第七十二話
「……我は触れられざるもの」
固唾を飲んで見守るアーニャとエランティスを横に、僕はひどく落ち着いた気持ちで魔法を発動させる。
「嗚呼、寄るな触るな近付くな。あの日の慟哭を彼方へ」
失敗することは、怖くない。緊張は、殆どない。
何度練習したかも、もうわからない程の修練を積んだんだ。失敗することは欠片も恐れていない。
「此処は汝等の触れてよい夢に非らず。
故に――誰我接触不叶」
詠唱を終えると共に黒い霞のような法衣が身体の周りに現れ、纏われる。それを確認したエランティスが、ライフルの銃弾を数個、僕に放って投げた。同時に投げられた複数の物を受け取るのは思ったより難しく、慌てて何とか受け取ると、心配そうにこちらを見るアーニャが視界に入る。僕は彼女を安心させる為にニコリと笑いながら、障壁突破を付与させる術式を発動する。
「『絶界――月蝕』」
組み上げられた術式は問題なく発動したようで、金色の銃弾がまるで皆既月食の様に浸食され、黒く、塗り上げられる。込めた願いは干渉の拒絶。出来上がったものは空気抵抗も物体も魔術すらも拒む不可侵の銃弾。
「これは……想定以上だな……」
「……悠?」
驚いた様子のエランティスとアーニャ。そしてホッと安心したため息をつく僕。失敗する事を恐れてはいなかったけど、無事に終わったことに安心する。
エランティスは何やらブツブツと呟きながら銃弾を検分している。どうやらよほど興味深かったのか、かなり真剣な様子だけどぶっちゃけちょっと鬼気迫ってて怖い。
「えっと、全力で干渉の拒絶の術式込めちゃったけど、エランティスの魔術って刻めるのかな?」
「いや、必要ない。これ以上刻むのは銃弾自体が保たぬし、そもそも刻めぬ」
僕の質問に軽く返すと、また銃弾に向かってフムフム言いながら何かを調べている。そんなエランティスの様子にドン引きしていると、不意に服の袖がくいと引っ張られる。少しの驚きを含めて振り返ると、そこには心配そうな表情を浮かべたアーニャの姿。
「えっと、悠……」
「ん?どうしたの、アーニャ?」
「いえ、少し、その、様子がおかしく見えたので」
すこし、いや、かなり驚いた。女の勘ってやつなのか、確信は無いけれど何かあったと思っている目だ。
表情はごまかせて……なかったみたいで、アーニャの心配そうな表情がさらに曇る。
「……大丈夫だよ。ちょっと、術式の練習しすぎただけだから」
「無理してませんか?あとは私達の仕事ですし、悠は休んでいても」
「大丈夫だよ」
確かに僕の仕事は既に終わった。最悪ここで待機していても、無事に事が済めばやる事は無いだろう。
けど、そのアーニャの提案を僕ははっきりと断る。そう、大丈夫、大丈夫だ。魔法が壊れたアーニャを護るのは、僕の義務だから。
「それに、見届けさせてほしいから」
「……わかり、ました」
まだ心配そうな表情のまま、僕の言い分をのみ込むアーニャ。まぁ、魔獣に出会えば身体が竦んで動けなくなった状態なら、普通の一般人の方がまだ役に立つしね……
「そろそろ出立するぞ、法を仕舞え。展開したことはあちらにも分かる。こちらの思惑に感づかれる前に事を為さねば」
いつの間にか検分を終わらせていたのか、エランティスから声がかかる。
「いこう、アーニャ」
「えぇ……」
アーニャに向かい、ほほ笑みながら手を差し出すと、おずおずと言った様子で彼女はその手を取る。
大丈夫、きっと上手くいく――
◆◇◆◇◆◇
狙撃、と言うものはよく分からないけど何となくドラマや映画でやるイメージ通りなんだな、なんていう気の抜けた感想を、眼前に繰り広げられる光景を見ながら思う。
3階建程度のビルの屋上で、豊和……なんとかは二脚の架台と共に地面に据えられ、アーニャはうつ伏せになりながらそれをチェックしている。真っ白なワンピースで伏せている姿は、服が汚れてしまうのではというハラハラと、スカートで伏せている為にその覗くふくらはぎと太ももに、非常に目の毒と言うか視線の置き場に困る。自分の身体には早々に慣れたというのに、アーニャの艶姿には一向に慣れないのは一体どういうことだろうか。
「銃の状態は問題ないわ」
「風向き、距離も問題ないな」
てきぱきと準備をする二人を所在なさ気に見ていると、不意にエランティスから双眼鏡を投げ渡される。かなりゴツめの双眼鏡でかなり遠くまでも見れそうな代物だ。
