衣装係に乾杯
潮風香る港町、リッツモア。この街の名物といえば街の中央を走る大運河、精巧で美しいガラス細工、そしてリッツモア大歌劇場だ。
街の中心にそびえるセント・リッツ大聖堂の向かい。同じくらい堂々と構える劇場は、数百年の歴史を持つ、しかし今でも十分洒落て見える石造りの建物だ。
月が高く高く登るこの時間。ちょうど舞台がはけたらしく、劇場からは大勢の人が興奮冷めやらぬ様子で溢れてくる。これからワイン片手に芝居談義なのか、あちこちの酒場へ吸い込まれていく人も多い。
一方今日の演目を終えた劇場の中では、劇団員達の声がこだましていた。
「マエストロ! 2幕の入りだがもう少しテンポを上げられるか?」
「カルロ! どこにいる? 宮殿のセット、さっさと直しちまうぞ」
「アントーニオ! あなた、どこにいるの?」
明日の公演に向けた片付けと準備が進む中、ひときわ存在感を持ったソプラノが舞台に響く。深い茶色の髪に、細身の長身。ごくシンプルな赤いワンピース姿の彼女は劇団の看板女優、ジーナ。
その声に思わず振り返った劇団員達は、それから一斉に舞台袖の方を示した。
「あっ! いたいた。どうしましょう、また裾がやぶれちゃったの。明日までどうにかなる?」
「おや、またこれは派手にしましたね、ジーナさん。こいつは絹で破れやすいから気をつけて、とあれ程……」
「覚えているわよ、アントーニオ。けど芝居に入ったらそんなこと気にしていられないの。」
「確かにーーお任せくださいな、ジーナさん。明日までには新品同様に戻しておきますよ」
「さっすが! じゃあよろしくね」
そう言うと、ジーナはドレスの裾をからげてどこかへ走り去った。
ジーナの売りといえば美しいソプラノと、華麗な身のこなし。幼い頃から剣舞に親しんでいた、という彼女は、派手な殺陣やアクションが得意なのだが、故に舞台衣装を破ってしまうことも多い。
そんな彼女の頼れる味方が、アントーニオ。ふにゃりとした笑顔が印象的なこの男は、この劇団で使われる衣装を手掛ける衣装係だ。
ジーナを見送った彼は早速彼女に渡されたドレスを広げてみる。確かに東洋風の朱色の絹で作られた細身の衣装は、裾のところに何箇所か線が入ってしまっていた。
「あーあー……でも思ったよりはひどくないか。これならすぐにできそうだ」
そう言うと、アントーニオは早速作業を開始するのだった。
「アントーニオ? 今ちょっと良いか? 今度の新作の衣装の相談が……って修繕中か?」
アントーニオがドレスの修繕にかかり始めて1時間程。頭上から美しいバリトンが降り注いで、アントーニオはハッと顔を上げた。
「いえ、ダニエーレさん。もう終わるところですーー」
声の主はダニエーレ、歌劇団の看板俳優。整った顔立ちと筋肉質な体躯が自慢の彼はこの劇団を率いる座長でもあった。
「それなら良かったーーというかまたジーナか。たまには怒っても良いんだぞ」
「いえ、本気で演じるからこそ、ということはよくわかってますし……それにジーナさんに頼っていただけるのは素直に嬉しいんです」
「ーーそうか。ああ、そうそう。それで今度の新作の台本が上がってきた。また衣装のデザインを頼みたいんだが……」
「新作ーーそういえばそんな時期ですね。拝見しても?」
「ああ、もちろんだ」
歌劇団は1年に大体2,3作の作品を上演している。それらの作品に合わせて、衣装をデザインすることがアントーニオの大事な仕事の一つだった。
「……今度は騎士姫がヒロインですか、腕がなりますね」
「ちょうどジーナの誕生日に公演期間が重なるからな。彼女の魅力を最大限に引き出す台本を頼んだ」
「なるほど。でしたら私もジーナさんを最も美しく魅せる衣装を用意しなければなりませんね」
「さすがはアントーニオ! ジーナ信奉者は話が早い。じゃあ頼めるか?」
「えぇ、もちろん。これから早速取り掛かります」
