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カーテンを開け、柔らかな朝の陽射しを部屋の中へと迎え入れる。大きなキングサイズのベッドから、小さな呻き声を聞きながら、優秀なメイドは毛布を剥ぎ取った。
「坊っちゃま、朝ですよ。早く起きなければ、レッスンに遅刻いたします」
「んん〜、まだ寝る……」
「昨夜はお帰りが遅くなりましたから仕方ないとはいえ、レッスンにお休みはありません。カナリア様は、どんなに眠くとも、貴方の歳にはひとりでご準備なされていましたよ」
枕を抱き締めて動く気配の無い小さな主に、マグパイが急かすように手を叩く。
姉の名前を聞いた途端、渋々起き上がったヒバリに、彼女はにっこりと微笑んだ。
「さあ、坊っちゃま。身支度を整えましょう」
「うん……」
眠たそうに目を擦るヒバリは、気怠げに質の良いシルクのパジャマのボタンを外していく。その着替えをマグパイは手伝い、ふらふらと鏡台に向かう主の背を支えながら、ふわふわの髪に櫛を通した。
ぴょんぴょんと跳ねる髪を水でならし、整えながら、漸く目覚めてきたヒバリの大きな瞳を鏡越しに見る。
「本日も素晴らしい寝癖でございますね、坊っちゃま」
「うるさいなぁ、仕方ないだろ。遺伝なんだから」
「ふふ、そうですねぇ。けれど、カナリア様の髪はまだ言うことを聞きますよ」
ほら、と、髪のひと房から手を離し、あらぬ方向にぴょんっと跳ねるそれを見て笑うマグパイに、ヒバリは頬を膨らませる。
流石にからかい過ぎたようで、無言でむくれ始めた可愛い主に、マグパイは優しく髪を撫でながら、話を逸らそうと口を開いた。
「昨夜の特別ゲストの方、クレイン・ホワイト様のお歌はいかがでしたか? 気になっておられましたでしょう」
「ああ、うん、凄かったよ。テノールの声が体の奥に響いてきて、しかも、綺麗で耳に気持ち良かった。賛美歌との相性も良いし、観客の求めてる歌い方もちゃんとしてて、純粋な上手さと経験値があるよね」
「大絶賛ですね」
「まあ、流石両陛下のお気に入りって噂されてた特別ゲストだったなって感じだよ」
足をふらふらと揺らし、淡々と言い放った彼の言葉には、少しの対抗心が見え隠れする。
いずれは自分もあの場の一員になると知っている彼にとって、王宮の歌い手は皆、ライバルになり得る存在だ。賞賛よりも分析が前に出る。
そんな次期当主としての自覚を持ち、聡明に育った彼を見て、マグパイは優しく目を細めた。
つらつらと、クレインの分析結果を話し続けるヒバリの話をうんうんと、頷きながら聞き、彼女は彼が一番話したいであろう人物の名を口にする。
「それで、カナリア様のお歌はいかがでしたか?」
カナリア、と聞いた瞬間に、ヒバリはピタリと言葉を止めた。
沈黙の中、マグパイが髪に櫛を通す音だけが部屋に響く。グッと握られた小さな主の拳を一瞥し、メイドは俯く彼の頭を静かに整える。
そして、静かに息を吸った彼が顔を上げた。
「言うまでもない! 僕の姉様は世界一だよっ!!」
彼女と同じ、大きな紅の瞳がキラキラと太陽のように輝いて、部屋の中にはしゃぎ声が響き渡る。
興奮したように頬を染め、尊敬の眼差しを大きな瞳に宿した彼は、嬉しそうに言葉を続けた。
「力強くて格好良い部分と切なくて繊細な部分を歌い分ける声。激しいダンスをしているのに、音を一回も外さなかった音程の完璧さ。観客を熱く盛り上げる方法も熟知してた。
悪いけど、ホワイト家の特別ゲストより、姉様の方が完璧で最高の歌手だね!」
「確かに、カナリア様は最高の歌姫ですね」
「ねっねっ! ラテンの要素を取り入れたダンス格好良かった! 姉様はダンスも上手で本当に凄いや!」
「坊っちゃま、落ち着いてください。整えられませんよ」
「だって! 本当に凄いんだもん!」
足や手をブンブンと揺らして熱弁するヒバリに、マグパイは眉を下げて笑う。
持っていた櫛を置き、トントンと肩を叩けば、姉を慕う弟は漸く落ち着きを取り戻しながらも、にこにこと笑った。
「ねえ、ちゃんとお花届けてね。昨日、ジェイと一緒に帰り道に摘んだ姉様にぴったりな深紅の光花。いつも通り、僕からなのは内緒だからね」
「はい、分かっておりますよ。ちゃんとカナリア様のお部屋に飾りますからご安心下さい。あのお花、パチパチと花火のように光って綺麗でしたね。カナリア様もきっと喜びますよ」
「へへ、うん! ジェイってば、王宮のお庭から飛び出して、隣の森にまで入り込んでたのにはびっくりしたけど、お陰で綺麗なお花見付けられたから全部許した!」
