影を拾う女
【影を拾う女 第一部】
六月の雨が一晩中、市の北側にある丘陵地帯を叩きつけていた。朝になる頃には細雨だけが残り、舗装の甘い住宅地の道路には、大小不揃いの水たまりが連なっていた。
三科志保がその道を歩くのは、もう四年になる。小さな規模の市役所に勤め、総務課の会計係として日々の支出処理に追われながら、特に目立つこともなく過ごしてきた。三十二歳の独身である。住んでいるアパートから役所までは徒歩十五分。雨上がりの朝は、いつもその距離が少しだけ長く感じられた。
角を曲がって二つ目の電柱の下に差しかかった時、志保は足を止めた。地面に黒い筋が落ちていた。影、と言うには輪郭が歪んでいる。ちょうど夜明け前に街灯が投げる影のような、薄く伸びた黒ずみ。しかし周囲に影を落とすものは何もない。電柱は逆側に影を引き、民家の塀もここには日影を作らない。
志保は、しゃがみこんでその輪郭を見た。水を含んだアスファルトが部分的に乾いたのかとも思ったが、触れると指先にわずかに色が移った。薄墨のような、しかし絵の具を薄めたような感触ではない。どこか人工的な油分が混じっている。何かの液体が流れた跡だろうか。
その時、ふと脳裏に一つの名前がよぎった。井手川沙耶。半年前に失踪した女性である。志保とは同い年、学校の同級生だった時期もある。もっとも、親しく言葉を交わすほどではなかった。井手川は、この辺りの住宅地から少し離れたアパートで一人暮らしをしていたはずで、勤務先の職場にも突然現れなくなったあと、そのまま消息が途絶えた。
影のような黒い跡を、志保は見つめ続けた。井手川が失踪前、誰かにつけられていたという噂を、どこかの飲み会で聞いた覚えがある。証拠もなく、根拠も曖昧な話だった。ただ、本人が怯えていたという声だけが、断片的に残っていた。
役所に向かう時間が迫っていた。志保は立ち上がり、足を踏み出したが、ふと振り返る。黒い跡は、電柱の影に紛れて見えにくくなっていた。人の視線から逃れるようでもあった。
その日の総務課は、月初めの支出処理が重なって忙しく、志保はほとんど席を立てなかった。パソコンの画面を何度も見返しながら、領収日付の不一致に眉をひそめていると、斜め向かいの席の柴田が声をかけた。
「三科さん、昨日の生活福祉課の処理、ちょっと変な数字があるって聞いたけど、見た?」
「数字、ですか」
「生活保護の扶助費。出費の記録がひとつ抜けてるらしい。藤森さんから回ってきたら、確認してみてよ」
柴田は細身の中年男性で、志保に嫌味を言うような人間ではなかった。淡々とした調子だが、その裏にわずかな警戒心を滲ませることがある。今回もそうだった。
昼休み、志保は職員用の食堂で温めた弁当を食べながら、自分が見た黒い跡を思い返していた。なぜ井手川沙耶を連想したのか。単に薄暗い雨上がりの道が、半年前の噂を呼び覚ましただけかもしれない。しかし、井手川が失踪した時期、生活保護の申請で揉めていたと聞いたことがある。勤務先を辞め、収入が途絶え、しばらく市役所へ相談に通っていたという話だ。
志保の部署は生活保護の申請とは直接関わらない。ただ、以前、生活福祉課の職員が雑談の中で漏らした。井手川は「怪しい同居人と口論していた」とか、「裏で金を渡していた」という。志保は、その種の噂話を普段は信じないようにしているが、井手川の名が出ると、なぜか耳が反応してしまうのであった。
昼休みの終わり頃、生活福祉課の藤森が会計係に顔を出した。四十代半ばの女性で、背が高く、書類を持つ手はいつもせわしなく動いていた。
「三科さん、ごめん。さっきの件、見てもらえる?」
藤森が差し出した書類には、一人暮らしの高齢受給者の扶助費一覧が並んでいた。その中で一件、日付と金額が不自然にずれている。通常は月初に支給される費目が、先月末の臨時支給として処理されていた。
「この人、先月末に病院から退院したんだけど、臨時の生活扶助を出す話、私たちは聞いてなかったのよ。医療扶助の方の記録にもないし。不思議だと思って」
「臨時支給なら、別ルートの申請があったのかもしれませんね」
「そうなんだけど……署名が藤森じゃなくて、うちの新人の林になってるのよ。あの子、まだ臨時給付の担当じゃないのに」
