第4話
顔を顰めたくなるような醜い悲鳴と共にピュルケーが絶命する。
視界内に魔物の気配は無く、今のが最後の一匹であったことを証明するかのように辺り一帯を静寂が包み込んだ。
「へへ……ざまぁみろ……」
疲労困憊といった様子を全身で表現する少年は、肩で大きく息をしながら力無く笑う。
引き抜いた剣から紫色の血が飛び散り、大地を汚した。
魔物の死体から生臭い腐臭が漂い、石畳の地面が毒々しい色の血に浸食されている――常人なら吐き気を催さずにはいられない凄惨な光景の中で、なんとか魔物の猛攻を凌ぎ切った少年は満足げに頷き、そして体勢を崩した。
猛攻といっても、三半規管をやられて正常な行動ができないでいる有象無象の攻撃なんか、突っ立っていても当たりはしなかっただろうけど。
俺は少年の身体が地面に叩き付けられる前に、自分の身体を割り込ませ、おぶる形で支えてやる。
……重い。
筋力増強剤を飲んでいなかったら、支え切れずにぺちゃんこにされていたところだ。
少年はそこで完全に意識を失ったのか、握っていた剣を落とす。
乾いた音をたてて転がるそれは一目で良質な剣だと判別できるものの、少年の未熟さ故に刃がボロボロになっていた。
……まぁ刃筋を立てず、力任せに叩き切るような扱い方じゃ、こうなってしまうのも無理はないんだけど。
それにしても、この刃毀れの仕方はさすがに酷い。少年の腕のせいだけではなく、剣自体も寿命を迎えたのだと一目で理解できる壊れ方だ。
「可哀想だけど、この剣はもう駄目だな」
俺は少年を安全な場所に寝かせると、ついでに少年の剣も拾って傍に置いてやる。
いい寝顔だ。察するに初めての実戦だったのだろうけど、それであの気迫と頭の切り替えの早さなら冒険者としての資質は十分にあるだろう。
何より、剣の扱い関してはそれ以上に光るものがある。良い師に巡り合えれば、将来大物になるかもしれない。
ま、俺には関係のない話だけど。
魔物の気配は皆無だし、このまま1人寝かせておいても問題はないハズだ。
んだらば、ブレイズドラゴンとタイマン張ってる少女の元へ急ぐとしよう。
「さて、行くか」
足の裏に気を集中させ、存分に圧縮してから爆発させるイメージで飛ぶ。
その瞬間、俺の身体は重力の枷から外れたように空高く舞った。
◆◆◆
一足飛びに破壊された家屋を幾つも飛び越える。
目を背けたくなるような光景ばかりが眼下に映り、辟易する。さっさとやること済ませて昼寝したい。
途中、力尽きて倒れていた冒険者から質の良いロングソードを貰い受けた。俺の見立てでは、少女がブレイズドラゴンを倒すより先に剣の方が根を上げるハズ。そうなったときの為の保険だ。
――と、ここでようやく少女の気配に追い付けた。見ると、住宅が密集している場所でブレイズドラゴンと戦っている。
「なるほど。建物を盾にして身動きとブレス攻撃を封じたか」
少女は大物との戦いに慣れているらしい。影から影を縫うように走りまわり、上手い具合に死角から攻めている。
……そのせいで、迎撃しようとするブレイズドラゴンの尻尾の振り回しやらブレスの余波やらで、家屋の被害が物凄いことになっているが。
持ち主や大工さん達にはご愁傷さまとだけ言っておこう。黙祷。
そこで、ようやく俺の気配に気づいたらしい少女が一瞬だけこちらに視線を送ってきた。その瞳には何かを確信したような光を湛えている。
およ、もしかして俺の正体に気付いたのかな?
『―――ォォォン!!』
怒り狂った竜の咆哮がビリビリと周囲の空気を震わせる。
……まぁ今はそれどころじゃないよな、うん。
ブレイズドラゴンはちょこまかと動く餌に苛立つように、荒々しく尻尾を叩きつけた。
針金のような筋繊維で構成された筋肉に、鋼を物ともしない硬質な鱗が合わされば、それだけで十分な凶器となる。そこへ尾先の鋭い棘が加わるとなると……あぁんひどぅい!
