毒牙
「セーシェ様、ごきげんよう。」
セーシェが教室を出るすれ違いざまに、女生徒二人に声をかけられた。その声にセーシェは表情ひとつ変えずに目線で二人の姿だけを見送った。
セーシェは一人ぼっちになった。もちろん、セーシェの周りにはいつも人が絶えなかったが、セーシェが友人と呼べる人物は一人もいなかった。
だが、そんなセーシェにも頼れる人物はいた。それは父であるバロンバルグ卿、そしてその弟のリスター、そしてその息子のレヴナスであった。
レヴナスはセーシェにとっても愛らしい従兄弟であった。彼はセーシェのことをまるで姉のように扱ってくれる。今は3歳だが、その聡明さには目を見張るものがあった。
アルベンブルグは全寮制の学校である。そのため、セーシェはバロンバルグ家に帰るのは間の長期休みのみで、それ以外は文通でのやりとりをしていた。
「セーシェよ、良き友人は出来ただろうか。学業は怠ってはいないだろうか——。」
(…お父様はどうして、私一人に対してこんなに文章が書けるの?)
達筆に書かれた5000超にものぼる字数の手紙が寮に届いた時は戦慄した。バロンバルグ卿は子宝に恵まれず、唯一の娘であるセーシェを溺愛していた。
セーシェもその事に理解を示し、家督を継げというのは嫌々ながらも仕方がないことだと思い始めていた。
セーシェの叔父であるリスターは持病のため、バロンバルグの当主としては不適格であるというのも、セーシェが家督を継がなくてはならない裏付けであった。
(だからこそ、父がその座を降りるまでは好き勝手自由に生きてやろう。父もまだ四十歳だし、時間はたっぷりとある。弟ができれば家督を譲ることもできる。)
これから先には自由があるはずだ。セーシェは気楽に、そう考えていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「セーシェ…様…っ!」
勇気を振り絞り、シャンドラがセーシェに声をかける。だが、セーシェは鋭い目つきでシャンドラを軽く睨みつけた後、金の髪を靡かせて避けるような態度をとった。
その様子を見ていたレイラの取り巻きは不可解だ、という面持ちでセーシェとシャンドラのやりとりを見ていた。
「あの二人、以前は大変仲睦まじく過ごしておりましたのに…どうしてしまったのでしょう。」
「やはり、貴族の揉め事というのは一枚岩では無いのかもしれませんわね…。」
取り巻き達が口々に不安がる言葉を吐きながら怪訝そうにする様子を見て、レイラはニヤつく口元を誤魔化しながら同調した。
「本当に…何があったのかしらね?」
セーシェとシャンドラの不仲説は学内を駆け巡る噂となった。それどころか、バロンバルグ卿の耳にすらこの話は届いていた。
「先日ネブローン家の現当主から、娘が粗相をしてしまったようで大変申し訳ございませんとの旨の手紙が届いた——。」
(シャンドラが私とのあの一件を、彼女の父親に教えたのだろうな。)
セーシェは憂鬱な気分だった。シャンドラとは既に一月も会話していない冷め切った仲だった。というより、こちらから一方的に取り下げたようなものだが。
セーシェとしても、これ以上悩みの種を増やしたくもなかった。平穏な学生生活を送りたい、ただその一心だった。
「セ、セーシェ様…。あ、あの…ッ!私ッ!」
どもり怯えるシャンドラの消えるような言葉を遮るように、セーシェは顔を顰めて話し始めた。
「シャンドラ…あなたの父上が私の父に手紙を送ってきたそうよ。」
「は、はい…。何か私に不備があったのかと…。」
「そんなの、どうでもいいの。」
セーシェの突き話すような言葉ぶりに、シャンドラはぽかんと口を開けたまま固まった。
「私の口からちゃんと言えてなかったわね。あなたと私、縁を切りましょう。」
シャンドラは黙然として、目から溢れそうなほどの大粒の涙を抱えながら、もたつく足で逃げるようにその場を後にした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シャンドラと絶縁した後も、セーシェの心が晴れやかになることはなかった。かえって以前よりも澱んでいるように感じた。
多くの生徒で賑わう食堂で、セーシェは一人黙々と食事していた。時折、何かを思案してその手が止まる。
遠くにシャンドラが食事を運んでいる様子が見える。特に意識しているわけではないはずのに、彼女が目に付くことが、セーシェは嫌で仕方なかった。
「ガシャン!」
レイラがシャンドラとぶつかり、シャンドラはバランスを崩した。トレイが斜めになり、トウモロコシのスープのお椀がひっくり返ってこぼれた。
レイラはわざとらしくもたつく動作をした後、トレイをテーブルの上に置いて、ポケットから取り出したハンカチでこぼれたスープを拭き始めた。
「ごめんなさい、シャンドラさん。よかったら、私のをどうぞ。」
優しく微笑みながら自分のスープを手渡すレイラに、シャンドラは小さく会釈してそれを受け取った。
セーシェのその様子を遠目で見ていた。
(レイナ…今わざとぶつかりにいったような…。シャンドラに近づいて何をするつもり?)
だが、我に返ったように首を振る。余計な情を断ち切るかのようにゆっくりと息を吐く。
(私にはもう…関係ないわ。)
とうに温くなったトウモロコシのスープを飲み干しながら、セーシェは思った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
食後には水の初級魔法の授業があった。皆が苦戦する中、当然の如く水の魔法が得意分野であるセーシェは先生の拍手を自分だけのものにした。
「ゴドン!!」
突然何かが倒れたような音が教室内に響き渡る。自慢げなセーシェが送った目線の先には、首元を抑え苦しむシャンドラの姿があった。