藤森は口を固く結び、目にわずかな疑念を浮かべていた。林は二十二歳の新人で、まだ判断を任されるほど経験はない。仮に誰かに指示されたとしても、通常、この書類は上司の確認印が必要だ。
「井手川沙耶の件を覚えてる?」
唐突に藤森が言った。
「はい。少しだけ」
「あの人の申請書類にも、変な捺印の順番があったの。誰かが急がせた形跡があったわ。ここ最近、時々あるのよ。妙に急いだ支給が」
井手川の名が出たところで、志保の胸がざわついた。黒い跡の記憶が浮かび上がる。
「関係、ありますかね」
「分からない。ただ、あの人が失踪する数日前にも、一件臨時の支給があったと聞いたの。今になって思うと、どうも気になって」
志保は返す言葉を見つけられなかった。井手川が失踪する直前、何かに追われていたという噂。それを思い出さずにはいられない。
その日の帰宅途中、志保は再び同じ道を通った。朝見た黒い跡は、雨が乾いたせいか、薄くなっていた。しかし、よく目を凝らすと、うっすらと痕跡が残っている。人が引きずられた跡のようにも見えた。あるいは、液体が集まって細い流れを作っただけかもしれない。
夜風が冷たく、志保は肩をすくめた。胸の底に沈んでいる不安を、無理に押し込めようとした。半年前の井手川の失踪と、今日目にした不自然な支給記録。それらが一つの線でつながっていくような感覚があった。
ふと携帯が震えた。知らない番号だった。志保は数秒ためらい、通話ボタンを押した。
「三科さん、ですか」
落ち着いた、しかしどこか急いている男の声だった。
「生活福祉課の林です。あの、臨時支給の件で、お話したいことがあって……」
志保は足を止めた。路地の奥から吹いてくる風が、黒い跡をなぞるように揺らした。
「今日、少しお時間いただけませんか。できれば、人目のないところで」
通話はそこで切れた。志保はしばらく携帯を見つめ、自分の喉が乾いていくのを感じた。
林は、いったい何を知っているのか。そして、なぜ自分に話すのか。
志保は暗くなり始めた道に目を凝らし、足を進めた。黒い跡の端が、闇に吸い込まれるように薄れていた。それはまるで、誰かが隠したい過去が、いま静かに浮かび上がりはじめたかのようだった。
【第一部 了】
【影を拾う女 第二部】
林と会う約束をした場所は、市役所から南へ十分ほど歩いたところにある、河川敷沿いの小さな公園だった。平日の夕方は人が少なく、暗くなるにつれて街灯の数より影の方が多くなる。志保は公園入り口のベンチに腰を下ろし、周囲を見渡した。
しばらくすると、足音が砂を踏む音とともに近づいてきた。林が姿を現した。薄いグレーのパーカーを羽織り、目の下には疲れの色が濃かった。
「急にすみません」
「いえ。何か気になることがあるんですか」
「あります。ずっと、誰にも言えなかったことが」
林は周囲を気にしながら、ベンチから少し距離を置いて立った。志保より十歳近く若いが、その表情には、年齢とは不釣り合いな怯えが見え隠れしていた。
「臨時支給の件、ですよね」
「はい。でも、あれは僕がやったことじゃないんです」
その言葉を志保はすぐに理解できなかった。
林は続ける。
「僕の名前で捺印されていましたよね。けれど、僕はあの書類に触っていないんです。見たのは昨日が初めてでした」
「じゃあ、誰が」
「分かりません。ただ……」
林は声を潜めた。
「井手川さんの時も、同じことがあったんです」
志保の背筋が強張った。生活保護の臨時資金が、誰かによって意図的に素早く処理されている。それが井手川の失踪直前にもあったという話は藤森から聞いていた。だが、林の口からそれが繰り返されたと知り、事態の輪郭が一段深まった気がした。
「どうして私に話そうと思ったんですか」
「三科さんが、朝の道で何か見たって聞いたんです」
志保は息を呑んだ。
「誰から」
「今日、総務課の柴田さんが藤森さんと話しているのを、たまたま聞いたんです。井手川さんの名前が出て、三科さんが何か思い出したみたいだって」
志保は喉の奥に重いものが落ちるのを感じた。自分が誰ともなく漏らしたつもりの言葉が、役所の中ではすぐに伝わってしまう。小さな市役所の内部事情は、狭い家屋に住む家族のようなものだ。
「林さんは、何を怖がっているんですか」