「自分の主を放置し、自分の好きなものを見に行った馬鹿な弟をお許しくださるなんて、バークライト家の次期ご当主様はお優しいですね」
「だって、ジェイだもん。ああなるなって分かってた。何も聞かず着いてきてくれたのは、有難いけどさ」
一回り以上年の離れた小さな子供にすら信用されていない自分の弟に、マグパイはほとほと呆れながらも、自由奔放な彼に笑みを浮かべる。
ある意味、バークライト家の中で確固たる地位を築いている片割れは、姉弟にとって、数少ない頼れる人材であることに変わりない。
「でも、嬉しいなぁ、姉様のダンスをまた見れるなんて。
まだ僕が歌を始めたばかりの頃、上手く出来なくて泣いていたら、いつも姉様はあの庭で歌って、踊ってた。
窓から見てただけだけど、踊ってる姿は綺麗で格好良くって、凄く勇気付けられたんだ。姉様は、いつも努力してるんだって」
「ふふ、その話、何回も聞いておりますよ」
「何回も話しても話し足りないんだよ。そんな姉様のダンスを、大きな舞台で見れるのがすっごく嬉しいんだから」
大きな窓に視線を移し、手入れされた庭を大切そうに眺めるヒバリを、マグパイは微笑ましげに見つめる。
歌を上手く歌えず落ち込む事が多いヒバリを、カナリアはいつも気に掛けていた。
逐一、ヒバリの様子をマグパイから聞き、直接励まさずとも、カナリアは遠くから彼を想い、励まそうとしていた。
そんなカナリアの分かりにくい愛情を、気付いていないながらも、確かに受け取っているヒバリは、彼女を慕い、日々彼女の部屋を飾る花をジェイと探している。花が好きな姉を少しでも癒したいという優しい弟は、心から彼女を愛しているのだ。
「直接言ってあげたらどうですか。喜びますよ」
「嫌だよ、恥ずかしい。それに、姉様は僕なんかに言われても喜ばないよ。歌が下手な僕は、姉様の眼中に入ってないもん」
「そんなことないですよ」
「そんなことあるんだよ」
会えば緊張、話せば悪態。
姉への憧れと尊敬が強過ぎて、なかなか素直に言葉も出せず、緊張で心とは真逆のことばかり言ってしまうヒバリは、大きな溜息を吐く。
大好きな姉は生まれた時から雲の上の存在で、自分の歳では既に王宮で歌っていた程の天才であり秀才。
追いつきたくとも遠すぎる背中は、こちらを振り返りもせず、前へ前へと突き進んでいく。
自分の何百歩先を歩く彼女に叫んでも、どうせ声は届かない。隣で歩けるくらいにならなければ、彼女の瞳に自分は映らない。
「でも、いつか絶対に姉様と同じ舞台に立つんだ。そしたら僕達、普通の姉弟みたいになれるよね」
歯を見せ笑う小さな夢見る少年に、マグパイは眉を下げる。
昨夜のカナリアと同じようなことを言ってすれ違うヒバリに、マグパイはいつもどうしようもない気持ちに襲われた。
何度言ってもこの姉弟は、お互いがお互いの気持ちに気付かない。大事に育ててきた想い合う姉弟は、他者から自分に向けられる愛を、特に理解することが出来なかった。
愛の薄い家庭環境も原因だが、彼らを取り巻く人間の汚い部分が、彼らを歪ませてしまった。
人の好意も優しさも、全てに裏があると思い込み、人を遠ざけて跳ね返す。
自分の好意ですら、相手に気付かれては裏があると疑われるのではないか、迷惑になるのではないかとすら思い込んでいる節がある。
心を守る方法だとはいえ、自分達の愛情も忠誠として扱われ、姉弟同士の愛情も遠回りで気付くことすら出来ず、マグパイは愛おしい小さな主達が、不憫でならなかった。
「……もう既に、ちゃんと姉弟だと思いますよ」
「違うよ。普通の姉弟は、もっと仲良しなんだよ。マグパイとジェイみたいに」
「姉弟の形も色々ですよ、坊っちゃま」
ふわふわの髪を何度も何度も撫で、マグパイは静かに細く息を吸う。
整えられた髪を見て、嬉しそうに笑うヒバリを鏡越しに見つめれば、彼は目を細めた。
「ねえ、マグパイ。強くて格好良い自慢の姉様が自慢出来るような弟に、絶対に僕はなるからね」
「……ええ、楽しみにしております。それに、カナリア様も貴方が素晴らしい歌手になることを信じておりますよ」
「そうかなぁ、そうだといいなぁ」
頬を染めて嬉しそうに笑ったヒバリは、椅子からぴょんっと立ち上がる。
そして、大きくガッツポーズをした。
「よぉーし、今日も頑張るぞ!」
小さな主の背中を見つめ、マグパイは微笑む。
これから始まる厳しいレッスンに立ち向かう少年と共に、彼女は部屋から出た。




