第十五話「拒否できない種類のやつ」
「はい、どうぞ」
鍵を開けて二人を招き入れようとすると、彼らは部屋に入ろうとはせず、マリスに今すぐ外出の支度をしてくれという。
しかもマリス一人ではなく、クロも連れて、これからどこかへ行かなければならなくなったらしい。
「支度ができたら事情をお話しますので、まずはご用意をお願いします」
どこか緊張した様子のフォルカーに言われ、これは拒否できない種類のやつだな、と察してマリスは「分かりました」と頷いた。
下っ端ではあるが、マリスとてままならぬ宮仕えの身である。
この仕事には上の都合に振り回されることが多々あるのだと、自分の経験から嫌というほどよく知っていた。
元より休暇が明けたら出勤するつもりであったから、外出の準備ならすぐにできる。
玄関横にかけた鏡の前で身支度を整え、いつもの王城魔術師としての濃紺の制服を着て臙脂色のローブに身を包み、腰の革製ホルダーに愛用の杖がおさまっているのを確認すると、玄関を開けて二人を部屋に入れた。
「休暇中なのに、たびたびお邪魔して申し訳ありません。しかし今回は、だいぶ上からの命令でして」
フォルカーだけでなく、ジェドもやや緊張した面持ちであることから、その“上”というのがマリスの想定よりもっと高いところであるらしいと分かる。
つられて緊張したマリスに、後ろからそっと、慣れたぬくもりが寄り添った。
のす、といつもの調子で頭の上に顎が乗り、マリスの唇に思わず笑みが浮かぶ。
本当に、大きな犬だ。
それに、優しい子でもある。
今はきっと、マリスが緊張したのを感じ取って、味方しに来てくれたのだろう。
案の定、クロに睨まれたらしいジェドとフォルカーが顔を見合わせ、フォルカーがさっと手を振って防音結界を張ると、ため息をついたジェドが言った。
「これは俺たちのせいじゃねぇ。むしろお前のせいだ、ゼレク。陛下がお前の話を聞いて、マリス嬢と一緒に西離宮に来いと命令されたんだ。王城じゃなく西離宮なのは、たぶんお前に対する配慮だぞ」
少しはありがたく思いやがれ、とぶつくさ文句を言うジェドの横で、しかしフォルカーはいささか浮かない顔をして、銀縁フレームの眼鏡の位置を直しながらつぶやくように言う。
「ただ、なぜ西離宮なのか、理由が分かりません。あそこには確か、静養中の第一王子がいらっしゃるはずです。体調のすぐれない王子の元に、どんな騒動を起こすか知れないゼレクを呼ぶのは、何らかの理由があるのではないかと思うのですが……」
「ああ、あの王子の静養も、けっこう長引いてるよな。戦後すぐだっけか? 西離宮に引きこもったの。初陣のショックがどうたらとかいう話だったが、あの人、戦場なんか出てねぇのにな。あんな後方にちょっといただけで、何のショックを受けるってんだ? 王太子にしちゃあ脆すぎだろ。静養があんまり長引くなら、第二王子が出てくるかもしれんな」
「まあ、そうですね。何番目の王子が王太子になろうと、我々にはそう影響はないでしょうが。とくに今の宰相閣下は、陛下の手綱を取るのがお上手な能吏ですし」
「いや、陛下の手綱とか、宰相閣下を能吏とか、お前……。あの人たしか陛下の弟君だろ? 臣籍降下して公爵になってるとはいえ、もうちょっと言葉に気を付けろよ」
呆れたように言うジェドに、珍しくフォルカーが眼鏡の奥で青い目を驚いたように瞬かせた。
「おや。ジェドからそんな注意を受けるとは、心外ですねぇ」
「うるせぇよ。どうせ俺はたまに表でも言葉遣い間違える間抜けだ、自覚はあるしこれでも気を付けてんだ、だからそうチクチク言うんじゃねぇっつの」
目の前で話されるので聞いてしまったが、今のは自分が耳にしても許される会話だったのだろうか、とマリスは無言で思った。
当たり障りのない表情を浮かべて黙っていたが、国の上層部の裏事情とか全力逃走したいレベルで関わりたくない。
そんなマリスの無言の主張が聞こえたわけでもないだろうが、会話に置き去りになっていた彼女に気付いたフォルカーが声をかけてきた。
「ラークさんは宰相閣下とお会いしたことはありますか?」
「王城魔術師の任命式に列席されていたような記憶がありますが、個人的な面識はありません。私は王城魔術師とはいえだいぶ下位の方ですので、雲の上の御方、ですね」