問いかけると、林は肩を震わせた。公園の街灯が彼の横顔に斜めの影を落とした。
「井手川さんのアパート、覚えてますか。市営の、少し古いところ」
「ええ。場所は知っています」
「僕、あの人の失踪前、何度か訪ねました。生活保護の追加書類を届けるためです。でも、ある日、ドアを叩いても誰も出てこなくて、奥から何か引きずる音がしたんです」
引きずる音。朝の道に残っていた、あの黒い筋が脳裏に浮かんだ。
「その日以来、あのアパートには行っていません。誰に言っても信じてもらえなかったから。でも、臨時支給の話が続けて出てくると、本当に何かあるんじゃないかと思って……」
林の声は震えていた。志保は、彼がただの臆病ではなく、現実に向き合う中で疲弊していることを理解した。
「警察に行きましたか」
「行っていません。行っても、証拠がないと言われるだけです。僕が捺印したと書類に残れば、逆に疑われます」
志保は腕を組み、視線を遠くの河川敷に向けた。薄闇の中に、風で草が倒れる音がした。
「三科さん。あなたも気づいていますよね。あの臨時支給、誰かが意図的に動かしているって」
その問いに、志保は即答できなかった。だが、胸のどこかで、見てはいけないものが少しずつ輪郭を帯び始めている感覚が確かにあった。
「あなたは、何を知っているんですか」
林はしばらく沈黙し、それから絞り出すように言った。
「藤森さんが、最近『見られている気がする』って言っていました」
「見られている?」
「はい。役所の敷地内で。誰だか分からないけれど、決裁印を預けていた机の引き出しが勝手に開いていたとか、印鑑ケースの向きが変わっていたとか……些細なことばかりなんです。でも、積み重なると、誰かが内部を探っているように思えて」
公園の時計台が六時半を指していた。薄くなりゆく夕暮れが、川面に揺れていた。
「臨時支給を指示しているのが、内部の誰かだとしたら?」
林の問いは、志保が心の奥で避け続けてきた可能性に触れていた。
「三科さん。僕、もう役所に行くのが怖いんです。何かあったら、どうか……」
林の言葉が途切れた。急に、林の視線の先に動く影があったのだ。
公園入り口の街灯の下に、誰かが立っていた。背の高い男の輪郭だけが浮かび上がる。距離は五十メートルほどだが、こちらの様子を窺うには十分近い。
「林さん、知り合いですか」
「いえ……」
その男はしばらく二人を見つめていたが、志保が目を向けた瞬間、踵を返すようにして暗がりに消えた。足音は砂利の上を軽く滑るようで、やがて完全に消えた。
「帰りましょう」
志保は林に声をかけた。彼の震えは止まらなかった。
二人は公園を出て別の道へ向かった。途中、志保はもう一度後ろを振り返ったが、そこに影はなかった。ただ、風が吹くたび、街路樹の葉がざわめき、一瞬、生き物のように見えた。
自宅に戻ると、志保は靴を脱ぐ前に携帯を確認した。着信はなく、メッセージも来ていない。部屋の電気をつけた時、背後の窓ガラスが揺れた。外を走る車の振動だと分かっていても、志保は心を落ち着けられなかった。
その夜は眠れなかった。布団に入っても、井手川の名と、黒い影の跡が繰り返し浮かんだ。林の言葉が胸の中で反響していた。
臨時支給の謎。井手川の失踪。役所内部で起こる不可解な動き。そして、公園でこちらを見ていた男。
それらが、ひとつの線で繋がり始めていた。
【第二部了】
【影を拾う女 第三部】
翌朝、志保は少し早めに家を出た。林と別れたあと、公園に立っていた男の姿が頭から離れず、いつもと同じ道を歩く気になれなかった。遠回りして役所まで向かう途中、朝日が差し始めた住宅街はどこかよそよそしい。道端に置かれたゴミ袋さえ、監視されているように見える。
市役所に着くと、総務課の空気がいつもより重かった。柴田が朝から電話対応に追われており、藤森の姿は見えなかった。志保が席に着くと、柴田が眉を寄せて近づいてきた。
「三科さん。林君が、今日は欠勤らしい」
「えっ」
「急な発熱だとかで。連絡は本人から直接来たわけじゃないみたいで、家族からの電話だったそうだ」
志保は言葉を失った。昨日の林の怯えた表情がよみがえる。誰かに見られていると口にした直後だった。
「藤森さんは」
「生活福祉課の会議に出てるよ。午前中は戻らないんじゃないかな」
