25話 疑惑と駆け引き
今日もカトリーナは早朝登校し、嫌がらせの仕込みをした。
ロッカーに置きっぱなしの辞書に、先日ネネに買いに行かせた安いインクをたっぷりと垂らす。
ミアが気を利かせたのか、ノートも置いてあったがそれには手を出さない。
ヒロインの誘導を感じる物に安易に釣られるのはレベルの低い悪役令嬢のすることで、カトリーナの美学に反しているからだ。
「さてと、散歩でもしようかしら」
予定よりも嫌がらせ工作が早く終わったカトリーナは、早い時間帯に校内にいるという目撃者を増やすことも兼ねて学園内を歩くことにした。
貴族が多く通うため建物の意匠は美しく、精巧な銅の彫刻や力の入った花壇も多い。
それに朝早い時間は、陰湿な視線も媚びや下心が含まれた言葉を向けられることもなく、空気が澄んでいるようにすら感じる。
カトリーナの足取りも自然と軽くなり、花を見るだけで顔が綻んでしまった。
「おはようございます、カトリーナ嬢」
「あら、おはようございます、アルト様。お早いのですね。カイン殿下はどちらに?」
外回廊を歩いていると、アルトとばったり遭遇した。
「おはようございます。カイン殿下が登校なさる前にサロンの資料を整理したかったので、今は僕だけなのです」
アルトは申し訳なさそうに微笑んだ。
(カイン殿下に会いたいのは演技なのだけど……)
アルトに気を遣わせたことにカトリーナの胸は罪悪感でチクリと痛むが、切り替えて笑顔に努める。
「朝からお疲れ様です。カイン殿下のことは気になさらないでくださいませ。でも、ここを歩いているということは、もうお仕事は終わりまして? それとも休憩ですの?」
「終わりました。カイン殿下の登校時間まで散歩中といったところです」
カトリーナは手持ちの時計を確認すると、始業までまだ時間がたっぷりあった。
「ではアルト様、わたくしのお散歩に付き合ってくださいませんか?」
「僕だけなのに、よろしいのですか?」
「えぇ、もちろんですわ」
「カトリーナ嬢から誘ってもらえるなんて光栄です。お供させてください」
男子生徒と女子生徒では授業内容が異なるのでその内容であったり、新しい紅茶屋の茶葉の感想だったり。
カトリーナとアルトは歩きながら他愛のない話をしつつ外回廊をぐるりと回ってから、一息つくために学園内にあるカフェに入った。
コーヒーをふたつ買って併設のテラスに腰を下ろす。
まもなく多くの生徒たちが登校する時間を迎えるため、この一杯を飲んだらアルトと解散になるだろう。
「うっ……やはり苦いですね」
コーヒーを一口飲んで黒い水面を睨むアルトは少し幼く見え、なんだかほっこりする。
「好き嫌いを先に聞くべきでしたね。とりあえずホイップクリームを足しましょう」
カトリーナとアルトの飲み物の好みが似ているため、勝手に彼も平気と思い込んでしまっていた。
サービスで付属している生クリームをスプーンですくい、アルトのカップに入れてあげる。
クルクル混ぜると、コーヒーは黒から柔らかいブラウンへと変わった。
「どうぞお試しになって。でも、苦手でしたらお止めになってくださいね」
「ありがとうございます。ん……飲める。良かった。残さずに済みそうです」
「無理して飲むことはありませんわよ」
「クリームを入れると、とても美味しいですよ。どうしてクリームを頼んだのか不思議だったのですが、こういう飲み方もあるのですね。カトリーナ嬢が教えてくれたおかげで、コーヒーが好きになれそうです」
二口、三口と穏やかな表情で飲み進めるようすから、アルトは本当に無理はしていないようだ。
良かったと思いながら、カトリーナは何も足さずにコーヒーに口をつけた。
「すみません。カトリーナ嬢のクリームを使ってしまいましたね。今僕が新しいのを――」
「アルト様、大丈夫でしてよ。わたくしは黒のまま飲むのも好きなの。苦味も馴れてしまえば、その奥に旨味を感じて美味しいわ。もちろんクリームや砂糖を入れたのも好きだけれど」