「よろしく頼むよ」
そう言うとダニエーレはアントーニオの肩をポンと叩いて出ていく。そうして入れ替わるようにやってきたのはジーナだった。
「アントーニオ? まだ作業してるって聞いたから来たんだけど……ってあら、もう出来たの!?」
「ジーナさん!? どうしてここに?」
少し気遣わしげな調子で声をかけたジーナにアントーニオは驚きの声を上げる。なにせもうほとんどの団員は帰宅した時間だ。一方ジーナもアントーニオの持つ衣装を見て目を見開いていた。
「ええ、明日の公演まで、とはいえ早く直すに越したことはないでしょう」
「まあ……でもこんな時間までなんてーーいや、そもそも私が頼んだからよね。ありがとうアントーニオ」
そう言うと、ジーナはアントーニオから受け取った衣装をギュッと抱きしめる。
アントーニオはまるで自分が彼女の胸の中にいるような心地になって、ドギマギとした。
と、彼女は不意に手にしていた紙袋をアントーニオに押し付けた。
「そうだわ! これを……夜食にと思って。じゃあね、またよろしく!」
紙袋の中にはいっていたのは、平たいパンにハムとチーズが挟まれたサンドイッチだ。
「そ、そんな! 一介の衣装係が差し入れだなんてーー」
「何をいってるの? 大事な劇団員の一人でしょう? さ、お腹が空いたら仕事にならないわよ」
そう言うと、クルッと美しく踵を返して、アントーニオの前から去っていく。彼はその後姿に
「あ、ありがとうございます!」
となんとかお礼の言葉を投げるのだった。
「いかがでしょう、ダニエーレさん」
「素晴らしい……素晴らしいよアントーニオ。美しく、気高く、可憐。まさにジーナにピッタリの衣装だ」
それから数カ月後。前作が無事千秋楽を終え、次の作品までの準備期間に入った大歌劇場。お客さんが来ない分ややガランとした舞台袖で、アントーニオはダニエーレにジーナの衣装の仮縫いを見せていた。
やや明るい葡萄酒色のドレスは、200年程前にこの国の貴族がよく着ていたデザイン。ただしそのままでは動きにくいため、裾はやや絞り、そしてごく浅くスリットを入れてある。彼女が剣技を披露すれば、アザミの花が刺繍された裾がふわりと舞う仕様だ。
高貴にも快活にも振る舞えるその衣装は、まさにジーナのためのドレスと言えるものだった。
「褒めていただき光栄です。では早速本縫いに……と行きたいのですが、その前にジーナさんは?」
座長の許可が必要なのはもちろんとして、張本人であるジーナの反応も見たい。そう話すアントーニオにダニエーレはなんとも言いたげな顔をした。
「それが……今日は早々と帰っちゃったんだよな。それになんだか様子がおかしくて。アントーニオもわかっただろう」
「ーーああ、そういえば」
今、歌劇場では少しずつ新作の練習が始まっている。ーーが思い起こしてみれば、チラリと目に入るジーナの様子は確かに少し変だった。
台本読みが得意な彼女が台詞を飛ばし、得意なはずの音域で音を外す。その上彼女の代名詞と言える剣舞のシーンでもつまずいていた。
「まあ、そういう日もあるだろうけどな……と、いうわけだから、本縫いは少し待ってくれるか」
「ええ、もちろん。先に他の方の衣装を進めておきます」
アントーニオは劇場の裏手に専用の工房を持っており、幾人かの弟子もいる。彼らと協力して、時には街の仕立て屋にも頼みつつ、劇団で使う衣装を用意しているのだが、それでも常にやることはいろいろある。
ジーナの衣装を進められないなら、他を先に進めるのみ。そう頼もしげに返事したアントーニオは、軽く手をあげるダニエーレに会釈して返し、工房の方へ戻った。
「んー……あぁ、もうこんな時間か……そろそろ終いにするか」
ダニエーレと別れたのがお昼すぎ。それからずっと衣装製作に励んでいたアントーニオ。なんとなく肩に疲れを感じて窓の外を見ると、外は真っ暗になっていた。もちろん弟子たちはとっくに返してしまっている。