石壁を粉々に砕き、舗装されている地面を抉る一撃が少女を襲う。
素人ならば、脳裏を過った嫌な未来に思わず目を瞑っていたに違いない。
しかし、少女は瞬き1つせずに迫りくる巨大な尻尾を見据え、最小限の体捌きで回避した。無駄な動きを極力省いているので、次の動きに繋げるまでのタイムロスがほとんどない。
尾が叩きつけられ、持ち上げられるまでの僅かな静止時間。その一瞬の隙を突き、少女は鱗の隙間に剣気を纏わせた剣を突き立て、軽業師の如き流麗さで自らの身体を持ち上げる。そのまま尾の上に飛び乗ると、怒涛の勢いで頭頂部へ駆けた。
その素早さはまるで疾風の如く。並みの人間では目で追うことすら苦労するかもしれない。
「肉体の扱いに関しては合格かな。でも――」
俺が結論を出すより先に、ブレイズドラゴンの頭の上を陣取った少女が脳天に向けて剣先を振り下ろす。ここまで目の当たりにすれば、大半の人間が少女の剣は竜の頭蓋を貫くと確信するだろう。
だが……
――ギィン!
嫌に耳に障る、中途半端にこもった金属音が耳朶を叩く。そして、宙を舞う折れた剣先が、音を立てて地面に突き刺さった。
剣気の纏いが緩かったせいで、剣の耐久力が甘くなっていたのだ。まだまだ未熟と言わざるを得ない。
「……っ!」
まだ若干の幼さが残る少女の顔がサッと蒼く染まる。今の一撃でトドメを刺す気でいたのか、想定外の事態に頭がついていかないようだ。俺としては予想通りの結果だけど。
なんていうか、もう少し予想を覆してほしかったかも。
まぁでも、この場合は寧ろ「よく攻めた」と褒めてやるべきか。ちょっぴり努力不足な気はするものの、単身でこれだけやれれば大したものだ。
とまぁ、そんなことはどうでもいい。
鬱陶しい蠅を払おうと躍起になって自らの身体を揺さぶっているブレイズドラゴンと、堪らず振り落とされる少女。このままでは彼女が危ない。
俺は道中で拾った名も知らぬ冒険者の剣を槍投げのように投擲する。そして、剣の軌跡を見届けることなく、地面に叩きつけられようとしている少女を空中で拾って抱き寄せた。所謂、お姫様だっこである。特に深い意味はない、うん。
背中で、さながら特撮もののワンシーンのようにブレイズドラゴンが派手に倒れる。
眉間に剣を突き刺したので完全に絶命している。どんなに屈強な生物でも、急所を穿たれればそれまでだ。
俺は巨体の衝撃でもうもうと視界を埋める土煙から逃げるべく、少女を抱っこしたままその場から離れる。
その途中で、腕の中で丸くなっている少女が口を開いた。
「あ、あの……」
「うん?」
「もしかしなくても大師匠様ですよね? なんで子供の姿になってるんですか!?」
確信を持って問われた言葉にどう答えるべきか迷う。
彼女が口にした大師匠様というのは、俺とこの子の間にある繋がりを示唆する言葉だ。
あぁー……即ち、腕の中にいる少女は俺が大昔に剣を教えてやった奴の弟子……のそのまた弟子なのである。名前はアイリという。
「大師匠様? なんで黙っていらっしゃるんですか?」
「今、どうやって正体を誤魔化そうか考え中なの。ちょっと待っててね」
「はぁ……?」
さて、どう回避したものか……アイリは、俺の弟子の弟子の弟子よろしく剣気を扱えるだけに質が悪い。
剣気を扱えるようになると他人の"気"を色や形、或いは匂いとして捉えられるようになる。これは外見以外の要素で当人の特徴を認識できるという意味に他ならず――あぁ説明めんどい。つまり、剣気を扱える知人に出会ってしまったら、どう足掻いてももうだめぽってこと。だから質が悪いのだ。
見た目が幼児に変化しようとも、己の"気"だけは変えようがない。アイリも"気"を見たうえで、子供の外見に惑わされることなく、俺を師匠の師匠の師匠であると判断している。
……あれ? これって誤魔化そうも何も最初から詰んでね?
