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真新しい真黒な制服に袖を通すと、肌に触れた布地が今まで触れたことのないような上質な質感であることがわかり、彼は思わず片腕だけに袖を通したまま、空いている方の手の指で制服の生地を数回撫で、生地の質感を確かめた。
彼が身に纏おうとしているこの漆黒の制服は、この王国で伯爵家として名高いブランヴィル家の騎士の証である。王国の貴族達は、護衛や屋敷への侵入者等の防犯のために、各家で騎士を雇っている家がある。そしてその家に仕える騎士は、その家の指定された騎士の制服を身に纏って任務に就いている。制服の色も各家様々で異なっており、ブランヴィル家では黒を用いていた。漆黒の生地に、金色の留め具と、所々に金色の糸で装飾が施されているところが貴族らしいデザインとなっている。
そして今、そのブランヴィル家の制服を身に纏おうとしている彼にとっては、まさにこれまでの人生で一番上等な服だった。
少々着替えに時間をかけて漸く制服に身を包んだ彼は、壁際の大きな鏡の前に向かった。鏡の前に立つと、漆黒の制服の、緊張気味な表情である青年が映っていた。彼はその自分の姿を確認すると、緊張気味な表情を崩し、小さく苦笑した。
すると、部屋の入口のドアが軽快にノックされ、燕尾服に身を包んだ屋敷の執事の男がドアを開けた。執事は、制服を着た青年の姿を確認すると、青年を連れて部屋の外に続く廊下に出た。
長い廊下を青年が執事の後ろについて歩いていくと、廊下の突き当たりに階段があった。その階段を昇って2階のフロアに着くと、また長い廊下を進んでいく。青年は執事の後を追い続けながら、廊下の窓の外に目を向けると、一目でその景色に魅了された。2階の廊下と共に長々と続く大きな窓からは、丁寧に手入れされた美しい庭と、屋敷の外に広がる広大な敷地が見渡せるのだ。
青年の目の前を歩く執事は、窓の外の美しい景色に目もくれず、まっすぐと行く先を見据えて姿勢よく歩み続けていた。青年は、そんな執事の様子を確かめながら、この屋敷の人間たちがここを通る度に目にしているであろうという当たり前の美しい景色を、とても眩しそうに眺め続けた。
廊下の端まで来ると、執事は目的の部屋のドアをノックした。すると、部屋の中から「はい。」という女性の声が返って来た。
「お嬢様、お客様でございます。お通ししてもよろしいでしょうか?」
執事がドア越しに訊ねると、すぐに「どうぞ。」という優しそうな女性の声がした。
執事に促されて青年が部屋の中に入ると、部屋の奥の窓際にあるイスに、栗色の髪を綺麗に結いあげ、薄い黄色のような黄緑のようなドレスを身に纏った女性が座っていた。彼女は読書中だったのか、入って来た青年の姿を目に捉えると、手にしていた本を閉じ、イスから立ち上がって礼をとる。青年も礼を返すと、女性は執事に向かって「どちら様かしら?」と訊ねた。
訊ねられた執事は、部屋の入口付近にいる青年を女性の前へと促し、そして青年に向かって「お嬢様にご挨拶を。」と言った。
青年はそれに小さく頷くと、遠慮がちに女性の手をとり、甲に唇を落してから、女性に向かって微笑んだ。
「はじめまして、クレア様。
本日から、貴方様の護衛に任命されました、騎士:エリック=ベーラーと申します。
どうぞ、よろしくお願い致します。」
青年―エリックが、丁寧に、だが緊張気味な声で自己紹介すると、女性―クレア嬢は、急にエリックにとられていた手を勢いよく振り払った。
「な、なんですって?!」
急に手を払われてびっくりしたエリックだったが、同じように驚きの表情を浮かべて叫んだクレア嬢を見て、はて?と首を傾げた。
クレア嬢の顔からは見る見るうちに血の気が引き、真っ青になって行く。そして微かにわなわなと震え出しながら、表情が驚きから剣幕に変わって行くのがエリックには見えた。
「どういうことなの、ハロルド?!」
クレア嬢が、後方に控える執事―ハロルドに向かって叫ぶ。対してハロルドは、さして驚いた様子もなく冷静なようで、「ですから、お嬢様の護衛騎士です。」と手短に答えた。
「わかってるわよ!違うわ!護衛騎士ってなによ?!」
驚きの表情を浮かべているエリックに目もくれず、クレア嬢はすごい剣幕でハロルドに詰め寄って行く。
「護衛騎士とは、主の身の危険を守る役目を担った者です。」
再びハロルドが冷静かつ手短に答えると、クレア嬢は短く、それはそれは短くため息を吐いた。
エリックはハロルドに詰め寄るクレア嬢の様子を、今のは舌打ちというものではないだろうかと疑念しながら凝視した。もちろんクレア嬢はそんなエリックに目もくれず。
「違うわよ!!そんなことわかってるわ!」
クレア嬢は、4回目の叫び声を上げて、綺麗に結いあげられていた髪も気に留めずに、両手で頭を抱える。エリックは先ほどから続く、いろいろといたたまれない状況に思わずクレア嬢へ「あ、あの・・・?」と声をかけた。
すると彼女はやっとエリックに目を向ける。彼女の翡翠の瞳が、より濃い色を湛えてエリックを見つめた。そしてハッとしたようにクレア嬢は目を見開くと、再びハロルドの方を睨んで5回目の叫び声を上げる。
「お父様ね?!お父様が連れて来たのね?!」
それに対して今度は、ハロルドが丁寧に「旦那様はお嬢様の身を案じて・・・」と説明しようとした言葉をクレア嬢の「いりません!!」という言葉が遮る。
「いりません!!
