27話 執事の異変
「ア、アルト様……?」
アルトと触れ合ってしまっているカトリーナの肩と背中に、発火したような熱が帯びる。
カインには自ら遠慮なく触れてきた一方で、家族以外の異性から触れられる経験は前世を含めて非常に乏しい。
(何が起きているの? どうしてアルト様はわたくしをこんな風に引き留めているの!?)
力強い腕に、思ったよりも逞しい胸元……ダンスのときよりも密着していることで、カトリーナはアルトが異性だと強制的に意識させられてしまう。
「離してくださいませ。どうしてこんなことを……?」
自分の心の乱れに危険を感じたカトリーナは身をよじってみるが、アルトの腕の力は強くてビクともしない。
加えて、強引に引き止めようとしているのはアルトの方なのに口を閉ざして理由を答えてくれない。
カトリーナの耳元で、歯を強く食いしばった気配がするだけ。
(……わたくしを見捨てられなくて、もしかして苦しんでいるの?)
だとしたら今のうちに突き放さないと、アルトの苦しみは長引いてしまいそうだ。
カトリーナは気を強く持って、冷たい声を意識する。
「誰がなんと言おうと、わたくしは最後まで改めませんから」
転生から覚醒して間もなく十年。断罪スチルを見ることを心の支えに、世界のハッピーエンド目指し突き進んできたのだ。
嫌われるのを厭わずカイン育成に精を出しつつ外見や素養を磨き、礼儀やダンスを完璧に習得し、ときには本音を飲み込んで公爵令嬢カトリーナを全力で演じてきた。
その努力が間もなく花を咲かそうとしている。目指した理想の悪役令嬢の断罪計画は集大成。
「もう止まれないの。だから引き留めるようなことはしないで――……って、アルト様!?」
突き放したというのに、逆にカトリーナの肩にずしりと重みが加わるようにアルトの頭が載った。
見慣れた黒髪がカトリーナの頬に触れ、顔のあまりの近さに彼女の心臓が飛び跳ねる。
「何故カイン殿下は……カトリーナ嬢がこんなにも……こんなにも……」
絞り出すような声からは、アルトはまだカトリーナを善い人と信じたいようだ。彼女を抱き締めたまま、葛藤に苦しんでいる。
カトリーナの胸がぎゅっと軋んだ。
「アルト様は、どうしてわたくしをそこまで信じようとするのですか?」
カトリーナはアルトの前で、何度もカインの機嫌を損ねることをしてきた。
加えて社交界と学園で身分を笠に着た行動を繰り返している。
客観的なカトリーナの振る舞いは、どうみても信じるに値しない悪女だ。
「……ずっとカトリーナ嬢を見てきましたから」
「え?」
「あえて手が届きそうな距離でカイン殿下の一歩前をいくあなたの背中を、僕はそばで見てきました。そしてカイン殿下がカトリーナ嬢を越えたとき、あなたは慈悲深い眼差しで道を譲っていた……でも、誰にもそれを明かさない。だから今回も、本当はカイン殿下のために行動しているに決まっていると、僕は……っ」
アルトの読みの鋭さに、カトリーナは息を呑んだ。
だが、ここで肯定してシナリオがひっくり返っては元も子もない。
「だったら、なぜカイン殿下はわたくしに一度も感謝をしてくださらないのかしら? カイン殿下はアルト様のお話にはよく耳を傾けるはずなのに、ねぇ?」
「それはあなたが隠そうとするから、カイン殿下に伝わっていないのです」
「敬愛しているカイン殿下の目が曇っていると言っているの? アルト様は、主の目より自分の目を信じているのですね」
「そういうわけでは――っ」
動揺でアルトの力が緩んだ隙に、カトリーナは彼の腕の中から逃れる。
アルトの表情は未だに苦渋に満ちていて、カトリーナの愚かさを攻め立てているようだった。
「カトリーナ嬢こそ、どうして僕に対する同じ態度でカイン殿下に接しないのですか? 僕にはとてもお優しいのに……。いいえ、どうして僕だけに優しくするのですか? カイン殿下を含めて、他の方にもそのようにすれば状況は違ったというのに」