でも、素直に白状するのも憚られる。
仮に事情を正直に話したとして、彼女の口から『若返る方法がある』なんて世間に漏れたら、なんとも面倒な事になるのは目に見えてるし……。
もうどうにでもな~れ。
「うむ、その通り。俺は大師匠様ですよ。子供の姿になってるのは所謂大人の事情ってやつだね。気にしないよーに!」
「そ、そうですか……まぁ元凶が誰かは大体想像付くんでいいですけど。それより誤魔化すのではなかったんですか?」
「メンドーだし、もういいや」
自分を慕ってくれている曾孫弟子に堂々と隠し事する師匠ってのも恰好が付かないし。
「そんなことはさておき、少し見ない間にとても大きくなったね。弟子の弟子の弟子よ」
「この場合は大師匠様が小さくなり過ぎなんです」
「え?」
「どうしてそこで首を傾げるんですか!? 不思議そうな顔をしないでください!」
相も変わらずいいツッコミだ。俺のボケによく喰い付いてくれる。何年か見ない間に色々と良い具合に成長してるし、とてもよろしい。うんうん。
あっ、誓って変な意味で満足したワケじゃないよ?弟子の弟子の弟子が健やかに育ってくれて良かったと安堵しているだけだ。
「さて、この辺でいいか」
土煙が届かない場所まで離れたところで、アイリを降ろす。そこでようやく自分がお姫様抱っこされていた事実に気が付いたのか、少しだけ顔を赤らめていた。初々しい反応よのぅ。
体格差的に少々キツいものがあったけど、おかげで堪能できました。うへへへ。
顔には出さないけど、内心で笑みを浮かべる俺ってばなんというポーカーフェイス!
「ところで、アイリは1人? エルザは一緒じゃないのかい?」
「あ、はい。師匠とは『もうあたしから教えられることは何もないな、うん。よく成長した! 感動した! では私はここまでだ。達者でな。さらばだ!』ってオルクトスの街で別れました」
「うん、大体わかった」
エルザとはアイリの師匠である女剣士のことで、即ち俺の孫弟子にあたる存在である。巷では"雪花のエルザ"とか呼ばれている。由来は、どんなに熾烈な戦いでも、彼女の雪のような白い肌には返り血の一滴すら付着しないからだとか。まぁここらへんの情報はどうでもいい。
問題なのは、聞いた話の流れからして、どうやら一方的に弟子から行方をくらましたらしいということ。
どうにもカルセイデに来る前に別れたようだが、何のフォローも無しにアイリを孤独な旅路へ放るなんて……大師匠としてこれは少しお仕置きを考えるべきかもしれないな……。
エルザは怜悧な見た目とは裏腹にいい加減な性格をしていたから、あながち俺の推察も間違ってはいないと思う。
「はぁ……やれやれ……」
――宙を汚していた埃がようやく治まったところで、アイリと一緒にブレイズドラゴンの素材を剥ぎ取った。
稀少な竜種ということだけあって、鱗だろうが何だろうがとにかくいろんな部位が高値で売れる。その用途は様々で、代表的な例といえば、特殊な武器や防具及び錬金術で作る薬等の材料。少し勿体無いけど、貴重な効果を持つ装飾品やら調度品にも使える。
アイリは討伐証明部位である牙と翼部分の爪を鞄に詰め込むだけで済ませたらしい。彼女はブレイズドラゴンを討伐したのは俺なのだから、その報酬も俺が受け取るべきだと言っていたが、こんなチビッ子が竜種を討伐したなど酒場での笑い話にもならない。ここはギブアンドテイクということで、討伐報酬はアイリの物、素材は俺の物ということで納得してもらった。
ちなみに、竜の眉間に刺した名も知らぬ冒険者の剣は一先ずアイリに持たせてある。丸腰ってのもアレだし。
「大量大量っと! これならフィーアも喜んでくれるかな」
利用できる大きさの鱗は全て剥ぎ取り、そこに角、爪、翼の皮、舌、心臓などを詰め込んだ。舌と心臓は血生臭いので、別の袋に入れて隔離している。
「けど、本当にいいのかい? ブレイズドラゴンをあと一歩まで追い詰めたのはアイリだよ? 俺は横からトドメを掻っ攫っただけだ」
