海が嫌いだ
名だたる大手企業取締役や政財界の重鎮が、豪華客船”クイーンアビス”で高級ワインの注がれたグラス片手にパーティを楽しんでいた。
クイーンアビスはアメリカのロサンゼルスを出発、太平洋を横断し、二週間程度で日本の横浜へと帰国する旅程であった。
日本の経済界のトップに君臨する雨宮財閥の令嬢である雨宮雪乃もその例外ではなかった。自分とある程度対等な立場の人間と乾杯するのは退屈ではない。
雪乃は右手でグラスを傾けながら、船上の屋内バーのカウンター席で一人佇んでいた。長く美しい髪を左手で流しながら、深紅のドレスを手直ししていた。
「雪乃さん、こんな所にいたのか。船内を探していた僕がバカみたいじゃないか。」
「龍義さん…私がワインに目がないのを知らないの?ここにどれだけ種類のワインが揃ってると思ってるの。」
「まさか…酔い潰れて船内の休憩スペースにいるんじゃないかとすら思ったよ。」
「私の肝臓は並大抵じゃないことは、どうやら知らないみたいね。」
雪乃の隣に紳士服を着た大柄な男が腰を下ろした。濃い顔立ちで細い眉毛をぴくつかせわざとらしく困ったような顔をする。
彼は久慈平龍義。大手自動車メーカーKUJIHIRAの御曹司だ。そして、雪乃の婚約者でもある。
雪乃は彼の事を婚約者として気に入っていた。生まれも名家で顔立ちもハンサムだが、理由はそこではない。
嘘偽りのない実直な性格だからだ。何を言うにも何をするにも自分に正直なのである。雪乃のご機嫌取りのために嘘で取り繕う人間を雪乃は幾らでも見てきた。
「この船旅が終われば、僕たちもついに結婚か。…新居を探さないとな。」
「そうね。龍義さんはいつ頃、将来KUJIHIRAのお義父様の経営を継ぐの?」
雪乃の問いに、龍義は顎に手を当て考えるような仕草をしながら、笑い声混じりの言葉でごまかした。
「さぁ、いつになるんだろうか。でもそうなれば、シンガーソングライターの仕事な辞めなきゃな。」
「ふふ、私にだけは聞かせてちょうだい?龍義さんの歌、情熱的でとても好きよ。」
雪乃の甘い言葉に彼は照れるような仕草をして、グラスのワインを流し込んだ。ワインを飲み過ぎたのかあるいは上機嫌だからか、顔が赤くなっている。
「そうか…よかった。幾らでも聞かせてあげるよ。」
海風が轟々と屋内バーのガラス戸を揺らす。風は段々と強くなり、雨粒が甲板に打ち付けられた。
「まるで嵐だ…。そろそろ、船内のバーに行かないか?あちらなら、気は落ち着くだろう。」
「そうしましょうか。」
二人は席を立ち上がり、船内のバーへと向かった。船内にも多くの高級スーツやドレスを纏ったセレブ達が雰囲気を楽しんでいた。
二人が楽しく飲み明かし、酔いも回って眠気に誘われた頃…突如の轟音が眠気を吹っ飛ばした。
「ドォン!!」
二人の側のテーブル上に並べられたグラスが船の揺れで床に落ち砕け散った。
耳をつんざくような巨大な音にバーが悲鳴で包まれた。雪乃は恐れで震える手で龍義の手を握った。彼もその手を優しく握り返した。
しばらくして、船のアナウンスが流れ始めた。
「只今原因を調査中ですが、船内の皆様は船上に避難してください。」
その放送を聞き不安に包まれたセレブ達は我先にと船上へ駆け上がり始めた。龍義は平静を装って雪乃に声をかけた。
「雪乃さん、僕の手を離さないで!」
「は、はい!」
船上へと繋がる階段は人が渋滞しており、不安に包まれた人々の罵詈雑言が飛び交っていた。
雪乃は床に落ちているワインボトルが転がっていくのを見た。
「龍義さん!どうやら船内が傾き始めたみたい…。」
「…大丈夫だよ。雪乃さん、僕を信じて。」
龍義の雪乃の手を握る力は一層強くなる。船が荒れ狂う波に飲まれ暴れ始める。船内の揺れはだんだんと激しくなってきた。
船上に出て安心したのも束の間、嵐はさらに強くなり船上のパラソルやらイスやらは全て海の上へと放り出されてしまっていた。
船の揺れはどんどん強くなる。荒波の高さは数メートルにも上り、甲板を揺らし続けた。雪乃は龍義の手を握ることしか出来なかった。
だけど、その時だった。船がまるで宙に浮いたようだった。船に衝撃が走り…雪乃は、龍義の手を離してしまった。
「——雪乃さんっ!!!!!」
雪乃は必死に、その腕を龍義の指先へと伸ばした。だけど、あと少し届かなかった。龍義は絶望を露わにして、血の気が引いた顔をした。
(龍義さん…助けてっ!)
その願いも虚しく、雪乃は船上から放り出され、7m上空から水中に沈んだ。
「あぁ…雪乃…っさん。」
龍義は顔を俯け、歯を食いしばった。しかし、決心したように船上を突然走り出した。
「——うおおおおおっ!」
決意に漲った眼差しで彼は船上から飛び出した。逆さまで海に身を捧げる雪乃を救うため、命をかけて自然の脅威に立ち向かった。
ぼやける視界の中、雪乃は水面に見える微かな人影を見つけた。こちらに手を伸ばしているように見える。
(龍…義…さん?)
だが、息が苦しい。もがき暴れる手はその人影に届くことはなく、雪乃の体の動きはどんどん鈍くなり、沈んでいった。
(冷たい…苦しい…辛い…)
(私…まだ自由に生きてないのに…っ!)
薄れゆく意識と力の抜けていく全身の中で、雪乃は最期に吐き捨てるように心の内で呟いた。
(私は…海が嫌いだ。)
これは、令嬢の理想像に縛られた哀れな一人の女が、悪役令嬢として異世界を股にかける物語である。