柴田はそれだけ言って、自席に戻った。志保はデスクの上の書類を前にしたが、指先に力が入らなかった。
午前十時を回った頃、生活福祉課から一本の内線が入った。藤森からだった。
「三科さん。ちょっと、来られる?」
声はいつもより低い。志保は胸の奥に嫌なざわめきを感じながら、生活福祉課のフロアへ向かった。
課の奥の会議室に入ると、藤森が机に広げられた書類を前にしていた。窓から差し込む弱い光の中で、その表情は硬くこわばっていた。
「昨日の臨時支給の件、もう一度見直していたの。そしたら、別の支給記録でも同じように、林の名前で処理されたものがあった」
「別の記録……ですか」
「ええ。先月の分。そして、その受給者の住所、井手川さんのアパートの隣の部屋よ」
志保は息を呑んだ。井手川の失踪した部屋の、隣の住人。その人物が臨時の給付を受けている。そして、その処理にも林の名前が使われている。
「怪しいと思わない?」
「誰がそんなことを」
藤森は机の上の書類を指で押さえた。
「この臨時支給、実際にお金を受け取った形跡がないのよ。口座振込なんだけど、直後に全額引き出されている。しかも、同じ金融機関、同じ支店」
「つまり……誰かが受給者を装って、金を引き出している?」
「言い切れないけど、その可能性は高いわ」
役所内部で、臨時給付を装い、不正に金を動かしている者がいる。しかも、それが井手川の失踪と時間軸で重なる。志保は、自分の胸が速く脈打つのを感じた。
「藤森さん。あなたは誰がやっていると思っているんですか」
藤森はしばらく言葉を飲み込み、それから低い声で言った。
「最近、生活福祉課に出入りしている職員がいるわよね。別部署の人で、印鑑管理の理由をつけて」
志保の脳裏に、一人の人物が浮かんだ。総務課の補佐係である木沢。穏やかで社交的、役所内での信用も厚い中堅職員。だが、臨時支給の書類が紛れ込む時期と、木沢が生活福祉課に出入りする時期が妙に重なっていると、以前柴田が雑談で漏らしていた。
「木沢さん、ですか」
「確証はない。でも、あの人は印鑑の扱いに異常に細かいでしょう。最近はうちの課に来て『他の部署でも確認してほしい』なんて妙な理由をつけて机を覗くことがあったの」
志保は、昨日の公園で見た男の影が頭をよぎった。背の高さも、立ち姿も似ている気がした。しかし、確信は持てなかった。
「あの人、以前から臨時支給の仕組みに詳しかったのよ。新人の林が持つはずのない情報まで、なぜか知っていた」
そこまで聞いて、志保は胃の奥が冷えていくのを感じた。木沢は、総務課でも会計や印鑑管理に関わる立場にある。生活福祉課の臨時給付の仕組みも、研修で触れたことはあるだろう。だが、ただ詳しいというだけなら、それ以上でも以下でもない。それなのに、彼が生活福祉課へ頻繁に足を運ぶ理由が説明できなかった。
「もう一つ、妙なことがあるの」
藤森は椅子にもたれ、ため息をついた。
「林君、昨日の夕方から連絡がつかないらしいのよ」
「えっ」
「今朝欠勤の連絡をしてきた家族も、彼と直接話していないって。電話に出ないからと言っていたわ」
志保の胸に重く沈む感覚が広がった。林は昨日、公園で誰かの視線を恐れていた。その直後に姿を消したような形になっている。
「三科さん。あなたが見た影、どんな形だったの」
突然の問いに、志保は戸惑った。藤森の目は真剣だった。
「影というより……黒い筋でした。液体の跡のような……引きずったようにも見えて」
「井手川さんが失踪した当日、近所の人が『夜中に変な音がした』と言っていたのを覚えている?」
「知りませんでした」
「引きずるような音だって。何かが運ばれるような」
志保の背筋がこわばった。朝の黒い跡と、見知らぬ影の男。そして、井手川の失踪が重なる。
「これ以上、私たちだけで調べるのは危険よ」
藤森の声は低かった。
「でも、警察に行くにも証拠がない。だから、せめて情報だけでも集めておきましょう。何かあった時のために」
志保はうなずいた。その顔には恐れと決意が入り混じっていた。
その日の帰宅は、夕方の雨が上がった後だった。街灯の下に落ちる影が、雨粒を反射して揺れている。志保は足早に家に向かったが、ふと背後に気配を感じて振り返った。
