さわり.6
「ぎゃあ」
ガマカエルを思い切り足で踏んづけたような
まったく可愛げのない女生徒の悲鳴が辺りにこだまする。
見覚えのある手のひらサイズの取材ノートが彼女の手から離れ、
それは綺麗な放物線を描いて階段の下にスッと消えた。
「大丈夫ですか、榮倉先輩」
まるでお約束のような、すごく……すッごく無防備な格好で横たわる
大人びた彼女は、
我が〈ヨット高新聞部〉のエース――榮倉七海先輩だ。
僕のすぐ目の前で先輩は両手で顔を覆い、
子供がダダをこねるように頭を小さく振っている。――とその時、
いつもは意識して遠ざけている彼女の肢体がちらりと見えた。
制服のラインに沿って強調された、ほっそりした体型が
妙に艶めかしかった……。
「は、は、鼻が潰れたあ! なあに君、すっごく痛ッたいんだけど! いきなりぶつかってきて、なんのつもりよ一体ッ!」
仔馬の尻尾を思わせる、ふさふさした彼女のまとめた後ろ髪が
力なくうなだれている。形のよい鼻をしきりに押さえ、
そこにうずくまる先輩に、僕はようやく手を差し伸べた。
「……あらあ柴崎君。どこかで嗅いだ匂いと思ったら、君だったの」
我に返る。
すると次第に恐怖が蘇り、胸の動悸が一時激しくなる。
“アレ”は間違いなく幻覚だ。信じられないことに僕は先ほどまで、
“ありもしない光景”を見ていたのだ……。
脈打つ僕の心臓を鷲掴みにして、狂ったように笑いころげる女の亡霊――
「先輩それより、さっき誰かとすれ違いませんでしたか!」
「ハア? “それより”って何ッ! さっきの事故はナシ? はあ、まあいいや……なんのこと?」
動揺する心情を無理に押さえつけ、僕は真剣に問いかける。
「“彼女”が居ました、先輩も知っているでしょ! この学校の七不思議のひとつ、〈歩き回る少女〉の話! 今それが、確かに僕の前を通り過ぎて、下の階へスーッと降りて行ったんです!」
僕の先ほどの不思議体験は理知的な彼女にしてみれば、
より一層混迷の度合いを深めるだけだった。
「ですから……先輩とハチ合わせするはずなんです!」
「はあ。じゃあ私はその、君が言う“幽霊”とやらに会ってたワケだ。へえ、それは気付かなかった。ザンネン、取材を申し込むんだった」
「先輩、ジョーダンじゃないんですよ。僕はこの目で確かに見たんです。最初は白くて細い腕だけが、そこの階段の手すりに掴まりながら、上の階からゆっくりと降りてきて――」
僕が勢いのまま早口でまくし立てると、彼女は少しだけ笑った。
「腕がどうやって歩くのよ。大体にして、どうしてそれが〈ヨット高七不思議〉のひとつの、歩き回るなんとか、だって判断したの? 肝心の“女の子”はどこ行ったのよ。それだってハッキリ見たワケじゃないでしょ」
やがて「先入観ね」と榮倉先輩は断定した。
「――整理しましょう。君はマユツバものの〈ヨット高七不思議〉を一人で調べていた。そのひとつの〈歩き回る少女〉に関する証言を、君は一生懸命集めて回っている。そしてその矢先、君は信じられない場面に遭遇した」
マユツバものとか
一生懸命とか
信じられないとか……
なんだかいちいち引っ掛かる。
「どうして私には見えなくて、君には見えたのか。それは私が、君の話を今に聞くまで“幽霊”の存在なんか気にも留めなかったから。知っていると思うけど、私はタバコの匂いが大嫌い。だから秋山呉介君と遭遇すると、たとえ彼がタバコを吸う前の状態だったとしても、私の嗅覚はその匂いで満たされる」
「でもそれは本当に、呉介の制服に染み付いているんだと思います」
「そうなのよ。でも、もうその名前を聞いただけで、私にはタバコの匂いが広がっている。どうしてか分かる? どんなに香水を大量に振り掛けようと『秋山君=タバコ』の図式が私の中で出来上がっている。ああイヤだ……これでしばらく鼻は使い物にならない」
榮倉先輩は顔をしかめ、くんくんと鼻を鳴らしている。
匂いフェチの彼女ほど敏感ではないが、それを聞くと確かに
安物の香水に紛れて親父臭のする、秋山呉介の体臭が鼻の奥で
広がった気がした。
しかし名前を出すだけで圧倒的な存在感である。
「先輩は」
僕は慎重に言葉を選び、一目も二目も置く彼女に率直な意見を求める。
「〈ヨット高七不思議〉の真相究明について、どう思いますか。先輩はそこに“真相”があると思いますか?」
彼女は僕を凝視して、やがて言った。
「迷っているのね」
相手の心情を見透かす真っすぐな瞳。
そして僕は、それを酷く畏れる。
「探しなさい。迷いはやがて消えるわ。そして最後に残るのは真実だけ」
最後に残るのは真実。
確かにそうだ。多くの人の手によって膨張しきったマヤカシを、
一歩一歩近付いて、最も間近で眺めるのだ。
景山部長が掲げる、これは〈ヨット高新聞部〉の“信念”だ。
たとえそれがどんな結果であろうとも――
そこに〈ヨット高七不思議〉の真実がある。




