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「まだいらっしゃらないの?」
「何やらゲストの方は、先程到着なされたとか。まだ準備が整っていないのでしょうね」
「どのような方なのでしょう。ピアノがあるということは、弾き語りをするとは思うけれど」
「最近名を上げてきたピアニストの方がいらっしゃるでしょ? その方ではないかしら」
アナウンスから数分経ってもやって来ない特別ゲストに、待っていた観客達もざわつき始め、各々ゲストの正体について語り合う。
小さな舞台の上に用意された、美しい真っ白なグランドピアノを前にして、カナリアは静かにそれを見据えた。
「坊っちゃま、坊っちゃまのお好きな隣国のアップルジュースがございましたので、お持ちいたしました」
「わっ、ありが……い、いらない! 僕もうそんな子供っぽいの飲まないし!」
「あら、それなら私が貰いますわ。それ、好きですの」
「え……っ! えっ、あっ、じゃあ、僕も飲む!」
「承知いたしました。ちゃんとふたつ持ってきております」
ワイングラスに入ったアップルジュースを姉弟が受け取り、隙の無いメイドは微笑ましそうに笑う。
そして、舞台に近い空いているテーブル席を指差した。
「お二人共、あちらのお席をご用意いただけました。カナリア様は舞台でお疲れですし、坊っちゃまも立ってばかりでお辛いでしょう。お座りになって、ご鑑賞下さい」
「気が利きますわね」
「恐れ入ります」
一礼したメイドに案内され、バークライト家の姉弟がテーブル席に座る。
座った途端、先程のステージの疲れか、今までの蓄積か、一気に睡魔が襲ってきたカナリアは、目頭をギュッと抑えた。
「カナリア様、炭酸水もお持ちしてますので、宜しければ」
「ええ、頂くわ」
グラスの炭酸水を一気に飲み干して、目を覚まさせる姉を、弟はちびちびとアップルジュースを飲みながら見つめる。
何か話したげだが、口を開かないヒバリに、カナリアの方から口を開いた。
「最近、ゆっくりする時間が取れていませんのよ」
「……帰られる時間が遅くなってますもんね。今日は家に戻る時間も無いみたいでしたし」
「あら、気付いていましたの?」
「別に。ジェイが言ってました」
視線を合わせようとしない弟に、一瞬カナリアは寂しげに眉を下げ、けれど、すぐに眉を吊り上げた。
「今日から放課後にレッスンを受けてますのよ。クレイン・ホワイト様から」
「えっ、あの聖歌の貴公子に?」
「そうですわ。私の次くらいには有名で、国からも評価されているアリア学園の賛美歌の歌い手。
特別にレッスンを受けさせてもらってますの」
――まあ、全く歌ってないですけれども。殆ど、ロビンちゃんのレッスンですけれども。
全く自分の身になっていないレッスンを、自慢げに弟に話しながら、亜麻色の髪の乙女を思い出す。
思えば、泣き虫で努力家な彼女はどことなく、この弟と重なる。
上手くいかない自分に腹を立て、泣きながらも、決して諦めず、努力を惜しまない。
悔しさをバネにし、不屈の精神を持って、自分の道を見付け出し、突き進む。
そんな彼らが、愛おしく、眩しい。
ああ、とカナリアは視線を下げた。
「意味の無いレッスンですけれども。価値のあるレッスンですわね」
ポツリと呟いた彼女に、ヒバリが不思議そうに首を傾げる。
それにカナリアは、自分でも気付いていなかった自分の気持ちに気付いてしまい、溜息を吐いた。
「どうしたんですか、姉様――」
いつもと様子が違う姉に、弟が問おうとしたその時、会場の照明が消える。
そして、スポットライトが舞台横の司会者を照らし、彼が恭しく一礼した。
