界を滅ぼす暗愚となりたいのなら」





 そしてその口調の無造作さとは真逆の、怒りに満ちた化け物の咆哮が轟き、蠢く漆黒の影が巨躯の獣の姿に収束してゆく。

 それは王家の伝説に語られるような神々しい黒狼ではなく、憤怒と憎悪と怨嗟(えんさ)に形作られた四つ足のケダモノ。


 そのケダモノの、喉をそらし天地に轟く咆哮が、世界に夜を呼び寄せる。

 真昼の太陽が分厚い布で遮られたようにかき消え、月の無い闇が降りて漆黒の毛並みを纏うゼレクの姿を飲み込んだ。


 その身から放たれる強烈な怒りと憎悪がなければ、あるいは煮えたぎる溶岩のごとく爛々(らんらん)と不穏に輝く黄金の眼がなければ、ゼレクの姿を見つけるのは困難だっただろう。

 それほどに、この夜闇の世界はゼレクの支配下に置かれていた。



「空を見ろ」



 憎しみにざらついた声が告げる言葉に、支配下に置かれた人間たちは抗いようもなく天を仰ぐ。

 完全な闇と思われたそこには、しかし数多(あまた)の白い星があった。

 けれど誰もが違和感を抱く。




 星というには、あまりにも輝きの鋭い――――――




「あれは俺の剣だ」




 ――――――刃物の切っ先のような、無数の光。




「一つ、落としてみせてやろうか」




 低く笑うその声が、戯れるように言った時にはもう、輝きの一つが長く尾を引きながら凄まじい速度で落下の軌跡を描いていた。

 真っすぐに落ちてくる、その切っ先が自分たちの方に向かっていることに気付いて、誰かが甲高い悲鳴をあげるのをどこか遠く聞く。


 マリスは王の足元に転がされて首に短剣を突き付けられたまま、流星のごとく尾を引いてすぐ近くにある小高い山を貫いた白い輝きが、耳を(ろう)する轟音とともに大地を抉り周囲の木々を焼き尽くすのをじっと見ていた。

 湖の向こうで起きたその大破壊の余波は、湖のちょうど中央あたりに張られた魔術防壁と思しき不可視の壁に防がれてこちらに届くことはなく、しかし目前の光景をあますことなく見せつけることで今この天に輝くものが何を引き起こすのか明確に知らしめている。


 首に当てられた短剣を持つ王の手が震えて刃が浮き、彼がその力に魅了されているのを感じた。

 背中で組まされた両手首を押さえつける手からわずかに力が抜け、自分を捕えている侍従の男が眼前の光景に恐怖しているのを感じた。


 そんな場で、おそらくマリスだけが、まったく誰とも違うことを考えていた。





 この天にある無数の星を、ゼレクは「俺の剣」と呼んだ。


 もし本当にこの空がゼレクのものだというのなら、そこに突き刺さる無数の「剣」は、かつて彼自身に突き立てられたものではなかったか。



 もし、そうなら。

 この考えが、もしも正しいのなら。





 彼の身は、彼の心は、これまでいったいどれほど無惨に切り刻まれ、その果てしない苦痛に苛まれ続けてきたのか。





「……ッ!」


 唇を噛んで、こぼれかけた声を喉の奥で押し殺す。


 ただの思いつきに過ぎないその考えが絶対に正しいものだと、どうしてか彼女は“知って”いた。

 理由も根拠も無かったが、彼女はただそれが本当に正しいのだと“分かって”しまった。


 涙は出ない。

 そのかわり、四つ足のケダモノと化したゼレクの身から放たれるものに勝るとも劣らない、激しい怒りが、マリスの全身を()くように燃えあがった。




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