「いいんです。素材を貰ったところで、私には換金するしか使い道がありませんから。でも、大師匠様やセフィーア様なら誰よりも有効に活用できますし、何より大師匠様に助けてもらわなければ、今頃どうなっていたことか……そのお礼だと思ってください」
ぴっと背筋を伸ばし、「助けていただき、ありがとうございました」と深々頭を下げるアイリ。肩甲骨を少し過ぎたあたりまで伸ばされたもみあげがふわっと風に揺れる。
礼儀正しく素直な子である。
「そういうことなら、遠慮なく――アイリにはあとで昼食と一緒に俺特製チーズケーキを御馳走してあげよう」
「本当ですか!?」
嬉しそうに表情を綻ばせるアイリを見ると、つい俺も嬉しくなってしまう。……本当は事が済み次第、早々に昼寝するつもりだったけど、まぁ昼食を食べ終わってからでもいいだろう。
「大師匠様の手作り料理なんて久々! 楽しみです!」
「うんうん。期待していなさい」
弟子、弟子の弟子、そしてアイリ。彼女達はいずれも剣の修行の為に俺の家で寝食を共にしていた時期がある。勿論彼女達にえっちぃことはしていない。そんなことしたら嫁さんに問答無用で殺されてしまう。
閑話休題。
家事は俺の仕事だったので、必然的に弟子達の食事も俺が作ることになる。というワケで、俺は元の世界の記憶を最大限に活用し、愛情たっぷりのご飯を提供するのだが、それが弟子達に大層な人気を誇るワケだ。
どうして人気なのかと問われれば、理由は単純、この世界のご飯は基本的に味気ないものばかりだから。
味付けが塩のみの料理とか耐えられるワケねーだろクソが!
……詳しい説明は面倒なので省くが、まぁなんとなく想像はつくだろう。つまりはそういうことだ。
「ところで、あいつ……えと、猪突猛進気味な少年は無事ですか?」
「無事だよ。ピュルケー全部倒して寝ちゃった。……気になる?」
青春の香りがして、思わずにやっと笑みを浮かべてしまった。そんな俺に対し、アイリは頬を赤らめてそっぽを向く。
「――ッ!? べ、別に気になるとかそういうのじゃありませんっ。ただ、もし魔物に食べられちゃってたら、なんか後味悪いじゃないですか」
「別にそうなったところで、全部少年の自業自得なんだし、アイリが気にする必要もないんだけどね。まぁそんなに心配なら、あとで声でもかけてあげれば?」
「だから、別に心配とかそういうんじゃ……! うぅ……大師匠様のいじわる……」
「はいはい悪かったよ、ごめんごめん」
軽く涙目で睨んでくるアイリの頭を撫でてやる。背丈の差を縮めるために瓦礫を利用しているところがミソ。
……それはさておき、何気なく流れてくる風の匂いを調べてみた。
先程までとは打って変わり、風から人間の血の匂いが消えている。代わりに魔物の腐臭が濃くなっていることから、どうやら空挺騎士団と冒険者が押し返しているようだ。こちらでブレイズドラゴンという厄介な魔物を引き受けた賜物だろう。
ならば――
「あとはアイツを狩って終わりかな」
遥か上空から、こちらを観察するように飛んでいる一匹の竜。
また竜か……と思わなくもないけど、上で飛んでるのはそこらの竜種とは一線を画す存在であるからして、油断はできない。
あれに比べれば、ブレイズドラゴンなんて可愛い子犬のようなものだ。
「この気配は……!?」
遅れて、アイリも雲の上の存在に気付いたらしい。
もう少し早く気付いてほしいところだったんだけど……これはエルザの教育不足というかなんというか……。あいつめ、本当に最低限の剣気を教えただけでアイリを放り出しやがったな。師匠ならば、もう少し弟子を成長を見届けてから別れるべきだろうに。
あぁ、これはもうお仕置き決定だ。まともに面倒をみる気が無いなら、端から弟子なんてとるもんじゃない。今度会ったらどうしてくれようか……。
とりあえずは、上にいる鬱陶しい障害を排除してから考えることにしよう。
視界に映る影が徐々に大きさを増し、それに連れて風の勢いが強まっていく。
