第一話「王城魔術師マリス・ラークの仕事」
休日、という言葉が霧の彼方の概念と化して、どれくらいの月日が流れただろう。
三年におよぶ隣国との戦争が勝利で終わって数ヶ月が経つというのに、王城魔術師団の下っ端である魔術師マリス・ラークは、いまだ戦場のごとき忙しさの最中にある。
「おい、ラーク! 第二師団からの修理要請があったやつ、もう終わってるだろうな?!」
「終わってますし、もう戻してます!」
ちょうど他の魔道具の修理を終えて返送処理をしていたところだったマリスは、上司である室長ブライス・エルダーレンの野太い声に振り向きながら即答した。
薄く細い眉や目じりがやや下がりぎみの大きな瞳、やわらかな曲線を描く頬にぽってりとした唇はまだ少女の面影を残して愛らしいが、十五才で養成機関を出て二十二才になるまで王城魔術師として働いてきたその中身は、なかなかに強い。
長い金髪を動きやすいよう三つ編みにしてまとめ、濃紺の制服の上に臙脂色のローブを纏ったマリスの鮮やかな緑の目が、「言われた仕事はすでに完了済みです」と主張するように年中不機嫌そうな顔をしている上司へ向けられる。
しかしマリスが十五才だった頃から彼女に様々な仕事を与えて鍛えてきたこの上司が、今さらその程度で何か思うはずもなく、先より倍以上の声量で言葉が返ってきた。
「じゃあなんで第一師団からの修理要請がほったらかしになってんだ! 他に何があろうと第一師団からの要請は最優先だぞ! 仕事なめてんのかテメェは!!」
「はぁ?! 第一師団からの要請はいつだって最優先でやってますよ! 私の仕事ならちゃんと私の所まで回してください! どこで止まってるんですかそれ!」
「そんなもん俺が知るか! さっさと探し出して片付けろボケが!」
上司からの理不尽な罵声に、心の中だけで(物品管理は私の仕事じゃないし! 早くしろっていうんならこの探す無駄をどうにかするのが上司の仕事じゃないの?!)と文句を言いながら、マリスは修理要請があったという魔導具を探しにかかる。
この無駄としか思えない時間について改善してもらいたいのは山々だが、誰もそこまで手が回らない現状、悲しいかな文句を言うヒマがあるなら自分で探した方が仕事がずっと早く終わるのは、とうの昔に学習済みだった。
戦争や戦後処理で使用され、無惨に使い潰された魔導具の山はいっこうにその高さを減らすことなく、むしろ日々高度を増しつつある。
マリスの本来の仕事は地脈調査と気象災害対策なのだが、どちらも安定している今は急務ではないとされ、壊れた魔導具を修理することで時間が過ぎてゆくばかりだ。
敵将を次々と討ち取って隣国との戦争を終結に導いた救国の英雄、第一師団の団長ゼレク・ウィンザーコートの武勇によって国は平穏を取り戻したが、平和と言うにはいまだ遠い。
能吏と名高い宰相カイウス・セレストルが王の名代として敗戦国となった隣国に赴き、相手を窒息させない程度に、だが容赦なく財貨を搾り取って戦後処理の費用に充てたのだが、それで多少マシになったとはいえ、金さえあれば人も物もすぐさま補充できるというものではなかった。
そんな中で国の治安を守る軍には、魔術師団の提供する魔導具が欠かせず必要であり、若年の下っ端魔術師であるマリスはどんどん使い潰されてゆくそれをひたすらに修理し続ける日々である。
英雄ゼレク率いる第一師団からの要請を、最優先に。
(ああもう、どこなの第一師団から送られてきたっていう壊れた魔導具は! 最優先でやれって言うんなら最初から他のと混ぜずに別の場所に置いておいてくれればいいのに! まあそんな“別の場所”なんて空間、この部屋には無いけどね!!)
