28話 悪役令嬢の迷走
この学園には、本校舎と旧校舎が建っている。
旧校舎は歴史的建築物を保全するために残されているだけなので、基本的に誰も出入りすることはない。
そのため手が入らない旧校舎の裏庭は、白い花を咲かせたシロツメクサで覆い尽くされていた。裏庭の中央には白亜の石でできた東屋があり、白ばかりの空間は神聖な雰囲気があって美しい光景となっている。
しかし、ここはカトリーナの縄張りというのが公然の秘密となっていて、彼女の不興を買ってまで近づく者はいない。
そんな裏庭では、神聖さとは程遠い台詞がこだましていた。
「気安く触れないでくださる!? わたくしはそこら辺の宝石よりも価値がありましてよ!」
カトリーナが八つ当たりするように、東屋に巻き付いていたツタを次々と鎌で刈っている。
そして全部刈り取ると、地面にできたツタの山に鎌をビシッと向けた。
「世迷言を言うなんて、そんな口が二度ときけぬよう縫い付けてさしあげましょうか――……って、なんであの時は言えなかったのよ、もうっ!」
ずっと最高の悪役令嬢を自認していたのに、先週アルトに対して何もできなかったことが悔しい。
しかもカインのそばにいるアルトの姿を見ると鼓動が制御できなくなり、勝手に足が止まってしまう。そのせいで、日課となっていたカインへの付きまといも一週間ほどできていない。
「シナリオ通りに進んでいるから大丈夫と、油断していたわ。動揺して、カトリーナっぽくないリアクションをしてしまったわ……情けない」
悪役令嬢カトリーナとして、約十年生きてきた。
令嬢らしい振る舞いと言葉遣いは板につき、元日本人としての意識はほとんど薄れ、生まれながらに自分はカトリーナだったと言えるくらいには世界に馴染んでいる。
今までもトラブルはあったけれど、悪役令嬢カトリーナとしての最適解を出してきたつもりだ。
だからこれからも大丈夫と思っていたのに、シナリオ終盤に痛恨のミス。
もちろん向上心の高いカトリーナが、めそめそし続けるわけもなく……。
「練習したから大丈夫。最高の悪役令嬢カトリーナ・クレマの復活よ! おーほほほほほ」
カトリーナは悔しさ解消の生贄として刈られたツタを踏みつけて気持ちを切り替えると、早速カインがいる生徒会サロンへと向かった。
「これより先は、カイン殿下の許可が必要です」
「え?」
婚約者であるカトリーナはいつも顔パスで入れたサロンだというのに、護衛騎士に止められてしまった。
シナリオ的には問題ない。
カトリーナへの信用度が底をついたら取られる処置だと、知っているから。
だからシナリオ通りに、カインが渋々出てくるまで護衛に向けて高圧的に文句をぶつけようとしたのだが……。
「僕が対応いたしましょう。カトリーナ嬢に説明することがあるので、護衛のおふたりは扉の内側で待機してください」
文句を言う前に、カインの代わりにアルトがサロンから出てきた。
そして人払いを済ませると、以前と同じ……いや以前よりも甘みを含んだ眼差しをカトリーナへと向けてくる。
カトリーナの心臓はドキッと反応して、まだ火種が残っているかのように先日アルトが触れた背中や手の甲が熱くなった。
しかし彼女は悪役令嬢のプライドを奮い立たせて、アルトに厳しい視線を返す。
「カイン殿下を呼びなさい。そう簡単に引き下がるつもりはありませんわ」
「ですが、現在カイン殿下は重要な書類の確認中。別室にお茶をご用意しますので、一緒に飲みながら待つのはいかがでしょう?」
「カイン殿下のお姿が見えるサロンの中で頂きますわ!」
カトリーナは強引に扉に手を伸ばして開けようとするが、その手はアルトに強く握られて叶わない。
彼の甘い笑みは消え、表情はどこか切なげなものに変わっている。
「アルト様、邪魔しないでくださいませ」
「このままカトリーナ嬢が入室すれば、カイン殿下に怒られて終わりですよ。僕はこれ以上、無駄にあなたに悲しい思いをしてほしくありません」
「わたくしを悲しませたくないのであれば、今からでも仲を取り持つようにしてくださらない?」