巨大な翼に煽られて、土埃がこれでもかと吹き荒れる。
砂に目を潰されないように瞼を細めながらも、眼前の高慢な輩からは目を離さない。
隣では、アイリが顔を腕で覆っていた。自分で死角を作るような真似には感心できないけど、この強風の前では仕方がないだろう。元の身体だったならば、アイリの前に出て壁になることもできたのに……この低身長では断念せざるを得ない。無念。
人一人など、苦もなく丸呑みできそうな程に大きな口にはずらりと鋭利な牙が並び、隙間から大気を揺るがす呼気を放出している。
煌竜エルドラシュ――名付きと呼ばれる金色の竜は、自らを絶対的強者として信じて疑わない傲慢な眼差しで、俺とアイリを睥睨した。爬虫類の眼球に人間と同じだけの知性が感じられるのが、他の雑魚とは一味違うところか。
尋常ではないその巨体は、優にブレイズドラゴンの2倍はあるかもしれない。そんな大質量が自由に空を飛ぶなどと、俄かには信じられない光景だ。あくまで、元の世界での常識からすれば、だけど。
『我が同胞を屠ったは汝らか』
鼓膜を揺るがす――ではなく、頭に直接響く声ともつかない声。これぞ骨伝導……とはまた違うか。なんとも曖昧な表現だが、俺の貧困なボキャブラリーでは陳腐な言い回ししかできない。すまぬ。
それとアイリさん?さり気無く俺の背中に隠れましたね?強大なドラゴン相手に幼児を盾にするなんてなんということでしょう!あぁんひどぅい。
名付きの迫力に気圧されて声も出せないでいるアイリの手を軽く握り、安心させてやる。
「そうだよ」
「軽っ!?」
アイリは何やら慌てふためいている。煌竜に対する態度を気にしているのだろうけど、俺が下手に出てやる理由はどこにもない。
『ほう……。我の覇気に中てられることもなく、不遜たる態度を崩さないか。汝、ただの童子ではないな』
不遜なのはどっちだよとツッコミたいところだけど、ここは敢えて無視。無駄な会話で時間を取られるのも癪だ。
「そんなことはどうでもいい。それよりも聞きたいことがある。何故、街を襲った? この街の人間は分を弁えている。竜の癇に障るような真似はしない」
『……何故だと?』
脳裏に響く声に明らかな怒気が混じる。
『それは貴様ら人間が我の子を奪ったからだ!』
「ひっ!?」
風船が破裂するように、凶悪な殺気が名付きから放たれる。ピシッと周囲の空気を断裂させる程の鋭利な殺意を前に、アイリは短く悲鳴を上げた。
「子竜を奪った? 街の人間が?」
まさか、そんなハズはない。竜の恐ろしさを皇国の誰よりも理解している彼らが、わざわざ自らの首を絞める真似をするなど、ありえない話だ。馬鹿げているといってもいい。
「何かの間違いだろ。この街の人間がそんなことするワケ――」
『間違いであるものか。攫われた際に剣でも向けられたのかは知らないが、我が子の流した血が点々と街まで続いていたのだぞ。そして、我が子の匂いは今もこの街から漂ってきている!』
「………………」
親を失った子竜ならば、欲の皮が突っ張った人間が狙う可能性も無くはないけど……でも、現実的ではない。
レジンブルグ山脈には確かに複数種の竜が多く住み着いているものの、竜達の住処は何れも山脈の奥深くにある。道中にも中級ランクの冒険者が寄り集まったところで二進も三進もいかないような、凶暴な魔物が無数に跳梁跋扈しているのだ。
もしも名付きが言うように、本当に人間が子竜を攫ったのだとしたら、いったいどれだけの兵や冒険者を動員したのだろう。少なくとも一個大隊規模では足りるまい。
それとも単身か? そんな命が幾つあっても足りないような山中を走破できる人間が、果たしてこの世界にどれだけいるだろうか。
あ、いや、待てよ……単身でも方法がないワケじゃないな。錬金術の調合アイテムで、姿消しと匂い消しを買い集めることができれば、やれないこともない。
でも、実際にそんなことをしていったい何のメリットが……?