「まずは目視でつけなければならぬ。数十分以内に“界渡りの”が12時の方角から来るはずだ。見逃すなよ竜胆悠」
正直何もせずに数十分待っているのも辛かったので、この提案はありがたい。
双眼鏡をのぞき込み、かなり遠くまではっきりと見える事に驚きながら、ふと気付いた質問をエランティスに投げる。
「ごめん、12時ってどっち」
「……あちらだ」
「……ごめん」
アゴでクイッと方角を指し示すエランティスの目が冷たい。謝ってるんだから、ため息はつかないでほしい。
「…………」
緩んでしまった空気も、その後はすぐにかなり緊迫した、誰一人言葉を発さない無言の時間が流れる。息をするのも気を使うような緊張感。身をよじり、布の擦れる音すら配慮してしまう静寂感。
人通りがへった町の半年前と比べれば随分と控えめになった喧騒だけが流れる。シャッターの締まった店は多く、ビルのカーテンも何割かは締められ、そこに人がいない事を無言に語る。時刻は正午過ぎといったところで、本来であれば多くの人が通っていたであろう街路は、幾らかの人達が歩くばかり。
そんな疎らな人の中に、見覚えのあるゴスロリ風の衣装を見つける。
「きた、来たよ!」
見つけたのは愛緋ちゃん、そして隣を歩く布袋君だ。二人は何やら楽しそうに話し、歩いている。手に持つのはスーパーか何かの買い物袋だろうか。多分買い物帰りであろう二人はとても幸せそうに見え、心がちくりと痛む。
「アーニャ・ガランサス」
「えぇ」
しかし彼らと面識の殆どないエランティスとアーニャにそんなのは関係無く、そもそも遠見の魔術を使っていない二人にはそれが目に入らない。
淡々とした声色でエランティスがアーニャに声をかけ、アーニャが淡々と返事を返す。
ゆっくりと歩く二人の姿を複雑な気持ちで見る。
と、その瞬間、愛緋ちゃんが立ち止り、その緋色の眼が、こちらを真っ直ぐと見据える。普段は前髪で深く隠したその緋色の眼と視線が合う。
「――――ッ!」
声にならない悲鳴を上げようとした瞬間、アーニャが引き金を引き、火薬の炸裂する音が響いて銃弾が放たれる。音速を超える銃弾が真っ直ぐ愛緋ちゃんの眉間に向かって進み……
――空間に空いた穴に飲まれて消えた。
「――ッチ!退くぞ!!アーニャ・ガランサス!竜胆 悠!」
「アーニャ!」
「あ、ありがとうございます」
舌打ちと共に吠える様なエランティスの叫び。それに飛び跳ねる様に反応しアーニャの手を掴み、伏せていた彼女の身体を引っ張り起こす。気付いていた。気付かれていた。見つめる愛緋ちゃんの、感情のこもっていない瞳が頭の隅から離れない。
「離れるな!離れれば結界で分断されるぞ!」
走りながら魔法を展開させ、アーニャを抱きかかえながらビルから飛び降りると同時に、背後に“何か”が射出される。
金属音と爆発音と硬いものが砕ける音と、その他あらゆるものを同時にぶつけたような悍ましい音が頭上の背後から響く。下からはあのビルの屋上がどうなったかは見えないけれど、焼野原では済まない事になっているのは想像に難くない。
見えない屋上に向けていた視線を正面に戻した瞬間、僕は思わず悲鳴をあげそうになった。
「…………」
「――“界渡りの”!」
そこにいたのは愛緋ちゃんだ。目元は再び前髪に隠れ、金色の装飾を施した黒いヴェールと、銀色に輝く巨大な鍵が、既に其の手に握られている。
「……“拒絶の”の、契約魔獣。貴方が悠さん達を、けしかけたの?」
「応える義理は無い」
目元を隠したままこちらに視線を向けていた愛緋ちゃんは、無言のまま視線を僕からエランティスに向け、そう問いかける。複雑そうな表情を浮かべていた先ほどとは打って変わって、怒りと、憎悪を込めた表情で。
対するエランティスは吐き捨てる様に返す。こちらも目元は白い毛に覆われていて見えないけれど、その声色から感じられる感情は憎悪と嫌悪。
「……そう」
エランティスの返答に愛緋ちゃんが興味なさ気に言う。もとよりこの問答に意味は無かった様で、どうやら最初から答えなど気にしてなかったようだ。
「じゃあ、死んで」
「――」
銀色の鍵を振りかぶった愛緋ちゃんは、間合いとしてははるかに離れたまま、それを振り下ろす。振り下ろして……
――ガキンと、白銀の鍵と漆黒の霞がぶつかる。エランティスの頭上で。
