しょうごう.10
「学芸員の白瀬です」
初老に差し掛かったその男は、そう僕たちに自分を紹介した。
「あの、僕たちは――」
「ようこそ当館へ。しかし、どうやら良くない時間帯にいらしたようです」
「良くない?」
白瀬は白くなった眉を寄せ、困ったような表情を向ける。
「逢魔時という言葉がこの国にあります。魔が訪れる時間という意味ですが、ちょうど今頃がそれに当たります。昼間に出られない、この世ならざる者が実体化を始める時間帯。昼と夜の世界が最も接する黄昏時の別称が、この逢魔時なのです」
魔が訪れる時間――この世ならざる者――聞きなれない言葉ばかりだ。
この男が言っていることは、きっと別の世界の話なのだ。
現実感がまるでない。
しかし――
僕らが知る『世界』と『常識』は、
ごく限られたほんの一部なのかもしれない。
榮倉先輩がこちらを振り返る。表情は血の気を引いている。
それでも話し声を聞いて、ようやく人心地ついたのかもしれない。
「当館の閉館時間が十八時となっていますのは、先ほどの話と密接に関わっています。今、その時刻を迎えました」
「さっきのは……何」
か細い声を絞り出したのは榮倉先輩だ。
「“さっきの女の子”はなんなの」
やはり、先輩は目の当たりにしたのだ。
白い服を着た少女――夜の帳が降り始めた、
草だらけの寂しい風景が広がっている窓から出て行った、
あどけない少女の姿を。
「それはあなたが見た通りの“現象”です」
「じゃああの子はッ! “幽霊”とでも言うんですか!」
学芸員を名乗る白瀬は黙し、声を荒げる榮倉先輩を無表情に見やる。
「そう思ったのなら、それは正しいのです。名前を付けるのは、ご覧になった当人です」
かっと怒りを露わにする彼女を、僕は手で制した。
「あなたなら、それをなんと名付けますか?」
すると白瀬は榮倉先輩から、こちらへとゆっくり視線を移す。
「知っていたはずだ。なぜなら僕たちが見たものを、あなたは見もしないのに『彼女』と断定してしまっている。それはどうして――」
「そこに毎日現れるからです」
ぞっとした。
ごくりと唾を飲み込んだ音が、僕の後ろから聞こえた。
「おいで下さい」
白瀬が忽然と消える。
コツコツと、革靴が擦れる硬い音が建物全体に響き始めた。
「加賀さん、しっかり。加賀さん!」
あちら側を向き、ぼうっとしているナツキの肩を軽く揺すると、
彼女はようやく僕に気が付いた。
「柴崎君も見た?」
意外に元気だ。榮倉先輩よりも適応力がある。
「だって私ッ、初めて見たよ! ユーレイ、本物のユーレイッ!」
すると彼女は嬉々として、その時の状況を僕にまくし立てた。
まだ足に力が入らない榮倉先輩をナツキに任せ、
光が満ちている方へと歩を進める。
「こちらです」
白瀬は直立不動で僕を待っていたようだ。
部屋の前に下がるネームプレートは【第三資料室】。
先ほどまで僕が居たところだ。
蛍光灯で照らされた室内は隅々まで露わだった。
眩いばかりの人工の光で闇を拭い去った室内は、
人々が恐れる魑魅魍魎の影は存在しない。
「この部屋では【四戸町】の発展に多大な貢献を果たした、一戸清次郎氏を紹介しています」
飾ってある写真には、どれも一戸清次郎の凛々しい姿がある。
「ご存知でしたか?」
「多少は」
「そうでしたか。これは失礼いたしました」
それきり白瀬は説明を切り上げると、一枚の写真の前に進み出る。
「ここに映っているのは一戸清次郎氏と、その伴侶であるイレーナ夫人です」
驚きよりも合点がいった。
氏を映す他の写真はどれも一様に表情が固く、
まるで指示されたかのような決められた姿勢を取っている。
それがカメラを向けられた際の、当時の常識かは知れないが、
今見ている写真とは明らかに違う。
――表情に人間味を感じるのだ。
今に生きる僕たちが自然と笑顔になるように、
幸せに満ちている、と安易に言いたくないが、
その写真に収まる若い男女は少なくとも、
互いに深い親しみを感じている。
「これは清次郎氏がいくつの時ですか?」
「三十二、三の頃と聞いております。夫人と初めてお会いになられたのも、確かその頃と。お二人の御成婚は氏が帰国を迎える間際に向こうの地で執り行われました。そしてその時には、奥方様は“新たな命”を宿していたようです」
新たな命。
二人の間には子供が居た――
「“女の子”ですか、それとも“男の子”ですか!」
心臓が早鐘を打っている。
僕はここに来てようやく、
この“物語の核心部”に迫っていることを感覚で捉え始めていた。
「お生まれになったのは“女児”でした。清次郎氏の黒い髪と、イレーナ夫人の青い瞳を受け継いだ、それはお美しい御令嬢だったと聞いております。ですが彼女は生まれつき身体が弱く、十歳の誕生日を待たずしてお亡くなりになっています」
「彼女の写真はここに?」
「ありません」
間髪入れず、白瀬は言った。
「ない? 残っていないのですか? 一枚も?」
「消失したのか、あるいはご自身の手で処分されたのかは定かでありません。私が知っているのは清次郎氏の手記に描かれた彼女の姿なのです」
それでは――
「先輩たちが目撃した“幽霊”を、本当に″その子”だとあなたは断定出来ますか?」
確かめようがないではないか。
「“私は”そう呼んでいます」
白瀬の視線につられて振り返る。
ナツキと榮倉先輩が、いつの間にか僕の傍に立っていた。
「時に、事実はさほど重要ではないのかもしれません」
白瀬が悲しそうに僕たちに言った。
「名を与えれば、それはその性質を備えてしまう。ですが名を与えなければ、なんにでもそれは変化してしまいます。私たちの世界で生きる以上、名前は絶対になければならないもの。たとえそれが本質を捉えていなかったとしても。そういったものは幽霊や妖怪といった、魑魅魍魎の類として一緒くたにされます。これも名前です。かりそめでもいい、一時的にでも私たちの世界に存在出来る。しかし、そういったものは時を経ると、人々の記憶から簡単に消え去ってしまいます」
忘れてはいけない。
ここは『残留思念』とも呼ぶべき、
【四戸町】の歴史が大量に保管されている資料館。
「言葉には力があるのです。ものごとの根本を変えてしまう恐ろしい力が」
その管理人たるこの男は、言わば墓守だ。
「彼女は今、逢魔時に現れます。しかし夜の住人ではない。夜が訪れると彼女は消えてしまいます。夜にも昼にも、どちらの世界にも属さない彼女は可哀想な存在であると言えます。無力な私は、いつか彼女の本当の名が、白日の下に晒される日が来ることを切に祈るばかりです」
はっとした。
彼は、僕たちに何かを託そうとしている!
「そこで“見たモノ”をお教えします。それは一戸清次郎氏の一人娘」
そして白瀬が、遂に“その名”を口にする……。
「ラヴィーニャ」