針と糸とを持つと時間を忘れるのも考えものか……そんなことを呟きつつ、アントーニオは戸締まりをして工房を出る。劇場が開いてなくても人でごった返す大広場に出たアントーニオは、どこかで夕飯でも食べよう、と広場から続く通りの一つへ足を進めた。
夜の長いリッツモア。月が高くに登ったこの時間でもまだ店は繁盛している。どこからともなく聞こえるギターの音色と喧騒。それに心地よく身をゆだねていると、ふと聞き慣れたソプラノが耳に入ってきた。
「ジーナ……さん?」
遠目だが間違えようはない。通りの向こうにいるのは確かにジーナ。それも誰かと言い合いをしているようだった。
「……聞き分けなさい……」
「……ほっといて……」
言い合いの相手は彼女より一回りくらい上の男女らしい。一体どんな関係なのかはわからないが、彼女はやや劣勢に見える。気付いたときにはアントーニオは彼女のもとへ駆け出していた。
「ちょっと! あなた達。よってたかって……?」
ところが威勢よく彼女のもとへ走り出した彼だが、その前にジーナはプイッとばかりに二人から顔をそむけこちらへ歩き出す。結果アントーニオとジーナは通りの真ん中でばったりと出くわしたような形になった。
「あら、アントーニオ!? どうしたの? 怖い顔して」
「いやいや、それはこちらの台詞ですよ、ジーナさん。あの二人は?」
そう言ってアントーニオはジーナの後ろに視線をやる。あれほど言い合っていた二人だが、もう彼女には興味をなくしたのか、全く別の方向へと歩きだしているところだった。
「ああ、あれねーー両親よ」
「両親!?」
「ええ、ちょっとね……あぁ、思い出したら苛立ってきたわ。アントーニオ! 責任取って付き合いなさい」
「はっ!? 一体なんの責任ーー」
あまりの急展開に目を白黒させるアントーニオだが、そこは構わないことにしたらしい。ジーナに引っ張られるようにして、アントーニオは通路から一本入った路地にある小さな食堂へと入ったのだった。
「ルチア、久しぶり。早速だけどワインを1本お願い。お料理はおまかせするわ」
「久しぶりジーナ。任せて頂戴! ーーで、そこの良い男は誰? ……俳優っていう風じゃないわよね」
「彼はアントーニオ、うちの天才衣装係よ。ほら、この前の東洋の姫君の衣装を作った人」
「アントーニオです。どうぞよろしく」
一応劇団に所属するアントーニオだが、見た目も身のこなしも俳優とは随分違って見えるらしい。やややるせない気持ちになりつつ、アントーニオは帽子を取って頭を下げた。
ルチアもまたアントーニオに礼を返し、それからワインのボトルを一本、それにグラスを2脚カウンターに置く。なにか事情がありそうな時はそっとしておくのが彼女流のサービスらしく、ルチアはいそいそと料理を始める。そんな彼女に軽く笑いかけてから、ジーナは早速ワインを手酌で注ぎ、グラスを煽った。
「……で、あの二人との喧嘩の理由よね。実はーー結婚しろって言われてるの」
その言葉に、彼女に促されるまま自分のグラスにワインを注いでいたアントーニオの手元が震え、ルチアはカーンと音を立てて、フライパンを取り落とす。
彼女が落としたのが空のフライパンだったことにほっとしつつ、アントーニオはジーナに再度視線を向けた。
「結婚ですか? 女優としてまさに油の乗った時期なのに」
「だからこそよ。なにも女優をやめろと言われてはいない。でもほら、女優として有名であればあるほど結婚したがる男も多いでしょう? それで二人はできるだけ地位があって、お金持ちな男と私を結婚させたがってるの」
「それはもしかしてーー」
「ええ、もちろん。実家を恵んでもらうためよ。私の実家はクレーテシア工芸品店。名前くらい知っているでしょう」