先天的な魔術師としての才能を見いだされて魔術の修練を積むことになったマリスは、親兄弟の顔も知らない天涯孤独の孤児院出身者である。
基本的に魔術師というのは貴族出身の子息たちの職であるから、普段のマリスは控えめでおとなしげな猫をかぶって丁寧な言葉遣いをするよう気をつけている、が。
今のように殺気立った空気で急ぎの仕事をしていれば、魔術の腕前とともに長年の修練で磨き抜かれた猫だって、さすがに耐えきれず剥がれ落ちるというものだ。
「あった、これだ! 室長、第一師団からの修理要請あったやつ見つけたんで、これ片付けたら私、一時帰宅します! 絶対に! 帰りますんで!」
剥がれ落ちた猫の下から現れた素のマリスが、鋭い目つきで言い放つ。
当然、即座に上司の怒声が返ってきた。
「ハァッ?! テメェふざけんなよ!」
「何と言われようが帰ります! 前に報告したはずですけど、今ウチ拾ったばっかのケガした犬がいるんですよ! あの可愛いわんこが餓死したりケガ悪化して死んだりしたら本気で呪いますから!!」
いったいどれだけその犬のことが大事なのか。
いつになく真剣に怒鳴り返してくる部下に、気迫負けした室長ブライスは言葉に詰まり、それを勝利とみなしたマリスはさっさと背を向けて自分の作業場に戻った。
小柄な女性であるはずなのに、その背中からは「邪魔したら、殺す」と言わんばかりの物騒な雰囲気が漂っており、坊ちゃん育ちの同僚たちは心なしか遠巻きにしている。
「おい、ラークのやつ、犬なんて拾ってたのか?」
同じく遠巻きにマリスの背を見ていたブライスが、同じ部署の中で一番彼女と親しい魔術師に声をかける。
マリスと同じ養成機関で教育を受けた同期の魔術師である彼は、「はぁ、そうらしいですが」と曖昧に応じて、ぼそぼそと言葉を続けた。
「でも、なんか変なんですよ。ラークの犬の話」
「変? 何が変なんだ?」
ブライスに問われ、マリスの同期ウィル・コールジットが、やや困惑した様子で話す。
「毛並みの色が黒いからクロと呼んでるらしいんですけど、たまにそれを“髪の毛の色が”って言ったり。あと、久しぶりに自分以外の服を買いに行った、とか言うんですよ、あいつ。首輪とか鎖とかじゃなくて、服を買ったらしいんです、犬のために」
ブライスは顔をしかめた。
「ラークが拾ったのは、本当に犬か?」
「あいつは犬だって言ってます。というか、本気で犬だって信じ込んでるみたいです。……いちおう、精神干渉系の魔術にかかってないかどうかはチェックしました。結果は『異常なし』です」
二人の魔術師は無言でマリスの背中を見た。
小柄で若い女性ではあるが、孤児院出身ながら王城魔術師となったその腕前は確かで、それを見込んだ上司が割り当てた第一師団から要請された魔導具の修理は、早くも最終段階に入っている。
彼女は直したそれを慎重に動作確認し、問題なく修理が完了したことを認めるとその旨を書類に書き込んで、第一師団専用の最優先返送ボックスにおさめた。
振り向いたマリスとブライスの目が合う。
普段はおとなしい猫をかぶっているその緑の目が、今は完全に据わっている。
「完了しました。それでは私は一時帰宅します」
「お、おう」
応じる声が思わずどもった上司に気付いた様子もなく、マリスは「何が起きようが帰るぞ」と宣言するような決然とした歩調で部屋を出ていく。
そして扉がバタン! と勢いよく閉められると、近くの壁にかけられていた漆黒の狼の絵がカタンと揺れて傾いた。
この国に伝わる、王族は神獣・黒狼の末裔であるという伝説を題材にした絵は、国中のどこにでもある物の中の一つだ。
今の時代にそんなことを本気で信じている純真な国民などそういないが、かといって粗末に扱えるものでもない。
近くにいた部下の一人が、神経質そうな手つきで傾いたその額を真っすぐに戻しているのを見るともなしに眺め、ブライスはため息をついた。
「まあ、あいつの犬が何であろうが、仕事さえしてくれりゃあどうでもいい。さあ、さっさと残りを片付けて、今日こそ帰れるやつはちゃんと帰って寝るぞ」
はい、と頷いて、マリスの犬の話を伝えたウィルも自分の作業場に戻る。
幸か不幸か、彼らはこの時、まだ知らなかった。
近い将来、“マリス・ラークの犬”が何者かを知って、立ったまま気絶するはめになることを。