住宅地の角、薄暗い電柱の隙間に、誰かが立っていた。昨日の公園で見た男と同じ背丈だった。
志保が目を凝らした瞬間、その影はゆっくりと後ろへ下がり、闇に溶けるように姿を消した。
胸の奥が冷えたまま、志保は家へと急いだ。背後の暗がりが、どこかで自分を見張っているような気がしてならなかった。
【第三部了】
【影を拾う女 第四部】
翌朝、志保は出勤前に郵便受けを確認した。新聞とチラシの間に、一枚だけ折りたたまれた白い紙が挟まっていた。印刷ではなく、手書きの文字だった。
気をつけろ
見られている
それだけだった。差出人も書かれていない。震えのある筆跡は、誰かが急いで書いたもののように見えた。志保はすぐに扉を閉め、鍵をかけた。胸の鼓動が落ち着かず、足元から冷気が這い上がってくるようだった。
市役所へ向かう道は、昨日より空が曇っていた。街路樹の影が濃く、朝の光を遮っている。志保はバッグの中の紙片を思い返しながら、同じ道を歩くことをためらったが、遠回りすれば遅刻してしまう。
例の黒い跡があった場所へ差し掛かったとき、跡はもう完全に消えていた。上から砂利が薄く撒かれたようで、表面に不自然な明るさがあった。誰かが意図的に隠したかのようだった。
総務課に着くと、室内は静まり返っていた。柴田の席は空いており、木沢がいつになく早く来ていた。彼はパソコンに向かい、書類を確認しているふりをしているが、時折こちらを盗み見るような仕草があった。
「おはようございます」
志保が声をかけると、木沢は穏やかに微笑んだ。
「おはよう。今日は早いね」
「ええ、少し」
「昨日は帰り、遅かったのかな。見かけた気がしてね」
何気ない一言のように聞こえた。しかし、志保はその言葉の裏に、何かを探る意図を感じた。公園で自分たちを見ていたのが彼だとするなら、その視線は監視にも等しい。
「そうですか。気づきませんでした」
「市内は夜道が暗いから、気をつけないとね。特に最近、物騒な話を聞くから」
木沢はそれ以上何も言わなかったが、志保は椅子に座ると、背中に汗が滲むのを感じた。職場にすら安全はないのかという思いが胸に広がっていった。
午前十時を過ぎた頃、藤森から再び連絡があった。
「三科さん、生活福祉課に来てもらえる?」
志保は席を立ち、木沢の視線を感じながらフロアを後にした。生活福祉課に着くと、藤森が落ち着かない様子で窓際を行き来していた。
「林君のこと、知ってる?」
「欠勤だと聞きましたけど」
「それだけじゃないの。昨夜、家族が警察に相談したらしいわ。彼、まだ帰っていないって」
志保は息を呑んだ。嫌な予感が現実味を帯びていく。
「昨日、あんな話をしたあとで……」
「ええ。だからこそ、急に姿を消すなんておかしいのよ」
藤森は机の引き出しから一枚のメモを取り出した。
「これ、林君のロッカーから見つかったらしいの」
紙には、乱れた文字でこう記されていた。
印鑑
机の下
動かされている
「これが何を意味するか分かる?」
「印鑑を……誰かが勝手に使っていた?」
「そう。決裁印はどの部署でも厳重に管理されているのに、机の下にずらされていたっていうのよ。林君が気づいたのか、それとも誰かに見せるつもりだったのかは分からない。でも、これが残されていたということは……」
藤森は言い淀んだ。志保は胸の奥に重い石を抱えるような感覚を覚えた。これらの断片が示すものは一つしかなかった。
臨時支給を偽装し、金を動かしている者がいる。しかも内部の人間である可能性が高い。そしてその人物は、印鑑の扱いに関わる木沢と重なり始めている。
「もう一つ気になることがあるの」
藤森が窓の外を見ながら言った。
「井手川さんの失踪前、彼女が持っていた申請書類の控えが、職場から消えたことがあったの。本人は『紛れたのかも』って言っていたけど、あれも何かの伏線だったのかもしれない」
志保は思わず手を握り締めた。井手川の失踪、林の不自然な欠勤、そして臨時支給の謎。すべてが、見えない糸でつながっている。
「実はね、三科さん」
藤森は志保の目をまっすぐ見た。
「井手川さん、失踪前にあなたの名前を職員に出していたらしいの」
「私の……名前?」
「生活相談の時、『三科さんにだけは知られたくない』と言っていたと」