「皆様、大変長らくお待たせいたしました。
今宵、歓談会場にて、特別なゲストをお呼びさせていただきました。
普段は学業を優先されておりまして、なかなか、彼の歌声を聞ける機会はございません。初めて聞かれる方も多いことでしょう。
ですがきっと、お気に召していただけるはずです。
透明感のある素晴らしい歌声。軽やかに流れるピアノの旋律。彼の賛美歌に、皆様、虜になること間違いなし」
長い口上を聞きながら、カナリアはもしやと、眉を顰める。
頭に浮かぶたった一人の青年に、嫌な予感を抱いていれば、スポットライトに照らされたピアノの横に、その彼が立っていた。
顔を覆って、盛大な溜息を吐いたカナリアは、苦々しげに呟く。
「クレイン・ホワイト……」
司会者から紹介を受けている彼は、つい数時間前まで、共に第六音楽室に居たはずの生徒会長。それが今正に、自分の目の前で歌を披露しようとしている。
頭を抱えるカナリアは、ハッとして、周りを見渡した。
テーブル席や立ち見をしている貴族達の中に、亜麻色の髪は見当たらない。それにホッと安堵しつつ、視線を舞台に戻した。
――今日は金曜日ではないですし、ましてや、ロビンちゃんの好感度イベントでも無いですわ。
数日前から特別ゲストの話はあったけれど、何故、ここに彼が現れますの?
不可解な出来事に、カナリアは目の前の白髪の貴公子を見つめる。
聖歌の貴公子と呼ばれるクレインは、毎週金曜日に王族だけが集まるサロンで、歌を披露していた。
これは公にはされておらず、クレインもこのことを口止めされているのか、王族以外、金曜日の夜に彼が何をしているのか誰も知らない。
ロビン含めレッスンを受けている三人にも彼は言葉を濁して誤魔化していたが、週末を除いた金曜日に、クレインのレッスンが受けられない理由を、前世の自分を通して、カナリアは知っている。
また、クレインからロビンへの好感度が高いと、金曜日のカナリアのステージが、クレインのステージに変わり、招待されたロビンが観に来る好感度イベントが発生する。その際に、王族のサロンの話や自分の身の上話をし、ヒロインへの好感度を爆上げするのだ。
――あのイベントは、最速で交際するのに必須のイベントですわ。絶対に阻止しませんと。
今夜はカナリアのステージからクレインのステージに変更はされておらず、追加でクレインの歌唱ステージが入った形だ。
だが、決められた道筋だったはずのゲームとは、もうあらゆる面で変わっているこの世界で、形が変わった好感度イベントが起こる可能性も、ゼロではない。
今回は、ロビンの姿が見えないので、イベント発生ではないようだが、カナリアとクレインで何か分からないイベントが発生している。
――ゲームでは、ロビンちゃんが絡まない限り、私とクレイン様に接点は無いはず。
そもそも、金曜日に王と王妃を奪う憎き敵の正体すら、知り得ずに恨んでいましたし、今まで王宮で会ったことすら無かったですわ。
学園と変わらない優しい微笑みを称えたクレインが、ゆったりとした動作でお辞儀をし、顔を上げる。
すると、はたと、カナリアに気付いた。
形だけの挨拶として、小さくお辞儀とアイコンタクトを返せば、彼は嬉しそうに目を細めて、より一層満面の笑みを見せる。
――えっ待ってこれは、私とクレイン様の好感度イベント……?
えっ普通に無理ですわ私ロビンちゃん以外嫌ですわチェンジチェンジロビンちゃんにして下さいまし。というか、私と同じで貴方はロビンちゃん一択でしょうが! 浮気しようとするなんて解釈違いですわ! 告発ですわ、ロビンちゃんロビンちゃん、ロビンちゃんをお呼びになって!!!