「なるほど。黒でも良いところがあるのですね」
「えぇ! まだこの国では黒い飲み物は珍しくコーヒーが浸透しておりませんが、是非とも色を恐れず、皆様には魅力を知ってほしいと思ってますわ」
前世は職場環境がブラックで、帰宅時間はブラックな夜道で、ブラックコーヒーに支えられた人生。コーヒーはパートナーと言っても過言ではない。
輸入品ではあるが、この世界にもコーヒーがあって良かった、としみじみ思いながらカップを傾けた。
ご都合主義な近代ヨーロッパ風、最高である。
「最近またお元気そうで良かったです。いい事でもありましたか?」
アルトに言われ一瞬カトリーナはきょとんとするが、理由はいくつかある。
ひとつめは、シナリオが順調に進んでいること。
他には、カトリーナが領地へ行っても文通をしたり、慈悲を装い田舎領地に訪問した際にお泊り会をしようだとか。ミアとの断罪後の楽しみが増えたのも一因だ。
そして些細な気分の変化を、アルトに気づいてもらったことがどこか嬉しい。
「ふふふ、アルト様の観察眼には敵いませんわね。楽しみなことができたからかもしれませんわ」
「どんなことか、お聞きしても?」
「乙女の秘密です」
カトリーナが笑みを深めて追及をかわすようにコーヒーのカップに口をつけると、アルトも「そう言われてしまったら、引き下がるしかないじゃないですか」と少し拗ねたようにコーヒーを飲んでいく。
そしてアルトは、空になったカップの底を見ながら言った。
「そういえばカトリーナ嬢は何故こんなにも朝早く学園にいらしたのですか?」
「……それは、お兄様の登城に合わせて来たものですから」
「カトリーナ嬢は個人の馬車もお持ちだったはず。あとで一人でゆっくりと登校するのもできるのに?」
「大好きな家族とできるだけ一緒に過ごしたいのです」
カトリーナは軽く目を細めてアルトを見つめた。
「何かございまして?」
先日、アルトはネネに接触して探りを入れてきた。
だから今回もアルトがアリバイの確認をしているのだと分かったカトリーナは、あえて質問の意図を探るような視線を相手に向けた。
だが、彼は眼差しを疑念から心配するものへと変えた。
「最近、学園内に不届きものがいるようなんです。知っていますか?」
「まぁ、不届きものなんて怖いですわ。カイン殿下が心配ですわ。アルト様、カイン殿下のことを第一優先でお願いしますね」
「……もちろん。では僕はカイン殿下のお迎えに行ってまいりますので、これで失礼いたします。その不届きものの動きがあまりにも不自然なので、どうかカトリーナ嬢もご注意ください」
「ご心配ありがとう。では、ごきげんよう」
カトリーナはアルトの背を見送り、彼が見えなくなると小さくため息をついた。
一緒にカインを出迎えようと誘ってこないあたり、アルトはようやくカトリーナと一線引くことを決めたのかもしれない。単にカトリーナと会いたくないカインの指示かもしれないが……。
しかしアルトは疑いつつも、変わらずカトリーナに優しいままで、演技とも思えない。
(不届きもの本人に注意を促すなんて、どういうつもり? あの言い方はわたくし以外にもいるような感じだったけれど、まさかね)
アルトも一連の嫌がらせの犯人がカトリーナだと気付いているはずなのに、注意するなんて不思議だ。
「とにかく、まもなくカインルートの好感度確認の最後の小さなイベントがあるから、気を抜かずにやっていかないと……!」
別のことに気を取られて、重要イベントのチャンスを逃すようなことがあってはいけない。
カトリーナは気合を入れ直し、教室へと向うことにする。
「あら、アナベル様だわ。いつも始業ギリギリの登校なのに、こんなにも早く来るなんて珍しい」
カトリーナの取り巻き令嬢四人のうちのひとりの姿を、校舎の中に見つけた。
ざわっと謎の寒気が背中を走ったが、「たまにはそういう日もあるわよね?」と秋の風のせいにしてカトリーナも校舎の中へと入っていったのだった。