第十一話「遅い」
フォルカーが防音結界を解いたとたん、外のざわめきが耳に届く。
「あのアホまさか!」部屋を飛び出して廊下を走りながらジェドがうなり。
「今、それ以外にあの場所に用は無いでしょう!」一歩遅れてその背を追走しながら、苦虫を噛み潰したような顔でフォルカーが応じる。
そして彼らの行き先では、気配を隠そうともせず、長期不在の言い訳などするはずもなく、見張りを外に放り出して勝手に地下牢へ入ったらしい師団長に気付いて、近くにいた兵たちが集まりつつあった。
魔力の匂いと気配で仲間を識別できるよう訓練された兵たちにとって、今の状態はゼレクが目の前にいるに等しい。
しかしその姿をじかに確認することはできないため、口々に「師団長?!」「無事なのか?!」「気配だけなら元気そうだが、なぜか物騒!」「なんでこんなに殺気立ってるんだ?!」「気にはなるが近付いたら殺されそうだな」と小声で言い合いながら、少しでも様子を探れないかと閉ざされた扉の前でひとかたまりになっていた。
ジェドがそれを「お前ら退け!」と蹴散らし、フォルカーが「全員、持ち場に戻りなさい。ここにはしばらく誰も入ってはなりません」と眼光鋭く釘を刺し、地下牢に続く扉をくぐった。
第一師団は先の戦争で英雄と呼ばれるほどの戦功をあげたゼレクを長としながらも、彼があまりにも仕事をしないのでおもにジェドとフォルカーがまとめあげている集団である。
そしてそのまとめ方ゆえに、ある意味ジェドとフォルカーは副官でありながらゼレク以上に恐れられており、そんな彼らに命じられたからには兵たちが踏み込んでくることはない。
「……」
「……」
そうして心理的にこの場を封鎖した二人は、中に入ってすぐ、可能な限り素早い動作で扉を閉じ、物理的にも封鎖した。
外にいるのは歴戦の兵士たちであるから、奥から漂う濃い匂いが血臭であることなどすぐに気付くだろうが。
無言になった二人が足早に開け放たれたままの牢まで辿り着くと、中にいた男が待ち構えていたかのように振り向いて言った。
「遅い」
突然の失踪、生きているかどうかすら分からない行方不明の後、ほぼ一ヵ月ぶりに聞いた初めての言葉がこれである。
マリスの部屋では二人が何を言おうとまったくとりあわず、マリスの手で遊びながらそっぽを向いていたので、本当にこれが久しぶりに聞いた第一声である。
いくら昔馴染みでその性格に慣れているとはいえ、二人の額に青筋が浮いたのは当然だろう。
しかし彼らはゼレク・ウィンザーコート師団長の部下でもある。
先に平静を取り戻したフォルカーが訊ねた。
「衛生兵と処理班、どちらが必要ですか」
「衛生兵」
本当に衛生兵で間に合うのか、疑問に思うほどの量の血を流して倒れている男を足元に放置して、短く応じたゼレクが牢の中から出てくる。
ジェドが魔術で伝令を飛ばし、衛生兵を呼んでいる間に、フォルカーは返り血一つ無い上官の姿を上から下までしげしげと眺めた。
奇妙なことに、長く戦場に身を置いていたせいか、むせかえるようなこの血臭の中で今はじめて、フォルカーは平常心でゼレクを見ることができていた。
普通なら会って最初に気付くはずの、ささやかだが重要な変化を、ようやく認識する。
「ゼレク、体調が良くなったようですね。髪を切ってひげも奇麗に剃ってある。それも彼女がやってくれているのですか? あなた、髪を切られるの、嫌いだったでしょう」
刃物を持った人に頭を触らせる、ということが、ゼレクは本当に苦手というか、大嫌いだった。
ついでに極度の面倒くさがりだったため、ほとんどひげも剃らなかったので、なかなか切らない癖毛とモジャモジャのひげがゼレクのトレードマークになっていたほどだ。
人前に出る時に彼がよく兜を被っていたのは、それを被るなら髪やひげについて文句はつけない、とジェドが言ったからだ。
ジェドとしては、兜の中で伸ばしっぱなしの髪やひげが蒸れて煩わしくなったら、さすがのゼレクも自分から手入れを受けたがるようになるだろう、という思惑だったのだが。
ゼレクはいいことを聞いた、とばかりに人前に出る時は必ず兜を被るようになり、ますます髪とひげの手入れをしなくなってしまったので、完全に見込み外れとなってしまったのだった。
それが今は、フォルカーが出会って以来、一番きれいに身が整えられている。
癖のある黒髪は少しでも長すぎると見苦しくハネまくるのだが、そうならないちょうど良い長さで巧みに切られており、口元が見えないほど伸びていたひげも、今は一本残らず剃られてすっきりしている。
おかげで切れ長の目が金まじりの琥珀色だということがはっきり見てとれたが、フォルカーの記憶にある限り、彼の目を、色が分かるくらいまともに見られたのは、おそらくこれが初めてだ。
そうして身なりが整えられると、美男子というほどではないが、この男はそれなりに精悍な顔立ちをした偉丈夫であったのだな、と分かる。
だが残念ながら、よく見えるようになったその容貌は、ウィンザーコート伯爵よりも現王に似ていると思わざるをえなかった。
今までこの顔を周囲に見せなかったのはただの偶然だったが、じつは賢明なことであったのかもしれない。
心の内で、昔馴染みであり上官でもあるゼレクの回復を喜ぶのと同時に、フォルカーの懸念が深くなる。
「ああ。マリスは、器用だ」
おそらく昔からそうだったのだろう、その顔は無表情な鉄面皮のままほとんど変化を見せないが、ゼレクはどこか誇らしげに答えた。
マリスのことを褒められたのが嬉しいらしい。
しかし、とフォルカーは首を傾げた。
「不思議ですね。ラークさんはあなたを犬だと認識しているはずでしょう? 髪を切ったりひげを剃ったりしている時、その認識はどうなっているんです?」
昔から極端に口数が少ないゼレクは、そんなこと知るか、という様子で返事をしなかった。
ゼレクが究極の面倒くさがり男、と言われるゆえんである。
彼は会話も含めて、必要最低限のことしかしないのだ。
その時、ジェドに呼ばれた衛生兵たちが地下牢に駆け込んできた。
重症を負った兵士の手当てをするのに慣れた彼らは、久しぶりに姿を見る師団長に無言で敬礼した後、さっさと牢に入って意識を失った男を担架に乗せて運びだしてゆく。
ゼレク・ウィンザーコートただ一人を自分たちの長として認める彼らにとって、一ヵ月を超える不在など何の影響も無かったかのように振舞うそれが、揺るがぬ忠誠を示すものだった。
そして彼らの作業が終わるまで黙っていた三人のうち、バタン、と扉が閉まったとたんに動いたのは、ジェドだ。
ほとんど予備動作の無い、潔いほどの不意打ち狙いでゼレクに拳を叩き込もうとして、しかしそれよりも素早く動いた彼にあっさり避けられ空振りに終わる。
とうとう赤金髪の補佐官が吠えた。
「一発くらい殴らせろこのボケーッ!!!!」
その隣で青銀髪の副長も頷く。
「そうですね、私も最低一発は叩き込ませていただきたいです」
昔馴染み二人の言葉に、ゼレクは嫌そうに口をへの字にして、ふいとそっぽを向いた。
それはついさっき、マリスを殺しかけた男を意識不明の重体になるまで痛めつけた人物だとは思えないほど、幼稚な仕草だった。