しょうごう.3
【弓道場】は深い森に囲われている。
平和を謳う鳥のさえずりが、そこかしこで響いていた。
精神の鍛錬には、まさにうってつけの場所であろう。
惜しむらくは、その聖域を汚す不届き者が、
いつも“三名”ほど存在すると言うことだ。
その報いとして天罰が下らないところを見ると、
あの男は悪運が特別に強すぎるのだ。
――いや、きっと悪魔そのものなのだ。
ふと【弓道場】が気になる。
こんな機会でもなければ近付くこともなかったはず。
なにしろ僕の行動範囲は、家と、学校までの通学路と、
2-Bの教室と、そして〈ヨット高新聞部〉の部室だ。
最近は【図書室】にも足を運ぶようになったが、
稼働範囲は狭いと言わざるを得ない。
これより向こうには野球部専用の【第一グラウンド】があり、
もっと足を延ばせば町営の【多目的運動場】があり、
途上には澄んだ湖のある【森林公園】がいっぱいに広がっているそうな。
いつか行ってみたいと思っているが、
その時が卒業までに訪れるかどうかは怪しい。
――足を止める。
ずっと遠くの方からでも鮮明に分かる巨大な人影が、
太陽光さえ満足に届かない鬱蒼とした林の隙間を縫うように
こちらへ向かってゆらりゆらりと伸びてくる。
まさか……まさか……!
【ヨット高】の生徒ならば誰もが震え上がって道を譲り、
まったく身に覚えがなくても校内放送で呼び出されようものなら、
ひたすら泣いて許しを請うしか【生徒指導室】を出られる術がない――
あの地獄の番犬・イヌに嗅ぎつけられたかッ!
しかし、その相手はペンシルロケットこと木多孝造先生だった。
たぶん見間違えることのない、文字通りの見上げるような大入道は
高さの割に横幅がない。常に愛用している漆黒の背広は、
その重厚感とはほど遠く、
まるで若杉の小枝のように貧相な印象しか受けない。
この先生に威厳があるかどうか正直に問うなら、おそらくない。
どこへ行くのだろう……?
ペンシルロケットは僕にまったく気付いていない。
まるで何かに憑りつかれたように、ただ一点を見つめ、
ふらふらと歩を進めている。
「先生! 木多先生ッ!」
するとようやく彼は気付いた。
のしのし、と歩くのがイヌ――犬飼先生であるが、
このペンシルロケットの場合、かさかさという情けない表現が似合う。
「……2―Bの柴崎君ですか? どうしたんです、こんなところで」
「せ、先生こそどうしたんですか!」
まるで灌木を思わせるペンシルロケットこと――木多孝造先生は、
長い腕を頭にやり、うだつの上がらない青年教師といった印象を
僕に強く植え付ける。
「ああ……私は向こうの森の方へ。君は取材か何か?」
取材――まるで意味が分からず、僕は不用意に聞き返してしまった。
すると「新聞部でしょ」と的確なツッコミが返ってくる。
「はあ……君にはマズイところを見られてしまいました。私の方は、つまらない用事です。ひと回りして戻りますので、君は授業が始まる前に教室へ戻ってください」
まずいと思った。
一部の生徒の問題行動がいよいよ職員会議で取り上げられて、
昼のパトロールが条例化されたのかもしれない。
これぞ絶対なる昼休みのムダ遣いである。
それをさせているのは、もうもうと立ち込める
タバコの煙の深海にひそむ、あの白い悪魔たちだ。
裏切れねえ義理というものが、僕と呉介の間にあったかは疑問だが、
この時ばかりはペンシルロケットを行かせてはならないと感じた。
「ん? どうしました」
僕は引き留めるだけの話題を探す。
しかしこのペンシルロケットの場合、
どんなエサでも食いつく気がしている。
なぜならすごく話したがりの、
ビックリするほどおしゃべり好きだからだ。
扱い易さの点では教師の中で断トツのナンバーワンであるが、
「そっちに行ってはいけません」なんて言ったら露骨に怪しまれる。
そうだ。
『さくら姫』を出そう。たぶん好きそうだ。
「ああ『さくら姫』! おお『さくら姫』!」
案の定引っ掛かった。