たらりと、冷や汗を流すカナリアを後目に、クレインが流れるような所作でピアノを弾き始める。
何度も聞いている美しく完璧、けれども儚さを纏ったその旋律に乗って、彼は歌い始めた。
「……きれい」
誰かが呟いた言葉。
その歌声は言うなれば、柔らかな木漏れ日。凪いだ海。暗闇に輝く満面の星空。暖かな春風。
様々な人間が、心を優しく包み込む美しい風景をその目に映す程、それは深い安らぎを与えた。
祈りと感謝と愛が込められたその歌は、するりと耳に入り込み、心の奥底へと浸透していく。
誰もが皆、涙を浮かべ、笑みを浮かべ、彼の歌声に耳を傾ける。
そして、ピアノの旋律が静かに消えていけば、大きな拍手の音が会場を響かせた。
「素晴らしい! 素晴らしい!!」
「こんな方がこの国に居たなんて! 私今まで何をしていたのかしら!!」
テーブル席で座っていた観客達もスタンディングオベーションで、涙を浮かべながら彼に賛辞を送る。
凄まじい盛り上がりを見せる会場の中、バークライト家の姉弟のみ、変わらず椅子に座り、変わらずアップルジュースを飲んでいた。
「ふんっ、私の方が歌は力強く、ダンスは軽やかで、観客を存分に楽しませましたわ」
「でも、こっちの方が盛り上がってますよ。スタンディングオベーションしてますし」
「こんなの私だって、何度もさせてますわよ!
初めて聴く方達も多いでしょうし、賛美歌は主から自分、自分から主への愛の歌ですから、敬虔な教徒も多い貴族達が興奮するのも当たり前でしょう」
「姉様の時と違って、感動して泣く歌って凄いですね」
「歌の系統違いですわ!
そもそも! 私と彼を比べることこそ! ナンセンス!」
「最初競い始めたの、カナリア姉様からなのに」
ブスっとした物言いをした可愛い弟の言葉を、ふんっと顔を背けて聞かないふりをして、カナリアはアップルジュースをグイグイ飲む。
すると、ステージで貴族達の相手をしていたクレインが、ちらちらと、カナリアへ鬱陶しい視線を送り始めた。
助けて欲しそうな、話をしたそうな、そんな視線にカナリアは、苛立ちながら立ち上がる。
「ヒバリ、貴方もうお帰りなさい。時間もだいぶ遅いですし、目的も果たせたでしょう」
「言われなくとも帰ります。……姉様は、帰らないのですか」
「私はこの後、人と会う約束がありますの」
ジリジリと、自分に向けられる視線に辟易としながら、カナリアは溜息混じりに言った。
そんな姉の姿をチラリと見て、ヒバリは素直に頷く。
「そうですか、分かりました。先に帰らせていただきます」
「マグパイ、ヒバリを馬車まで連れて行きなさい。あと、貴女の使えない弟も引っ張って行きますのよ」
「承知いたしました。では、坊っちゃま、行きましょう」
「うん」
直ぐに席から立ち上がったヒバリを、カナリアは静かに見つめる。
本当は一緒に帰り、少しでも姉弟の時間を作りたかったが、聖歌の貴公子の視線がいつまでも煩い。
それに、彼にとって嫌いな姉とずっと一緒であることは、苦痛でしかないだろうと、カナリアは心の中で溜息を吐いた。
「姉様」
「なにかしら」
「……おやすみなさい」
「……ええ、おやすみなさい」
初めて言われた夜の挨拶に、カナリアは湧き上がる喜びを隠して、ヒバリに返した。
今すぐにでも額にキスをして、良い夢をと、言ってやりたい気持ちを抑え、小さな背中を見送る。
数秒の間、弟の可愛さと挨拶の喜びに打ち震えながら噛み締め、ゆっくりと深呼吸をした。
そして、ステージへと歩み寄る。
「先程振りですわ、クレイン様。少しお時間頂けます?」
「ええ、カナリア嬢。喜んで」
にこやかな笑みを浮かべた悪役令嬢は、何が起こるか分からない、これから起こる彼とのイベントに、立ち向かう覚悟を決めた。