志保の視界が揺れた。井手川とは深い関わりがあったわけではない。だが、学生時代にある出来事があった。それは志保にとっても、触れられたくない過去の一つだった。
「何を……彼女は何を言おうとしたんですか」
「そこまではわからない。でも、あなたの名前が出た以上、もう無関係ではいられないわ」
窓の外の曇天が、より暗さを増していた。影が影を呼び寄せるように、志保の足元にも冷たい気配が広がっていく。
「三科さん。今日、帰り道には気をつけて。林君の件があるし、私たちが動いていることを知られたら……」
志保はうなずいたが、胸の奥のざわめきは消えなかった。井手川がなぜ自分の名前を口にしたのか。それは、過去のある出来事に関係しているとしか思えなかった。
役所を出て夕方の道を歩く頃、志保は再びあの視線を感じた。住宅街の角、暗がりの向こうに人影があった。立ち止まると、その影は前よりもわずかに近くに見える。
足を速め、曲がり角をいくつか越えたが、背後の気配は途切れなかった。自宅の前まで来てようやく、影は消えた。
志保は扉を閉め、鍵をかけ、背中を預けるようにしゃがみ込んだ。心臓の鼓動が速く、汗がにじんでいた。
見られている。あの紙片の文字が脳裏にはっきりと浮かぶ。
だが、誰が。何の目的で。そして、井手川はなぜ自分の名前を出したのか。
答えのない問いだけが、暗闇の中でひたひたと広がっていった。
【第四部了】
【影を拾う女 第五部】
志保は眠れぬ夜を過ごした。雨戸を閉め、灯りを落としても、部屋の隅で何かが動くような気配がまとわりついた。目を閉じれば、井手川の声が蘇る。三科さんにだけは知られたくない。その言葉の意図が分からず、胸の奥が冷たく凝り固まる。
翌朝、志保は窓の外を何度も確認してから家を出た。空は薄曇りで、湿った空気が漂っていた。通勤路の電柱を過ぎると、道端に新しい細い線が見えた。砂利の薄皮をめくるように、地面に細長い筋が走っている。明らかに、誰かが何かを引きずった跡だった。
胸がざわつき、志保は足早に役所へ向かった。総務課に入ると、木沢がちょうど資料棚を整理しているところだった。彼は振り返って笑みを浮かべた。
「おはよう。今日は少し早いね」
「ええ……」
志保は挨拶を返しながら、木沢の目の奥を見た。どこか掴みどころのない笑み。それが、昨日までより濃く貼りついているように見えた。
午前九時半、生活福祉課から藤森が総務課に入ってきた。顔色が悪く、息を整えながら志保に目を向けた。
「三科さん、ちょっと来て」
その声の調子で、ただならぬことがあったと分かった。
生活福祉課の会議室に入ると、机の上に一つの黒いUSBメモリが置かれていた。
「これ、林君の机の中から見つかったの。昨日の夕方に片付けをした時にはなかったのよ。今朝、棚の隙間から落ちてきたらしいわ」
「林さんの……」
「中身を確認したら、臨時給付記録のコピーがいくつも入っていた。それも全部、処理担当が彼の名前になっているもの」
志保は目を見開いた。林が不正の証拠を集めていたということなのか。
「でも、一番問題なのはこっち」
藤森はプリントアウトした紙を差し出した。そこには、井手川沙耶の臨時支給記録。その備考欄には、本来なら書かれるはずのないメモが残されていた。
申請者より追加説明あり。危険を感じるとの申し出。
「これ……」
「このメモ書き、日付が失踪の二日前。担当印は……見て」
志保の視線は、捺印欄へと移った。そこには、木沢の印鑑が押されていた。
「木沢さんが……」
「断定はできない。でも、木沢さんはこの頃、生活福祉課に頻繁に顔を出していたわ。『印鑑管理の関係で確認が必要だ』と言って。誰も不自然とは思わなかったのよ」
志保は口元を押さえた。過去数日の出来事が一気に線を引くようにつながっていく。
「もっと決定的なのがある」
藤森はもう一枚のプリントを差し出した。そこには、ある受給者の口座取引履歴が記載されていた。
臨時給付後、十五分で全額引き出し。
引き出し場所、同一支店。
引き出しに使用されたICカードは、受給者本人のものとは別番号。
「本人のカードじゃないの。つまり、他人名義の臨時給付を偽装し、そのカードで引き出していた可能性が高いわ」
「誰が……そんなことを……」
「それを調べようとしていたのが、林君なんじゃないかと私は思っている」
