しょうごう.4
そうですね〈さくら姫〉ね。
懐かしい響きです。――あ、そうじゃなくて、
私もこの町の生まれですから。
どこかで言いましたよね。ええ言いました言いました。
そうですか・・・・・アレはまだ残っていましたか。
まだ、あちこちの店で飾っていますか? あのワッペン。知ってます?
引っ越したんです、四年前に。
私が小さかった頃は【四戸商店街】も大いに賑わっていましたけど、
今はダメですね。魚屋も八百屋もなくなりましたし。
でも薬局は……確か残っていた気がします。
それから……そうそう酒屋。酒屋の〈スズキ〉の跡取り息子は
私の同級生で、まだ彼も頑張っているんでしょうか?
とても頭のいい人で、少し気難しい鈴木君。
学生の頃から大人びた言動と顔で――
ええそれがどうしてかと言いますとね、
実はその人は一期上の上級生で、
彼は家庭の都合で一浪して私と同時期に【ヨット高】に入学したんです。
そう言えば随分と会っていないなあ。
向こうはとっくに私のことなんて忘れていると思いますが。
え? そうですけど? この【四戸高等学校】は私の母校です。
教育実習もここに来ました。あれェ言いませんでしたっけ?
おかしいなァ。自己紹介の時にこれも言いましたよォ。
この学校の“卒業生”です私。
小さい頃の思い出が残っているから、どうしても比べてしまいます。
――商店街は辛い。すっかり廃れているじゃありませんか。
でもこの学校は、いや、この学校だけは変わらない。
ここから見える景色はあの日のままだ。
ところで、なんのお話でしたっけ?
「『さくら姫』ですよ木多先生」
長かった。
辿り着くまでが長かった。僕はつい先ほどまで、
あの独特のテンポで繰り出されるペンシルロケットの思い出話に、
身ひとつで晒されていたのだった。
ちょうど今年で三十を迎えるらしい彼が独身であることも頷ける。
自分を前面に押し出して、勝手に自滅するタイプだ。
女性の耳元で愛を囁くペンシルロケットの姿など想像出来ない。
「そうそう『さくら姫』です! 彼女のルーツを君は知りたいとか」
「先生、時間もあまりないので簡潔に願います」
僕が真面目にそう言うと、ペンシルロケットは苦しそうに笑った。
「そうですねえ――うん、実に“面白いテーマ”ですよ。で、君が思う『さくら姫』はどんなですか? どんな表情をしています? 歳は? いくつだと思います?」
思いもしない突然の問いかけだった。
『さくら姫』の情報は一切ない。
悲恋物語と僕に教えてくれた看板娘の雪子さんも、
その内容を結局のところは知らなかった。
景山部長も、榮倉先輩でもダメだった。
【四戸町】に住むナツキでさえ知らない。
しかし〈さくら姫〉という名称と、
あの愛らしいキャラクターは頻繁に出て来るようだ。
「想像を働かせなさい。それで記事は書けませんよ。自分の手に負えそうにないのなら、景山さんに相談してはいかがです。彼女の歳、容姿、住んでいた場所――その他もろもろ彼女に関すること全てね」
どこか……知っていそうな口振りだ。
自分しか知らない事実をどうしてかは不明だが、
このペンシルロケットは握っている気がする。
この話を始めた途端、彼の言葉の端々に隠しきれない
深い自信のようなものを感じるのだ。
あのラーメン屋でそれを目にした時から、
僕はずっと引っ掛かっていた。
歳月を経た今、語られるべき物語性はすっかり失われ、
名前だけが氾濫するようになった。
『さくら姫』もまた、変質しているのではないか。
「先生は知っているんですね」
「さて。どうしてそう思うんです?」
「先生はこの学校の卒業生でしょう。“最初の姿”を知っていてもおかしくはない」
「最初の姿?」
彼なら知っているかもしれない。
尾ひれが付く前の、変化する前の段階の噂話。
つまり僕が問いたいのは〈さくら姫〉などではなくて、
この〈ヨット高七不思議〉のひとつ、〈歩き回る少女〉の――
「まさか調べているんじゃないだろうね」
つと、全身の肌が粟立った。
「この学校に代々話し継がれている噂話」
木多先生が、声色を変えた。
これは僕の知らない――たぶん誰も知らない木多孝造だ。
動揺する僕を無視して、先生は自身の言葉を畳みかける。
「“調べてる”んじゃないですよね? あの〈ヨット高七不思議〉を」
改めて思い知る。
僕の前に塞がっていたのは、まるで見上げるような大入道――
声がした。
「柴公ッ、何してんだよ!」
呉介だ。
後ろから呉介の大声が、かろうじて僕をこちら側の世界へと引き戻す。
体が震えている!
この男は、きっと上から覗き見ているのだ。
逃げ出したい。
逃げなくては。
とに
か
く、こ
の場
か ら。
一刻も
早 く離
れな け れば
そ う でな い と僕は。
「イタズラに手を出すと、もう戻ってこられない」
振り返る。
走り出そうとした刹那、得体の知れない者の魔手に強く腕を掴まれた。
なぜならば、
僕はその時既に、
―― “向こう側の世界”に身体の半分を置いていたのだ ――
「どうして……ですか」
漆黒の衣を纏う男は、もはや僕の知る木多孝造ではない。
「そこで語られることが事実だからです。柴崎君。〈ヨット高七不思議〉をただの噂話と思って舐めているのではないですか? もしも他人事のようにそれを扱っているなら用心した方がいい。君のところにも、もうすぐ“現れる”」
大男は青褪める僕を見て嗤った。
「我々が思う不可思議な現象はね、この町においては珍しくないんです」