彼女が口にした店の名を聞いてアントーニオは納得する。クレーテシア工芸品店はガラス工芸を売る老舗だが、今の代になってからはやや質が落ちた、と噂されていた。
「父も母も人の上に立つ人じゃないの。でも兄は優秀で職人もついて来ている。きっとお店はまた繁盛するから心配してない。ーーただ二人はそれが気に食わないのよね」
「……このままでは店の歴史の汚点で終わるから?」
「ええ、そうよ。だからって娘を使う?」
そう言うと、また怒りを思い出したようで、ジーナはワインをグッと煽った。
「それは酷い話です。……それでジーナさんはどうするのですか?」
「もちろん、あの二人の言うことなんて聞かないわ! ーーでもやっぱり結婚は両親の言う通りにって意見が世間的には主流だし、本気で強制されたら抗えるか……そんなことを考えてたら演技にまで影響が出て……本っ当に最悪な気分」
普段見ない弱気な彼女の肩をポンと叩こうとするアントーニオ。が、すんでのところでやめ、代わりに努めて明るい声を出した。
「僕が味方になります」
「えっ!?」
「いや、その……だから何ができるかって言われると困るのですが……でも僕以外にもあなたのファンは多い。あなたが思い悩まされ、満足な演技ができなくなるなら、その大元に怒りを感じる人もーーそれはご両親にとって脅威になる! ……かなって」
力強く言おうとして、結局尻すぼみなアントーニオにジーナは「クック」と笑い出した。
「そうね。確かにそうかも。ちょっと元気が出たわ」
そう言うとまたグラスを傾ける。ちょうど頃合いよく、湯気を立てたアンチョビのパスタの皿が二人の間に置かれ、美味しそうな香りに二人は思わず顔を見合わせた。
「さ、冷めないうちにどうぞ。ーーあと私もあなたの味方よ」
そう言うと、ルチアは一つウィンクしてまた鍋と向かい合う。
「お、男前……」
アントーニオは思わずそうつぶやき、自分との差に若干落ち込みつつ、パスタを食べ始めた。
その後もルチアが出す料理に舌鼓を打ち、ワインを二人で開ければ、嫌なこともだいぶ忘れる。随分気持ちが楽になったらしいジーナは、もうすぐデザート、というタイミングでルチアに軽く流し目を送った。
「ねえ、ルチア? 今日のデザートだけどティラミスは出来る?」
「ええ、もちろんよ。任せて頂戴」
「ティラミスですか。久しぶりですね」
「ルチアのティラミスは世界一なの。期待しておいて」
流石に軽く酔いが回ったらしいジーナは、先程のルチアのように片目をつぶって見せる。看板女優の至近距離での仕草にアントーニオが顔を真赤にしていると、二人の前には小さなグラスが置かれた。
「はい、どうぞ召し上がれ」
グラスの底には砕いてエスプレッソを染み込ませたビスケット。その上にマスカルポーネチーズとココアパウダーが重ねてある。
ルチアが小さなカップで、エスプレッソも2つ並べてくれたところで、アントーニオはティラミスにスプーンを入れた。
「……美味しい」
「でしょう? お酒の塩梅も甘さもちょど良いの」
底のビスケットにはラム酒がしっかりと香り、ほろ苦い大人の味。それにまったりとしたチーズの甘みが追いかけてくるのが、酔いでほてった体に心地良かった。
小さなグラスに入ったそれはあっという間になくなる。勘定を済ませて店を出れば、あれほど騒がしかった街も流石に静かになっていた。
「家まで送りましょう、ジーナさん。歩けますか? 難しければ辻馬車を」
「心配いらないわよーーすぐそこじゃない。なんなら一人で帰れるくらい」
「流石にこの時間の独り歩きは関心しませんよ。きちんと送り届けます」
そう言うと、アントーニオはジーナから拳一つほど開けて、隣を歩きだす。
「ジーナさん……先程の話ですが、本当に私はあなたの味方です。それに劇団のみんなも。なにかあれば必ず言ってくださいね」
「わかっているわ。両親がなんと言おうと抗って見せる。……だって私、好きな人がいるんだもの」
