第十六話「謁見は離宮庭園で」
「おとなしく支度するならすぐにラークさんのところへ戻れますし、次の差し入れはラークさんのお好きな焼き菓子にしますよ」
マリスから引き離されるのを嫌がってぴったり張り付くクロにフォルカーがそう告げたとたん、黒い犬は颯爽とした足取りで隣室に消えた。
「クソ扱いやすい……、あれ本当にゼレクか……。……俺たちの今までの苦労は、いったい何だったんだ……」
マリスの隣に残ったジェドが、なぜか額に手を当ててがっくりとうなだれていたが、彼らの言うゼレクという人を彼女は知らないので、何と声をかければいいのか分からない。
そしてほとんど数分も経たないうちに、また颯爽とした足取りでクロはマリスの元に戻ってきた。
彼女には黒い犬のどこが支度されたのかさっぱり分からなかったが、フォルカーが彼らと同じ軍服を着せたのだと、なぜかこちらは生ぬるい眼差しでまたぴったり寄り添ってきたクロを見ながら説明してくれた。
さすがにいつもの服で国王と宰相の前に連れて行くわけにはいかないから、と。
そう言われて、服、着替え? と、何かがマリスの頭に引っかかったような気がしたが、それよりもクロが首輪をしたままなのを見て「あれ?」と首を傾げた。
「フォルカーさん、クロちゃんの首輪、外さなくていいんですか?」
マリスにとってクロは黒い犬だから、首輪をしているのに違和感はない。
だがクロが人に見えているらしい彼らにとって、それはとても奇異に見えるらしい。
ジェドなど、最初にそれを指摘して「特殊性癖のバカップルか!」と、怒鳴りつけたくらいである。
ならば人前に出る時には外していくべきではないか、と思ったのだが。
「ゼレクが嫌がるので無理です。それに、陛下にも宰相閣下にも、我々が何を言うより、今現在のありのままの彼を見てもらった方がいいでしょう。今回の謁見は非公式のものですから、人払いもされていますし」
それでいい、のだろうか?
マリスには判断がつかなかったので、曖昧に「そうですか」と頷き、もはや完全なる諦めの境地にあるような顔をして「じゃあ行くか」と促したジェドに連れられてクロと一緒に部屋を出た。
とたん、緊張で体が強張るのを感じる。
なんといっても、これから国王陛下との謁見に臨むのだ。
王城魔術師とはいえ、まだ若い女性で孤児院出身という、最下位としか言いようのない位置にいるマリスにとっては本当に遠い、雲の上の存在だ。
フォルカーに、宰相が同席するから安心していいと言われても、どうしたって緊張してしまう。
というか、マリスからすると宰相閣下だって雲の上の存在で、緊張する相手である。
しかも第一師団の拠点の一室にある魔方陣を使って転移魔術で西離宮まで行くというのだから、移動時間中に心の準備をすることもできず、マリスは言われるまま歩かされていくうちに美しい白亜の宮殿の中にいた。
自室から第一師団の拠点への移動もあっという間だったし、ここに至るまでの時間があまりにも短すぎて、頭と心が付いていけていない。
それでも指示されると、体は動く。
「陛下は中庭でお待ちになっておいでです。どうぞこちらへ」
待ち構えていた侍従に案内され、ジェドとフォルカーに促されて彼らに先立ち赤い絨毯の上を歩いてゆく。
王城と同じように、王家の聖始祖と伝えられる神獣、黒狼の絵画や彫像があちこちに飾られた西離宮は、小高い山に囲まれた湖のほとりに建つ宮殿だった。
王都からどれくらい離れているのかマリスには知りようもなかったが、周囲の山に冬の寒風が遮られたこの地の気候は温暖で、喧騒を離れて休養をとるには最良であろう静けさに満ちている。
「陛下」
侍従に連れられて中庭に出ると、間もなく美しくしつらえられた庭園の中の東屋に辿り着いた。
王都では草さえうつむく寒さだが、冬でも温暖なこの地では、色濃い緑の常緑樹の葉の下で淡い彩りの花々が可憐に咲いており、春夏とはまた違った趣を宿して見る人の目を楽しませている。
そしてその庭園の中の東屋に座っていた三人のうち、侍従の呼びかけに二人の老齢の男性が振り向いた。
「ああ。……来たか」
連れられてきた四人を見て、頷き応じた奥の男性が国王なのだろう。
顔の皺や丸まった背中、色素の抜けたぱさぱさの灰髪のせいでずいぶんと疲れて年老いているように見えるが、傲岸さのただよう威圧感を持つ支配者然とした空気を、自然と全身に纏うその姿は、確かに王者のそれだった。
マリスは半歩後ろに控えたジェドやフォルカーにならって礼をとる。
しかしその時、ずっとマリスの横に寄り添っていた黒い犬が、無遠慮に前に出た。
「俺はお前に跪かない」
どうしてか聞き覚えのある、知らない声が低く響いた。
いつ聞いたのか記憶がおぼろげで、すぐには思い出せない。
けれど悠長に記憶をたぐっているような場合ではなく、すぐそばで同じように礼をとっていたジェドとフォルカーが慌てたように腰を浮かせたのが分かった。
それでようやく、今のがゼレク・ウィンザーコート師団長という人の声なのだと分かる。
不思議だった。
マリスには相変わらず、黒い犬の姿にしか見えないのに。
そして国王への恭順を放棄したその犬は、マリスに背を向けたまま言葉を続けた。
「お前は俺をここに呼ぶべきじゃなかった。何度失敗すれば理解する? お前の実験が成功することは無い。だから俺のことは放っておけ。そこの失敗作も、もう解放してやれ」
誰もが何が起きているのか分からないでいる中、不遜な物言いでゼレクに命令とも思われる言葉を向けられた国王だけが平然として応じた。
「手放すものか」
嗤ったその顔が、次の瞬間、妄執に歪む。
「お前は儂の息子。シルビアの子。我が子を手放すものがどこにいる?」
その言葉のどれかが、あるいはすべてが、ゼレクの逆鱗に触れた。
ゾワリとつま先から頭のてっぺんまで、一気に肌があわだつほどの魔力放出を感じてその場の全員が息をのむ。
放出された魔力は大気を波打たせ、渦巻くような突風が吹いて庭園の花木がざわめく。
しかしその中で、かろうじて声を上げた人物がいた。
「お、お待ちを! 陛下! これはいったい、どういうことなのですか!」
己を奮い立てようとするように強く声を張り上げたのは、国王の向かいに座っていた老齢の男性。
フォルカーが話していた宰相カイウス・セレストルと思しき彼のその発言は、決死の覚悟でゼレクの殺気を国王からそらそうとするものだった。