以前アーニャにしたのと同じ攻撃だ。武器の先だけ転移させ、死角から斬りつける。けれど、それを知っていて狙いが分かっているなら、防ぐのはそう難しい事じゃない。振り下ろされる銀の鍵は、割り込んだ僕の霞のマントで完全に防がれていた。
「余計な事を」
「あれ、別に助けなくても問題なかった感じ?」
「無論だ。だが礼は言っておこう」
「……どーいたしまして」
エランティスは落ち着いた様子で言っている辺り、本当に何か対策はしていたようだ。格好つけて割り込んだ僕だけが恥をかいた結果かな、これは。
「……悠さん、なんで、来ちゃったの」
流石に割り込んできた僕を無視するのは出来ないのか、愛緋ちゃんが絞り出すような声で問う。いや、呟く。
「エランティスやアーニャを死なせるわけにはいかないし、愛緋ちゃんをほっておけないしさ」
僕の返答を聞き、アーニャは悲しげに目を伏せ、エランティスから不機嫌なオーラを感じる。
これは、言葉を間違えたかな……後が怖そう……
「……私は、放って置いて欲しいの」
「……知ってる」
今度の呟きは、明確な拒絶。僕は愛緋ちゃんの願いを知っている。
誰からも傷つけられない所。
誰も傷つけずにすむ処。
そして何より、誰にも傷つけさせたくない人。
「やっと見つけた、場所だから。やっと見つけた、大切な人だから」
「知ってる」
きっとそれはティアナちゃんの願いと同じもので。僕の願いと同じもの。
「私はッ!ここに居たいから!」
逃避の先で見つけた大切なもの。
誰よりも共感できるその願いを受けて、だからこそ僕は、こう答える。
「知ってるよ。けど、止めに来た」
「ならッ!!此処で死んでよ!!!」
悲鳴のような叫び。それに呼応して現れた数十の空間に浮かぶ渦の様な“門”。
「ユウさん……いいえ!“拒絶の魔女”!!」
一斉にそこからあふれ出るのは様々な種類の魔獣。
鳥、犬、蛇、蝶、樹、それから、それから……
種類を数えるのも馬鹿らしくなるほどの大量の魔獣。この光景を見るのが初めてのエランティスは流石に目をむき、珍しく驚愕の表情を見せている。見た事のあるアーニャは流石に怯えた表情をしている。
「退け、竜胆悠!」
「悠!だめ、まだ呪いが……!」
ティアナちゃんが教えてくれた“呪い”の事だろう。エランティスとアーニャが焦ったように叫ぶ。敵と相対して恐怖を覚えると、それを何倍にも増幅させる呪い。
数日前であれば確かに、身が竦んで逃げ惑うことしか出来なかった呪い。
だけど……
「……跪け――『絶地・雲翳』」
手を真っ直ぐ突き出し、術式を起動させる。
同時に、視界の範囲の全てのものが、地面に叩きつけられる。
見えない巨人に押しつぶされたような圧力に、アスファルトはひび割れ、ブロック舗装は砕け、植栽はひしゃげて潰れる。そして耐久力の低い魔獣は圧死し血を吐き絶命し、耐久のある魔獣もそれなりのダメージを負っているように見える。
「エランティスの真似事だけど、流石、中々効率的だね」
地面へ向かっての圧力。エランティスが好んで使うのもよく分かる利便性だ。
目が前についている生き物にとって頭上は死角であり、手を差し出すことによって意識は僕自身に向けられる事により、相当な勘の良さが無い限り防げない。そして、“斥力”という魔法の性質上、一方向からの力で済むのは労力が半分以下で済むという事だ。
「何を、したの?」
「別に種明かしする程難しい術式じゃないよ?指定範囲の上空から拒絶の魔法を発動させただけで……」
がれきの下から転移で出てきた愛緋ちゃん。不意打ちで多少の手傷を与えられたのか、額から血を流す彼女の問いに、僕は答えていると……
「違うっ!何故!“呪い”は、破られてないのに!」
「……なにを、したの、悠」
「竜胆悠……貴様よもや……」
愛緋ちゃんだけにならとぼけるのを通そうと思ったけど、さすがにアーニャやエランティスにそれが通じるとは思えない。まぁそもそも、どうせばれる事だから隠していても仕方ないしね……
ため息と共にタネを明かす。あぁ、多分きっと怒られるんだろうな。実際ティアナちゃんにはめちゃくちゃ怒られたしな。でもそれは、うれしくもあり、心苦しくもある。
「……拒絶しただけだよ」
そう、拒絶しただけだ。
戦うのに、こんなものは邪魔だから。
約束を果たすのに、こんなものは障害だから。
護りたいものに、何一つ触れさせない為に、こんなものは不要だから。
拒絶したんだ。
――恐怖心を。




