第十三話「人間でありすぎるもの」
子供であったことも、大人になったこともない。
幼い頃から規格外の強さを発現したゼレクはただ、いつどこにあっても『ゼレク』という名の化け物だった。
母は比較的早い段階で、自分はお前のような化け物の母親ではない、と悲鳴じみた声で拒絶した。
二人の兄は、お前がそんな化け物だから、実の親に捨てられたのだと、ゼレクがそれを忘れないよう執拗に言い続けた。
妹はゼレクの視界に入ることも嫌がり、彼がいるところにうっかり出くわすと、「ヒッ」と真っ青な顔で息をのんでパニックを起こした小動物のように全力で逃げた。
そんな家族に、父は「ゼレクが養子であると知られてはならない」と厳命した。
そしてその後は、自分は仕事を理由に家に寄り付かなかった。
そういうところで育った。
だからそれが当然のことでありすぎて、人の中の異種であり続けたゼレクは人に発情したことが無かった。
必然的に、恋など夢のまた夢の話で、自分の身に起こるものとして考えたことすら皆無だった。
「……クロちゃん? おでかけ、してたの……? ちょっと、つめたいね。そと、さむかったんだねぇ……」
まばゆい昼の陽射しをカーテンで遮った狭い部屋の寝台で、勝手に潜りこんできた男を何の抵抗もなく寝ぼけたマリスは受け入れる。
それは彼女がゼレクを犬だと思っているからで、男性としての彼を受け入れているからではない。
ゼレクも女としてのマリスを必要としていたわけではなかったから、今までそうして抱き合う行為にはただ穏やかな安堵や、たとえ犬としてであっても受け入れてもらえる喜びだけがあった。
そう、思っていた。
けれどフォルカーにおかしなことを言われたせいで、今は腹の奥底に奇妙なざわめきがあることに気付いている。
それはきっと、初めてマリスがゼレクに触れた時に種を落とし、初めてマリスが笑った時に芽吹き、ただそばにいて寄り添っている間にゆっくりと育ち、マリスを傷付けた男に報復せずにはいられなかったことでついに完全に根を張ってしまった何かだ。
フォルカーは「初恋か」と言った。
けれどゼレクは恋など知らない。
そんな人間でありすぎるものを、理解できるとも思わない。
だからそのざわめきが何であるかも分からない。
「ああ、ほんとにつめたい……。さむかったねぇ、クロちゃん。もう、だいじょうぶ。ここは、あったかい、から、ね……」
まだ睡眠が足りないのだろう。
途切れがちなかすれた声で言いながら、腕の中に潜りこんできたゼレクを抱きしめるマリスの細い手が、ほとんど力が入らないだろうに、ゆっくりと彼の背を撫でてから、包み込むように手のひらを当てる。
小さな体でせいいっぱい、冷えた彼を温めようとしてくれる。
冬の風吹きすさぶ外の世界から戻ってきた彼を、暖炉石にあたためられた陽だまりのようなこの部屋で、当たり前のことのように懐の奥深くへ迎え入れて。
たまらなかった。
こんなふうに、言われたことも、されたことも、ない。
だって、いったい誰が、化け物が寒い思いをしていることなんて気にする?
寒さも暑さも一人で耐えるのが当然だったのに、こんなふうに気にされて温めようとされることがこれほど心地良いことだなんて、ずっと、ずっと知らなかったのに。
鼻の奥がツンとして、じわりと視界がゆがむ。
すがりつくようにマリスの胸元に顔を埋めて、のどの奥から漏れそうになる情けない声を殺した。
どうすればいいのか分からなくて。
それなのに、分からないという、そのことさえ心地良くて。
「だいじょうぶだよ、クロちゃん」
いつかの夜にも、そう言いながらマリスが撫でてくれたような気がして、ふと思った。
マリスを失ったら、俺は本物の化け物になる。
俺が寒い思いをしているかどうか気にする者などどこにもいない世界で、俺はきっと、最悪の化け物になる。
もしかしたら、その自由こそを、その解放こそを、俺はずっと求めていたのではないだろうか。
昏い目をしてすいと顔をあげたゼレクは、穏やかに上下するマリスの胸元に頬を寄せたまま、彼女の喉を見た。
その白い肌に歯を当て、血飛沫が散るほどの力で喰らいつく己が姿を幻視した。
傷つけ壊すことに特化して生きてきた彼にとって、それを思い描くのはあまりにもたやすく、同じように現実にすることも簡単なのだと分かってしまった。
けれど彼は、そんなことを考えながら自分が幾筋もの涙を流しているとは気付かず、それを指摘してくれる者も、そこにはいなかった。
太陽の光をカーテンに遮られた狭い部屋の小さな寝台から、やがて二人分の寝息だけが静かに響く。