志保は力が抜けたように椅子の背にもたれた。林が怯えていた理由。井手川が失踪前に残した不安。公園で見た影。そして木沢の動き。
「三科さん。もう一つ、あなたに話しておかなければならないことがあるの」
藤森は声を低くした。
「井手川さん、失踪前にここへ来た時、『三科さんが危ない』と漏らしていたらしいの」
「危ない……?」
「ええ。詳細までは言わなかった。でも、あなたがある人物について何か知っていると思っていたみたい」
頭が混乱し、志保は言葉を失った。井手川が何を知り、何を恐れていたのか。自分がなぜ巻き込まれているのか。理解できないまま、胸の奥だけがざわついた。
しばらくして会議室を出ようとした時、廊下の先に木沢が立っていた。腕を組み、壁にもたれ、こちらを見つめている。藤森が志保の前に立つと、木沢は薄く笑った。
「臨時支給の件で何か調べているようだね」
「課の業務です。問題が?」
「いや、別に。ただ、不正があったなら大ごとだ。気をつけて調べないとね」
木沢はそれだけ言うと、ゆっくり去っていった。足音が遠ざかっていっても、志保の全身から緊張が抜けることはなかった。
昼休み、志保はロッカー室の隅で深呼吸をした。窓の外で風が吹き、木々がざわめく。その音に混じって、誰かが廊下を歩く気配があった。
ドアがわずかに開き、紙片が差し込まれた。志保は急いで拾い上げた。そこにはまた手書きで、短く記されていた。
あの人を信じるな
誰のことを指しているのか分からなかった。しかし、この言葉が木沢を示していると、志保の直感は告げていた。
仕事を終えて帰り道につく頃、空は早い夕暮れに沈んでいった。街灯が灯り始めると、足元に落ちる影が濃くなる。志保は息を潜めながら歩いた。
角を曲がった先、電柱の下に黒いものが落ちていた。近づくと、薄いゴム片のようなものが散乱している。握り潰された手袋の破片だった。表面には、泥と何か黒い液体が付着していた。
志保は震える手でそれを拾い、周囲を見渡した。誰かが、ついさっきまでここにいた。立ち去ったばかりの気配が、空気の中に濃く残っていた。
そのとき、背後の暗がりから、かすかな足音が近づいた。
振り返ると、人影がこちらに向かってゆっくり歩いてきた。街灯に照らされる前、その輪郭は昨日と同じ高さをしていた。
「三科さん」
その声は、落ち着いた男の声だった。木沢だった。
「こんなところで何をしているのかな」
志保の手から手袋の破片が滑り落ちた。背骨に冷たいものが走る。
「帰り道は暗い。気をつけた方がいいよ。特に……最近はいろいろとね」
木沢は薄く笑った。
「不安なら、送っていこうか」
その言葉は優しく聞こえるはずだった。だが志保には、逃げ場を断つ縄のように感じられた。
志保は一歩後ずさり、呼吸が乱れた。
電柱の上で、街灯が一度瞬き、あたりの影が揺れ動いた。
その揺れの中で、志保ははっきりと悟った。
自分がずっと拾い続けてきた影は、井手川のものではない。
最初から、別の誰かが落としていった軌跡だったのだ。
【第五部了】
【影を拾う女 第六部 最終部】
志保は木沢の笑みを正面から受け止めることができず、少しずつ距離を取った。夕暮れの路地は狭く、両側の住宅の壁が音を吸い取って、わずかな足音さえくぐもって聞こえた。
「歩きましょう。暗いところは危ないから」
木沢の声は落ち着いていた。それが逆に、志保の警戒心を鋭くした。彼の声には、表面上の親切と矛盾する硬さがあった。人を気遣う者の声ではない。状況を支配しようとする者の声だった。
志保はできるだけ自然に振る舞いながら、道の中央を歩いた。木沢は少し後ろを歩き、その距離は常に一定だった。
「三科さん。最近、いろいろ気になることを聞いているようだね」
その一言で、志保は足を止めた。
「何の話ですか」
「知らないふりをしなくてもいい。藤森さんから聞いたよ。臨時給付の記録のこと、林君の机から出てきた資料のこと」
志保の胸の内に、怒りとも恐怖ともつかぬ色が混ざった。
「林君は、少し早まっただけなんだ。若いと、判断を誤ることがある。自分だけが真実を握っていると錯覚してしまう」
まるで、事が既に終わったかのような口ぶりだった。
「あなた……林さんに何をしたんですか」