二人でポツポツと話しつつ、劇場の裏手にあるジーナの家まで歩く。彼女の言葉を改めて反芻し、アントーニオが絶望に落とされたのは、二日酔いで目覚めた翌朝のことだった。
「どうですか……ジーナさん?」
「とっても素敵よ! いつもアントーニオの作る衣装は素敵だけど、特に今回の最高! 早くこれを着て舞台に立ちたいわ!」
翌日の昼過ぎ。アントーニオは稽古の合間にジーナに衣装を見てもらった。前日の深酒の影響など微塵も感じさせないジーナはドレスを胸に当て、そのままクルリと回って見せる。
昨日とは打って変わった溌剌とした笑顔に団員達は一様にホッとしたような表情を見せる。
しかし一方のアントーニオはやや引きつった笑みを浮かべていた。
「どうしたんだアントーニオ?」
「い、いえ、ダニエーレさん。その……飲み過ぎです」
「そりゃまた珍しい。怪我だけはすんなよ」
心配そうなダニエーレにアントーニオは無理やり口角を上げてみせる。まさかいつの間にか失恋していた、などその張本人の前で言えるはずもないのだった。
辛かろうが悲しかろうが舞台の幕は上がる。そこはアントーニオもプロだ。弟子たちの力も借りつつ、いくつもの衣装を同時並行で縫い進め、なんとか今回も開幕に間に合わせることが出来た。
そうして迎えた歌劇団の新作「ロゼリア姫の復讐」の幕が上がった。
舞台は今から200年ほど前。一つ上の剣技に秀でた兄と幸せに暮らしていたロゼリア姫。ところが、15の時に隣国の襲撃で兄を亡くしてしまう。民を守るために敵軍を率いていた将軍と結婚したロゼリア。しかし彼女はこっそりと兄仕込みの剣技を磨き、復讐の機会を伺っていた……という筋書きだ。
ジーナは襲撃前の快活さと、襲撃後のほの暗さを見事に演じ分け、そして終盤、将軍を演じるダニエーレとの素晴らしい剣技で観客を魅了する。
そして拍手喝采に包まれたカーテンコール。主演のジーナの元へ、いかにも貴族らしい雰囲気をまとった美男が近寄る。
この街の有力貴族であり、歌劇団の一番のパトロンでもあるロネット伯爵、エドモンドだ。彼は初日の今日、観客を代表してジーナに花束を渡す栄誉を射止めていた。
と、そこで花束を抱えたエドモンドがジーナにひざまずく。続く言葉に歌劇場は舞台も観客も騒然となった。
「ジーナ、我が姫君。あなたを愛している。私と結婚してくれないだろうか」
「け、結婚ですか!? またどうして急に?」
「ご両親に打診されたのです。もちろん愛している、という言葉に嘘はありません」
「両親って、父様、母様!」
エドモンドがサラリと白状した黒幕にジーナは目を吊り上げて、観客席を睨む。すると最前列にいた彼女の両親がニコリと笑い、ジーナに向けて声をあげた。
「伯爵が奥様を探してるって言うから……」
「彼なら歌劇団のパトロンだし、芝居に対する理解もあるだろう?」
「私は女優としての顔も含めてあなたを愛してますから……舞台を降りろなど言いませんよ」
エドモンドの言葉に、ジーナの両親は「ほら」とばかりに威張って見せ、ジーナはため息をつく。
一方舞台袖で様子を見守っていたアントーニオは絶望に震えていた。あの夜一度失恋したアントーニオだが、完全に諦めた訳ではなかった。
少なくともジーナに信頼されている自信はある。たとえそれが『衣装係』に対するものでも。
ならば、正面からぶつかればあるいは……そんななけなしの勇気をかき集め、アントーニオは今日の芝居がはけた後、ジーナに思いをぶつけるつもりだった。
……が、その勇気は砕け散る。何しろ相手はこの街有数の貴族で、顔も性格も素晴らしいのだ。
緑色の豪奢な上着を当然のように着こなすエドモンドに、葡萄色のドレスに身を包んだジーナはお似合いだ。
シャツにベスト、ハンチング、といういわゆる仕立て屋衣装の自分とは比べるまでもない。