金儲けにしたって、他に効率がいい方法なんてたくさんあるだろうし。いやまぁ、煌竜の子供なんて売ったら、それこそ想像もつかないような莫大な金が手に入るんだろうけど。
でも、いくらなんでも討伐されたワケでもない名付きの子竜を売ろうなんて大胆な輩が実際にいるとは思えないんだよなぁ。
報復を決意した竜の執念深さと恐ろしさは半端ではない。その事実を知らない人間がいるとは考えられないんだけど……。
『しかし、我が子の匂いを追おうにも、汝ら人間の悪臭が我の鼻を捻じ曲げるのだ』
思考の泥沼へ埋没していた意識が煌竜の咆哮によって引き戻される。
まぁ考えても仕方ない。今は猛るコイツをどうにかしないと。
「子竜はまだ生きてるのか?」
『生きている』
「どうして断言できる?」
『子が死ねば、親はそれを感知できる。もしも我が子が死んでいれば、我はとうにこの街を滅ぼしている』
竜の生態には詳しくないけど、嘘は言っていないようだ。何とも便利な能力だこと。
「んで、無事に子竜が戻ってきたとして、お前はこの街をどうする気だ?」
『決まっている。街に住む人間ごと我が息吹で全てを消し飛ばす。我から愛し子を奪った時点で、貴様らの死は避けられないものと知れ』
殺る気満々らしい。ここまで断言されてしまっては、もう平和的解決は望めないな――と言ってみたところで、まるで意味はない。
街を襲撃した時点で、煌竜は後には引けなくなっている。
皇国は今頃、カルセイデに派遣する為の軍隊を編成しているだろう。人々に多大な犠牲を強いた竜の首を何としても刎ねるべく、国の命運を懸けて煌竜討伐に臨むことは間違いない。
幾星霜の時を生きてきた……人間で言う云わば賢者ともいうべき名付きの竜が、人間と竜の関係を理解していないハズがない。端から覚悟のうえなのだ、コイツは。自分が勝つと信じて疑っていないようだけど。
『まずはこの街で一番厄介な人間である貴様らを始末する。子はその後でゆっくりと探すことにしよう』
周囲の瓦礫が鳴動する。激しい耳鳴りが頭蓋を揺らす。
風が収束する独特の高音――その出処は……煌竜エルドラシュの口元だ。
光の粒子を周囲に撒き散らしながら、膨大なエネルギーを体内へ溜め込んでいく。あんなものを吐き出されたら、この街の復興が絶望的になってしまう。
意志の疎通が可能だといっても、所詮、魔物は魔物か。互いの存在は決して相容れず、自らの価値観を理解し合うことも叶わない。
人間は竜を脅威として捉え、同時に尊き生命として敬っている。だが、竜が人間を認めることはなく――
『死ぬがいい、人間。愚かな"虫けら共"よ』
「デカい蜥蜴モドキが……調子に乗るな」
俺は刀を振った。