「……あえて言うのなら、見た目かしら」
「見た、目……?」
「カイン殿下がキラキラして眩しすぎるから、アルト様が持つ黒色が目に優しい気がするのよね。それに黒猫が好きだから、似てると思って可愛がってみただけ」
元・純日本人としては黒髪、黒目は故郷の色。
カトリーナにとって周囲はカラフルなキャラクターばかりなので、一番日本人に近いアルトはハニカミ笑顔も相まって癒やしてくれる存在だった。
「僕は黒猫……ですか。やっぱりあなたは残酷だ」
「今更ですわね」
猫扱いにショックを受けたのか、アルトの中のカトリーナに対する素晴らしい人間像は崩れてくれたようだ。
(先日一緒に仲良く散歩もしてコーヒーも飲んだばかりなのに、あれが最後か……)
カトリーナの望んだ通りのシナリオに進んでいるのに、彼女の胸は先程よりも痛みが増している。
その原因となっているアルトは、感情の読めない真顔でカトリーナを見つめている。
「単刀直入に申し上げます。カイン殿下とミア・ボーテン嬢から手を引くことをご検討ください」
「――何を仰っておりますの? わたくしから手を引く選択肢など無いと言ったばかりでしょう!?」
カトリーナの断罪を危惧してくれているのは分かるが、手遅れというのはカインの右腕であるアルトも知っているはずだ。
婚約は国王とカトリーナの父であるクレマ公爵との間で締結されたもので、公表されている。
婚約を解消する場合は、『両家に解消による多大な利益がある』または『婚約継続によって生じる不利益がとんでもなく重い』と判断されたとき。
今回はカトリーナに明らかな落ち度があり、もし庇うようであれば王族だとしても貴族たちからの信用を失いかねない。
クレマ家がたとえ公爵家だとしても、王家が大勢の貴族を敵にすることはない。
それはアルトも重々に知っているはずなのに、彼の黒い瞳の熱は冷めることなくカトリーナを見つめている。視線だけで身が焦げてしまいそうだ。
「カトリーナ嬢、どうか今一度考えてくれませんか?」
「無理ですわ。まぁ、アルト様にはご理解できないでしょうけど」
どれだけシナリオが大切か……理解しているのは、ハッピーエンドに辿り着かないと国が滅亡すると知っている同郷のミアだけ。
ネネですら、この計画に国の存亡がかかっているのを知らない。
「僕以外に理解できる人がいると?」
「心当たりが、ひとりだけですけれど」
「ひとり、いるんですね……」
「――っ!」
聞いたこともないアルトの低い声と不意に見せられたほほ笑みに、カトリーナは体を強張らせた。
その一瞬で空けたはずの距離をアルトに詰められ、手を掬い上げられた。そしてカトリーナの手の甲に、そのままアルトの唇が触れた。
「ア、ア、アル……ト……しゃま、なななな」
カインが手の甲に口付けするのは夜会の義務のとき限定で、いつも手袋越し。
家族以外の唇に直接触れるなんて初めてだったカトリーナは、顔を真っ赤にするしかできない。
「カトリーナ嬢でもそのように余裕を崩されることがあるのですね。なんと可愛らしい一面なのでしょうか。しかも僕が原因とか……ねぇ、カトリーナ嬢。今からでも僕にしませんか?」
「え!?」
目の前にいるのはいったい誰なのだろうか。癒やし系モブの面影は一切なく、毒のように酷く甘い微笑みのアルトがいた。
カトリーナは悪役令嬢モードが強制終了してしまい、正常に再起動できない。
ハクハクと口を震わせ、やっと出た一言は情けない捨て台詞だった。
「一昨日来やがれですわ!」
手を振りほどき、カトリーナはヒールを鳴らしながら全力でその場から逃げ去った。
そして外回廊に残されたアルトは、追いかけることなく呟いた。
「来やがれ……ですか。あなた様がそう仰るのなら」