いくら想い人がいたとて、彼になら頷くだろう。そんな予想をするアントーニオ。しかしジーナは劇場中の期待を裏切ってみせた。
「ロネット伯爵……ごめんなさい! 私、想い人がいてーーあなたは素敵な人だけど結婚はできないわ」
そう言うとジーナはどこかへ視線を泳がせる。その視線の行先と、その先にいる人物の様子を見て、エドモンドはなにか悟ったらしい。
ニヤリ、と微笑む。と次の瞬間やや強引に彼女の手を取った。
「なにするの!?」
「うるさい! そんな男のことなどすぐに忘れさせてやる」
そう言ってジーナとの距離を詰めるエドモンド。そこでアントーニオは思わず駆け出していた。
「ロネット伯爵! 彼女から手を……は、なーーせ」
考えるより先に動き出していたアントーニオ。だが彼の言葉はまたしても宙に消える。なぜならアントーニオの姿をみてエドモンドはポンとジーナから距離を取ったからだ。
突然のことによろめくジーナ。そんな彼女を慌てて抱きとめると、エドモンドは清々しいほどの笑顔をアントーニオに送った。
「これはこれは衣装係さん。随分お早い到着で……せっかくだ、この舞台はあなたにあげよう。言いたいことがあるんだろう?」
芝居がかった様子でそう言うと、エドモンドは軽い身のこなしで舞台から飛び降りる。結果劇場中の視線がアントーニオへと集まった。
「……あの伊達男……あ、その、ジーナさん! あなたのことが好きです。私と結婚してください!」
半ばヤケになったような告白に劇場が湧く。だがそれに続くジーナの言葉で、劇場は更に湧き上がることになった。
「アントーニオ……私もよ。ずっと前から好きでした。私と結婚して頂戴」
「……そんな」
感極まったようなアントーニオが一瞬立ち止まり、それからジーナと抱擁する。その様子に拍手を送ったエドモンドはそれからコツコツと靴音を立て、ジーナの両親の前に立った。
「さて……と、随分多くの人に祝福されているようですね、あの二人はーーまさか引き裂こうなどと考えれば、この街中が敵となることはお分かりで?」
ガラス工芸品、という嗜好品を売るジーナの実家はある意味人気商売だ。街の人の支持を失えばそれこそ本当に沈む。そのことぐらいはわかっているジーナの両親はコクコクと何度も頷くしかなかった。
随分と予想外なこともあったカーテンコールだが、看板女優と衣装係の純愛に観客も劇団員も拍手を送る。
そして観客が去った後、舞台裏ではいくつものワインの栓が抜かれ、新作の成功を祝うパーティーが開かれていた。
ワインを提供したのはエドモンド。
「本当はジーナと一緒に飲むつもりだったんだよ」
などど愚痴っていたが、にしても多すぎる量を用意しているあたりがさすがと言えよう。
俳優も裏方もまじり、舞台の成功を称え合う。とそこでどこからか「ワッ」と完成が湧き上がる。どうやら周りに囃されて、アントーニオがジーナにキスを贈ったらしい。
そんな二人を見つつ、エドモンドはそばにいたダニエーレに「あーあ」と声をかけた。
「ダニエーレ……これでも本当に彼女は素敵な人だと思っていたんだよ。私が運命の人に振られるのはこれで5回目だ。なんでだと思う?」
本気でしょげているらしいエドモンドに、周りの団員達はやや同情しつつ、苦笑いを浮かべた。
「それはまあ、5人も運命の人がいる移り気なところと……」
「どこか軽薄な感じと……」
「あと、結局アントーニオに譲っちゃったお人好しが理由かな」
言いたい放題な団員たちに「お前ら……」と呟いたエドモンドはそれからワインを飲み干す。
と、おもむろにそこにあった木箱へと飛び乗った。
「注目! 注目! 注目! ーー今日は本当に素晴らしい舞台だった。これからも君たちが一丸となって素晴らしい舞台を作っていってくれることに期待している。だが今日はひとまず……」
衣装係に乾杯!
その掛け声で一斉にグラスが掲げられたのだった。