わたくしに騎士などいりませんわ!必要ないですもの!!」
「しかし、お嬢様・・・!」
ハロルドが控えめに声を上げる。しかし、クレア嬢は「もうわかったわ!」と言って、ハロルドの言葉に聞く耳など持つ気はないようだ。
そしてクレア嬢はエリックの方に向き直ると、一瞬だけエリックを睨みつけたが、焦ったように表情を笑顔に変え、「ええっと・・・ミスター・・・?」と言いかけた。
それを聞いたエリックは、彼女が自分の名を述べたいというのを察知し、「・・・ベーラーです。」と言った。
「あ、そうね、ミスター・ベーラー。取り乱してしまって、失礼致しましたわ。」
先ほどよりも笑顔を深めて謝罪の言葉を述べる彼女を見て、エリックはまた凝視したくなったが、それを堪えて「いいえ。」と笑顔で返した。
クレア嬢はその返答に、ホッとした様子もなく話を続ける。
「ミスター・ベーラー、先ほど申してしまいましたが、
わたくしに騎士は必要ないんですの。
せっかくお越しいただいて申し訳ないのですが、こちらの手違いのようですわ。
・・・おそらく父の、手違いかと。」
「お嬢様・・・・!」
ハロルドが慌ててクレア嬢を止めに入ろうとするが、クレア嬢はお構いなし、だった。
「ちょ、ちょっと待ってください!私は正式に契約を・・・」
エリックもクレア嬢の言葉に慌てて言い返したが、こちらもクレア嬢に対しては意味のないものだった。
「もちろん、違約金はお支払いいたしますわ。安心してください。」
にっこりと微笑んだクレア嬢は、部屋の机の引き出しから何やら用紙を取り出した。
「いえ!あの!そうではなくて・・・」
取り出した用紙にペンを走らせるクレア嬢の手を止めたい勢いでエリックは言ったが、やはりクレア嬢は手違いであるという主張を変える気はなさそうだった。
クレア嬢はペンを置くと、エリックに用紙を手渡した。エリックが手渡されたものを確認すると、ブランヴィル家の紋章の入った小切手だった。
「本当に申し訳ありません。父にはわたくしからきちんと話しておきますので。
また改めてこちらからお詫びに覗いますわ。
とりあえずですが、本日はお引き取りくださいますでしょうか。」
エリックは、クレア嬢の最後のこの言葉に真っ青になった。
クレア嬢が最初に見せた青白い顔よりも、エリックの方が更に青白かった、という話を彼はその場に居合わせていたハロルドに後々聞くことになる。
エリックはこのとき、これまでの人生で一番上等な服に身を包みながら、これまでの人生で一番の絶望を味わったに違いなかった。
クレア嬢に退出の言葉を言われて、エリックは茫然としながらハロルドに退出を促された。
そしてまた来た時と同じように長い廊下を進んでいくが、緊張でいっぱいだった来た時よりも、帰り道のエリックの足取りはおぼつかなかった。よたよたと、壁にぶつからない程度に、床面に敷かれた絨毯に躓かないように、歩いて行く。
(もしかしてこれは失業というものだろうか・・・。)
廊下の窓から見える美しい景色が、エリックには心なしか霞んで見えた。
エリックは霞んだ景色を遠目で見ながら、心の中で独り、そう呟いた。
読んでくださり、ありがとうございます!
西洋風の中世あたりの世界観が大好きで、小説を書き始めてしまいました。
小説を書くことに不慣れでまだまだ勉強不足なため、
未熟な文章でわかりにくいかもしれませんが、
もしお気に召しましたら最後までお付き合いいただけると幸いです。
*2012.11.29 文の間隔を修正しました。