「僕はカトリーナ嬢の味方にはなれませんし、悲しませたくないのも本心。だから再び提案します。今からでも僕にしませんか?」
アルトはカトリーナと手のひらを合わせると指をクロスするように握り、自身の顔に寄せる。
すり……とカトリーナの手の甲に、アルトの頬が触れた。
闇色のまっ黒な瞳は強く求めるように鋭く、背筋がゾクゾクするほど妖艶だ。
カトリーナは顔に熱が集まってくるのを感じた。これでは前回の二の舞になりかねない。
「き、気安く触れないで、く、くださいまままし。わたくしは、そこら辺の宝石よりも価値がありましてよ」
「知っております。僕にとってカトリーナ嬢は至宝の存在です」
「なっ!? えっと、えーっと世迷言を言うなんて、そんな口が二度ときけぬよう縫い付けてさしあげましてよ!」
「あなたに縫われるなら悪くありません。僕を選んでくれるのなら、受け入れましょう」
一週間かけて練習した努力は虚しく、見事にカウンターにあってしまった。
「わ、わたくしは悪女ですわ。用済みになったら、どうなるか分かっていて?」
「貴女になら使い捨てられるのも良いかもしれませんね。一度でもカトリーナ嬢のものになれるのなら光栄です」
情熱的な言葉に思わずときめきを覚えてしまった。
しかし若干病的な香りを察知し、カトリーナは踏みとどまる。
「最近おかしくてよ! あなたは本当にアルト様!?」
「もちろん。本物です。もっと触って確かめてみても良いんですよ?」
「はわっ」
アルトが手の甲に唇を寄せようとしたので、カトリーナは慌てて手を引っ込めた。
誰だ。この特大の色気を放つ男は。
本当に十七歳かと疑いたくなるほど大人びているアルトに、前世アラサーだったカトリーナは太刀打ちできない。
「やっぱり偽物よ! アルト様はいつだって落ち着きがあって、控えめで、慎重派。悪いことなんてしません! こんなおかしな提案を突然するなんて有りえませんわ!」
「僕もそう思っていたのですが、違ったようです。こんな僕はお嫌いですか?」
嫌いじゃない。嫌いじゃないから困る。
カトリーナは顔を真っ赤にして、思わず後退った。
けれども、その距離を埋めるようにアルトも一歩前に出た。
「正気を取り戻してください!」
「僕は正気ですよ。ただ覚悟を決めただけ。カトリーナ嬢、僕は――」
「サロンの前で、何を言い争っているんだ。場所を考えろ」
アルトがまたカトリーナに手を伸ばそうとしたとき、怒りを滲ませたカインが扉をあけた。
「仕事の邪魔をしてしまったようで申し訳ございません」
先ほどの熱量が嘘だったかのように、アルトは涼しげな顔つきでカインに頭を下げた。
カインはアルトを一瞥すると、限り無く冷たい眼差しをカトリーナに移した。
「どうせカトリーナが原因なのだろう? 婚約者といえど仕事の邪魔はするな…………って、なんだその赤い顔は。風邪をうつされてはたまらない。さっさと帰れ」
以前だったらその美しい冷徹な迫力に、「美麗スチルとボイスだわ!」と喜んでいただろう。
しかし頭が熱さでクラクラしている今は、救いの冷水だった。
「まぁカイン殿下はなんとお優しいのでしょう! お気遣いありがとうございます。さすが殿下ですわね。嬉しいですわ! もちろん帰ります。今すぐ帰りますわ。殿下もご無理なさらないでくださいませ。では御機嫌よう!」
アルトの色気攻撃から離脱できるきっかけをくれたカインが、今までで最高に輝いて見える。
カトリーナの口からは、素直な言葉がペラペラと口から出た。
あまりにも身を引くのが早い彼女が意外だったのか、カインはぎょっとした表情になる。
だが余裕のないカトリーナはシュバっと音が出そうなほど機敏な動きで淑女の礼をして、素早く生徒会サロンの前から退散した。
けれど、馬車に乗っても顔の熱はなかなか引かず……。
(悪役令嬢の仮面を二度も剥がされるなんて、酷い屈辱ですわ! アルト様の馬鹿ぁー!)
馬車の中でも、屋敷に帰っても、翌日の朝になっても、悪役令嬢の仮面を被れなかった。