おはがしさま
「なんだか最近ついてないなあ」わたしは、ミサに言った。「ヒロトには振られちゃうしさ」
「え、ヒロトくんと別れちゃったの。なんで」
「あいつ職場の女と会ってたのよ。その場にばったり出くわしちゃってさ。その人だれって、問い詰めたら逆切れしちゃって、お前とはもう終わりだって。それっきり連絡してこないし」
「うわー、さいあくだね」
日曜日、わたしはミサとカフェでお茶をしていた。みさは高校時代の同級生で、卒業して何年か経つ今でも何でも相談できる一番の友人だ。
「この前はスマホ落として画面にヒビ入っちゃったし」
「昨日は休みのはずだったのに、クレーム処理で呼び出されるし。なんかもうさんざん」
「あんたさあ」ミサはポップオーバーを突きながら言った。「なにかに取りつかれているんじゃない」
「あはは、そうかもね」
「いや、笑い事じゃなくってさ。なんとかした方がいいかもよ」
ミサは真剣な表情で言った。真面目に言っているのか、ふざけているのか判断が難しい。
「なんとかって、どうすんのよ」
「そうだなあ。あ、そうだ」ミサはフォークを放り出すと、スマホをいじりだした。画面をスワイプする。「あった、これこれ」
ミサが見せてきたスマホの画面には、スピリチュアル系のブログが表示されていた。
「この神社がご利益あるらしいよ。悪い運気を祓ってくれるんだって」
「『おはがしさま』か」そのブログには神社の正式な名称は記載されていなかった。
ブログには、『おはがしさま』は、あなたの悪い運気をすべて剥がし、幸運を導いてくれます、と書いてあった。
「ここからも近いし、あとで行ってみようか」
わたしは気乗りがしなかった。だが、せっかくミサが誘ってくれたので断るのも悪いと思った。
「行ってみよう」
『おはがしさま』は、すぐにわかった。その神社は、道路の脇に広がる雑木林の中、石段を少し上った先にあった。石段はところどころ崩れかけ、全体的に苔むしていた。両脇は土がむき出しの小さな崖で、土の表面を生き物のように木の根が這っている。足元に気をつけながら石段を上ると、小さな鳥居があった。鳥居は木製で塗装はされておらず、少し歪んでいた。その木は朽ちかけ、あるところは割れ、あるところは毛羽立っていた。鳥居に神社の銘は記されていなかった。
神社の社殿と境内のようすは、ブログの写真で見るよりも、うっそうと、陰鬱としていた。木々に囲まれた空間によどんだ空気が溜まり、重く感じる。手水場は、あるにはあったが水が張られてはおらず、落ち葉が溜まりその上を虫が這っていた。
参道の両脇に置かれた狛犬や、境内のいたるところに並んでいる石碑は表面が劣化し、なにが刻まれていたのか分からなくなってしまっている。参道のすぐ横に立っている、円柱形の上に丸い石が置かれたものは、元は地蔵のような像だったのだろうか。
わたしは、この場の重い空気に押しつぶされるような息苦しさを感じ、軽いめまいと頭痛すら感じていたが、ミサはなにも感じてはいないようだった。すたすたと先を歩くと、さい銭箱の前でわたしを待った。わたしは、のろのろとミサの隣に並んだ。ふたりは五円玉を放り込むと、二礼二拍手一礼をした。
「さ、これで大丈夫だよ」ミサは嬉しそうだ。
頭痛が酷くなってきたわたしは、早く帰りたかった。無理やり笑顔をつくると、ミサに言った。「帰ろ」
参道を並んで歩いているとき、めまいがわたしを襲った。バランスを失いよろける。倒れまいと、とっさに手を伸ばした先に、円柱の上の丸い石があった。石造りの像の頭部にあたる丸い石をわたしは掴んだ。
『あっ』丸石は転がり落ち、支えを失ったわたしはその場に倒れてしまった。頭部を失った石の像がそこに立っている。
突然の出来事におどろいたミサは、わたしを上から覗き込み、心配そうに言った。「どうしたの、だいじょうぶ。怪我してない」
したたかに打ち付けてしまった肘をさすりながら、わたしは立った。「う、ん。怪我は……してないと……思う」
見ると、落ちてしまった丸石は地面の上で割れてしまっていた。頭上でカラスたちが騒ぐ。突風が吹き木々の枝をざわざわと揺らす。わたしとミサは足早に神社をあとにした。
家に帰ったわたしは、シャワーを浴びた。肘はあざが出来ていたが、怪我はしていないようだ。そのとき、わたしの左の小指に痛みが走った。「いたっ」見ると、左の小指の爪が剥がれていた。血は出てはいないが、シャワーのお湯が染みて痛い。
『いつの間に剥がれてしまったのだろう』わたしは動揺した。浴室の床には爪は見当たらなかった。
浴室から出たわたしは、左の小指に絆創膏を貼ると、食事もとらずに寝てしまった。頭痛とめまいが酷かった。
翌朝、指先の痛みで目がさめた。浴室での出来事を思い出し、手を見てみると右の小指と中指、左の薬指の爪が無かった。左の人差し指の爪は、付け根だけがかろうじて付いていて、ぶらぶらとしていた。シーツの上に剥がれた爪が転がっていた。
わたしは、すべての指先に絆創膏を貼り、手袋をはめると病院へ向かった。指先がじんじんと痛む。
信号を待っていたときだ。右足の指先にずきっと痛みが走った。第一趾の爪が剥がれていた。剥がれた痕は赤くじくじくとして、小さな黒い虫が数匹たかっていた。わたしは気を失ってしまった。
今わたしは病院のベッドの上にいる。全身を包帯で包んでいる。包帯の下は、血が滲む肉。皮膚はすべて剥がれ落ちてしまった。もう長くはないだろう。痛みを抑えるための投薬で意識は朦朧としている。
病室にはミサがいる。ミサは、わたしを励ますように明るく話しかけていたが、感情を抑えきれず、顔を両手で覆い泣き出してしまった。
『泣かないで』わたしは精一杯の力で、包帯でぐるぐるに巻かれた右腕を持ち上げると、そっとミサの膝に置いた。そのとき、わたしは見てしまった。泣きじゃくるミサの、その顔を覆う手の、指先のネイルが剥がれはじめるところを。