人は生に投げ込まれた
人は生に投げ込まれた。いいかえると、我々は自由意志で生を受けていない。ある人は我々の失われた記憶において生を選択した可能性を主張するかもしれない。
しかし、我々の誰もが可能性を否定できない前世について、その記憶を醒まし得ない以上、前世の記憶と現世の記憶とは確然と差異が存在する。そして、自己とは記憶の束として成立する。経験の記憶が表象となって心身を取り巻き、主観となる。つまり、経験の記憶が我々の自己を形作る。さすれば自己とは時とともに、変化し続け一分前の私と今の私とは微細ながら差異があり、全く同じであることはない。自己とは常に現在を意味し、その存在は過去の累積としてある。この現在の瞬間もまた過去となっていくのだが、過去の経験の記憶は正常な身体においては決して消えることなく自己の内部に存在する。過去の自己は自己の一部といえる。たとえば、何等かの経験を私がすれば、それを現在の表彰と弁証論的に処理するか、あるいは全く拒絶するか、であるが、拒絶したとしても記憶には残るのであって、結局のところ、経験は自己に吸収される。ここで注意すべき点は、経験が受動的なものではなくて、能動的なものであるということである。十人に同じ刺激を与えても、人により経験は違うであろう。その意味で先天的な受容体の存在は無視できないものであるが、そうであっても経験の効果は疑えない。私は受容体の段階で自己は成立すると考えるが、経験により自己は変化し続けるとも考える。ともかく、自己は常に変容し、過去の自分の判断は自己の判断とはいえない。だが、この説によれば、自己は瞬間のものとなり、自己の判断も瞬間のものとなる。もちろん、時間的に近接している場合、過去の判断はほとんど自己の判断といえ、社会的にはそうみなしている。時効という制度もこの説に適合している。前世と現在の記憶に大きな差があることは、前世の延長として現世があるかぎり、明白であろう。
このことを考慮すると、前世の選択がたとえ存在したとしても、それは我々の選択ということはできない。これはつまり、記憶を失う以前の人と以後の人が、感情と行動の大部分が経験により獲得されるゆえに、人ではあるがその人でない、ということと同じところに因る。
また、霊肉の奇妙な不一致のために我々は意思のみで死を経験できない。意思とそれを生ず精神が死をたとえ望もうと、それのみでは人は死に到達し得ない。精神がいかに倦み疲れても、精神が病み錯乱をきたしても、精神は決して破壊されない。
いいかえると、意思はそれのみでは死に達せず、肉体の死が必要となる。ところが、肉体の死は必ずしも我々の自由の預かるところではない。行動は意思の自由とならない。死を前にして覚える恐怖は肉体、すなわち本能に因って来る。死の前には大きな障壁がある。生への本能はアプリオリに我らに備えられたものなのである。
我々は生きるように設計されている。
我々はときに自殺者に憐れみをもよおすが、意思という立脚点からすれば、我らは彼らを讃嘆すべきであろう。自殺は意思において重要な役割を果たす。盲目的に、本能的に生かされている人間にとって自殺とは自由意志の確証ともいうべきものである。自殺者はこの意味において英雄である。
自殺を倫理の面から罪と批することはできないし、してはならない。無論、法令で規定すればこれを罪科となしえる。倫理の面において、自殺は人殺しといわれたり、他者(親族、友人など)のことを考慮せよといわれたりし、非難されているが、この非難は不当である。人間は人間として扱われる限り、人間としての権利を認められるべきで、なかでも自己に対する権利はその最たるものである。人間は自己の行動の自由について、自己の生命をも含めて容認されなければならない。自分の命さえ自由にならないとすれば、もはや人を人間として見なしていないこととなる。確かに、世界は連関している。人と人、ものとものの繋がりをたどれば、人間の誰もがお互いに影響しあっているとなろう。従って、人が他人に迷惑や悪影響を与えることは必然的であるが、人は自己の領分を守らなければならない。自己の領分が無いとすれば、人は全体のなかの一人となり、すべては全体のために行動すべきという、考えにいたる。
畢竟、自殺者を非難することはアウシュビッツを、ガス室の煙を意味するのである。我々の周りにはたくさんの危険な思想の芽がある。あなたは、電車で飛込み自殺した人のことを、死ぬなら死ねばいいが、他人に迷惑かけるなと思ったことはないだろうか。社会の労働力が減るから良くない、社会がいままで育ててきた恩を返してから死ぬべきだ、などと考えたことはないだろうか。そうした思想の行き着く先が全体主義なのである。
自殺については様々な議論が子供から大人まで交わされている。だが、多くの議論において全体主義に行き着いている。このことは何より、人々が歴史をセンチメンタルな感情においてしか理解していないこと、本質的に、実感をもって理解していないことを、この悲しむべき事実を示している。おそらく、これからも変わらないだろう。こうして全体主義に覆われた世の中で、思想の歪みが大きくなっていき、なにかの外部的衝撃、不満といった激情とともに、爆発しないかが気がかりでならない。それというのも、人が自分でよく考えようとしないからである。思考しない人間は有害でしかない。彼らも人である限り、数になるのだから。もちろん、人権を尊重すべきこと、議論を極端に発展させるべきでないこと、を私はよく承知している。
また、自殺が倫理的罪科でないことは我々の感情が有力な論拠となる。友人が人殺しをしたと聞いてあなたは憤慨するかもしれないが、友人が自殺したと聞いて、あなたは怒りを覚えるのか。悲しみを覚えるに違いない。なぜなら、自殺が罪でないからである。たとえ、悲しみのあとで彼に怒りを覚えるとしてもそれは二次的感情である。二次的感情とは事実と乖離した感情である。この場合、あなたは悲報を聞いて悲しみを覚え、自殺について自己内で言語のやり取りをすることによって(自殺は罪だと自己の価値観と照らし合わせるなどの行為を指す)、はじめて怒りを覚えた。言語的自己調節機能の一例に過ぎず、自己暗示に過ぎず、現実を受けて覚えた感情ではない。
しかるに、我らが自殺を罪と感じるのは盲目的に受け入れた他者の思想、偏見に因るのである。そして、自殺という言葉さえも忌み嫌うのは動物的本能に因るのである。
自殺とは意思の栄光であるが、偉大になり切れない我らがこの高邁な境地に、偶然にも経験することになった人為的状況に依存しない限り、つまり自由意志だけでは達し得ないことは明白である。最も、自殺したいという願望もまた、一つの原理的衝動、破壊衝動に貫かれている。人は生まれる以前の白い状態に戻りたいという願望、タナトスを有している。我々の意思の背後にはいつも本能があるのかもしれない。「死にたいと思う人はいない」、この言葉ほど人間の無知を吐露したものはない。いずれにせよ、多くの人間において自殺とは願望以上、可能性未満の概念である。
人は自分の意思で生きていない。死の選択肢が存在しないのに、生きるという道しかないのに、それが自らの選択、意思で生きているといえるのだろうか。我々の大多数は生きていない、生かされている。
ここに、一つの命題が証明された。「我々はみな意思と関係なく生まれ、我々の大部分は意思と関係なく生かされている。」しかし、我々は意思を有す。
生きることに議論の余地はない。ならば解き明かすべきは、いかに生きるべきか、ということである。少数の英雄の行動は私の思索の外にある。大多数の生きることを強いられた人々、死にたいと呟いても、願望はあっても真の可能性にはならないような、そうした人々の在り方について、この序章では論じようと思う。