そうでしたか、と頷いて、フォルカーが教えてくれる。
「今回の陛下への謁見には、宰相閣下も同席してくださるそうです。
あの方は陛下の弟君、つまり先王陛下の第二王子で、幼い頃から優秀だったそうですが、そのせいで第一王子の現王陛下との権力闘争が起きないよう、早々に臣籍降下して宰相の元で官吏としての経験を積まれ、現在の宰相位にまで自力で上り詰めた実力者ですからね。出自が出自ですが、それを笠に着て偉ぶるようなこともなさいませんし。
昔、大病を患ったとかで、今でも時々体調を崩されて休まれることがあるのは難ですが、貴族院ですらそれを理由に宰相位から外すこともできないほどの御方です。いざという時に頼りにしていい方ですから、あの方が同席しているかぎりは安心して大丈夫ですよ」
「それは……、凄い方なんですね」
宰相カイウス・セレストル。
以前、クロの首輪についての相談にも乗ってもらった同期のウィル・コールジットから彼についての話を聞く機会があったので、多少のことはマリスでも知っている。
その時もたまに体調を崩して休むことはあるものの、それでもできるだけ長く宰相位にいてもらいたいと言われるほどの人物なのだという話だったが、どうやら本当にかなりの実力者であるらしい。
素直に感心したマリスに、フォルカーが頷いた。
「まったくです。陛下より王に相応しかったのではないかと、いまだに囁く声があるくらいですよ。しかしあの方は、宰相位にありながらだいぶ影の薄い方でもありましてね。おそらく迂闊なことをして権力闘争の舞台に引きずり出されないよう、わざと存在感を消しているのでしょう。
子供が生まれた時の騒動を懸念されているせいか、一度も結婚せず独身のままですし」
わざと存在感を消している、という言葉に、なるほど、と腑に落ちるものがあった。
マリスは下っ端ではあるが、王城魔術師として王城に近いところに勤めている。
だから上層部の話は何もしていなくてもちらほらと聞こえてきたりするものなのだが、宰相の噂話というのは、ウィルに教えられるまでほとんど聞いたことが無かった。
おそらく、噂されるようなことを起こさないよう、身を慎んで裏方に徹しているからだろう。
それだけでも人柄が感じられるように思ったが、同時に、あるいは敵に回した時、王より怖い人かもしれない、という印象も抱いた。
「そういや宰相閣下の結婚って、たまに見合いの話が出ては必ず煙のように立ち消えになるってんで、一時期誰かが何かトラウマでもあるんじゃないかとか言ってたなぁ。まあ、どこにでも変人はいるもんだ、っていう結論で終わったけど」
と、なぜかジェドがオレンジ色の目で物言いたげにクロを見ながらつぶやいた。
ジェドとフォルカーが、クロのことをゼレク・ウィンザーコート師団長という人だと思っているのは認識しているので、その人も変人と思われるような性格だったのかもしれない、とマリスは思う。
彼女から見たクロは、ちょっと手がかかるけれど可愛い犬だから、よく分からない話なのだが。
そうしていまだに“うちの犬のクロ”と“ゼレク・ウィンザーコート第一師団長”が頭の中でまるで繋がらないマリスが首を傾げているうちに、ポケットから懐中時計を取り出して時間を確認したフォルカーが言った。
「すいませんが、ラークさん。あまり時間がありません。まだゼレクの支度もしなければなりませんし。本当はもう少し詳しく話しておきたいところですが、ご同行願います」
ゼレクの支度と聞いて、犬の支度って何? と内心で思いつつ「はい」と頷いたマリスとクロを連れ、ジェドとフォルカーは第一師団の拠点へ移動する。
マリスには予想外なことに、その移動には転移石と呼ばれる使い捨ての魔道具が使用され、慣れた様子でフォルカーがそれを作動させるのを見た彼女は、はじめて彼らが第一師団の人間であることを実感した。
転移石は、凄く高価な、魔道具なのだ。
使い捨てでこの金額、とマリスなどの下っ端魔術師には恐れおののくしかないそれを、何の頓着もなく軽く使用できるとはさすが第一師団、きっと予算額の桁が違う。
そうしてマリスにとって身近な魔道具という物の価値で彼らの所属先を改めて認識させられつつ、そのあまりに無造作な使い方に唖然としているうちに、彼女はいつの間にか自室から第一師団の拠点の一室へと転移していた。