「何もしていないよ。彼は彼の意志で動いた。それだけだ。だが、危ない橋を渡ったのは確かだね」
木沢は、ゆっくりと近づいてきた。
「井手川さんの時も、そうだった。あの人は少し、余計なことを知りすぎた」
その語り口は淡々としていたが、そこに罪悪感の影はなかった。
「臨時給付の記録、申請者のカード、口座の動き……どれも少し仕組みを知れば、簡単に操作できる。役所とはそういうところだよ。誰も書類の隅々まで確認しない」
志保は息を呑んだ。
「じゃあ、あなたが」
「証拠はないよ。いや、証拠を残さないのが仕事と言ってもいいかもしれない」
その言葉の直後、遠くで犬が吠えた。影が揺れ、志保の足元に伸びた。
「三科さん。あなたは賢い人だ。だからこそ、余計なことはしない方がいい。見てはいけないものを見ない。それが一番だ」
まるで警告のように聞こえた。志保は後退しながら、口を開いた。
「なぜ、井手川さんは……私の名前を出したんですか」
木沢は立ち止まり、わずかに目を細めた。
「あなたのことを、知っていたからだよ。学生時代のこと。あの小さな噂話。彼女は気にしていたんだ。自分が、あなたに何か弱みを握られているんじゃないかと」
志保の胸が締めつけられた。確かに、井手川と関わった過去はあった。些細な揉め事で、志保の何気ない一言が悪い形で広まり、井手川は一時的に孤立した。それは高校時代の幼い出来事に過ぎなかったが、井手川にとっては忘れられないものだったのかもしれない。
「でも、本当に怖がっていたのはあなたではなく、自分が抱えていた別の問題だ。生活保護の追加申請に絡む金の動き。誰かに責められると思い込んでいた。そういう人間は、よく周りが見えなくなる」
木沢は歩み寄り、志保の肩に手を置こうとした。
志保は反射的に避けた。
「あなたがしたのは、不正だけじゃない。人を追い詰めたんです」
「追い詰めた? 違うね。彼らは自分で追い詰められたんだ。本気で戦える強さがあれば、生き延びられたはずだよ」
その瞬間、背後で別の足音がした。低く、重い響きだった。
振り返ると、そこには藤森が立っていた。息を切らし、手に握ったスマートフォンの光が震えていた。
「木沢さん。もうやめなさい」
木沢の表情が変わった。笑みが完全に消え、冷たい光だけが残った。
「藤森さん。あなたこそ、余計なことを」
「警察に連絡したわ。臨時給付の記録、林君のメモ、すべて報告した。もう逃げられない」
木沢は一歩も動かず、ただ静かに志保に視線を戻した。
「こうなると、誰が何を信じるかだね」
その声は、あくまで平坦だった。だが次の瞬間、彼は踵を返して住宅街の奥へと走り出した。藤森がすぐに後を追おうとしたが、志保が引き止めた。
「危険です。警察が来るまで待ちましょう」
その判断が正しかったと証明されたのは、数分後だった。青いパトライトの光が住宅街の影を切り裂き、その先で複数の警官が木沢を取り押さえた。
抵抗はほとんどなかったという。むしろ彼は、連行される間、わずかに微笑んでいたと後に聞いた。
事件の全容が明らかになるまで数日かかった。臨時給付を偽装し、受給者になりすまして資金を抜き取る手口。井手川がそれに気づき、相談したこと。それが彼女の失踪につながったこと。林もまた、不正を示す資料を収集したために脅され、姿を隠す形となったこと。彼は数日後、別県の親戚の家で無事に保護された。
役所内では緊張が続き、関係部署は再発防止と調査に追われた。志保は数日休暇を取り、家で静かに過ごした。
ある日の夕方、久しぶりに通勤路を歩いた。電柱の下に落ちていた黒い筋は、もうどこにも残っていなかった。砂利も整えられ、舗装のひびも補修されていた。
ただ、志保には分かった。あの黒い跡は、井手川の影でも、林の恐怖でもない。
自分が見落としてきた小さなほころび。社会の隙間に潜んでいた、誰かの欲望と弱さの結晶だった。
影は拾い上げなければ、ただ道に溶けて消える。
だが、それが誰のものなのか、どこから流れてきたのか。
本当の姿を知る者は少ない。
志保は立ち止まり、深く息を吸った。夕暮れの風が頬をかすめ、どこか遠くで鳥の声がした。
影はもうない。だが、影を拾った日から、自分の目の前に広がる世界の色は、確かに変わっていた。
【影を拾う女 完】




