筆舌さんと師匠
私には師匠がいる。
師匠は物書きである。まだ名は売れていないが、いずれ大成するらしい。
私もまた物書きを目指す者である。
親には家業を継ぐようにと言われたが、私にその気は毛頭なかった。
その本屋は建物と建物の隙間に隠れるように建っていた。
縦に細長い店内は人がぎりぎりすれ違えるほどの広さで、左右には背の高い本棚が並んでいる。
薄暗い店内を照らすのは、天井から差し込む太陽の光だけ。
奥に進むと机と座椅子が置かれており、そこで会計やら本の査定をする。
私は奥にある座椅子に腰掛け天井を仰ぐ。
「実に度し難い」
巷で流行っているという恋愛小説をそっと閉じた。
常連に勧められて読んでみたのはいいが、私にはさっぱり理解できなかった。
王子様と平民の身分違いの恋という王道の内容なのだが、最後まで読んでも私の琴線に触れることはなかった。
やはり私と恋愛小説との相性は最悪らしい。
「どうして他人の恋愛にそこまで……。ドキドキって自分には関係ないだろうに、なんであんなに楽しそうなんだ?」
私にこの本を進めてくれた少女の笑顔。
あれは心の底から楽しんでいる者にしか出せない表情だ。子供の頃から何となく分かるのだ。
「……もう一度、読んでみるか」
店が閉まるまで私はその本を読み返した。
何度も読み返したため、王子や主人公のセリフまで暗記してしまった。
それでも私の心を揺さぶることはなかった。愛着は少し沸いたが……
何日か経った頃、本を勧めた少女がまた店を訪れた。本の感想を伝えると、その倍の熱量を持って語り始めた。
奥から客人用の椅子を取り出し、私はじっくりと彼女の話を聞くことにした。
やはり好きなものを語る時は誰でも楽しいのだろう。私も同じだ。
彼女が好きなシーンを熱弁していたので、私は王子のセリフを真似た。こう見えて私は演技が得意なのだ。
「今だけは君のことを考えたい」
「キュン!!」
ひとつ分かったことは、恋愛小説は人をキュンキュンさせる魔力があるらしい。
彼女が悪い男に騙されないか心配である。
「うまい!!」
スープを飲んで一言。
パンを食べて一言。
「うまい、うまい。君も冷めない内に食べないともったいないぞ」
これが私の師匠である。
基本的に何を食べても「うまい」と言って、美味しそうに頬張る。趣味は食べ歩きで色んな店を巡っている。私はいつも連れまわされている。
特に好みはないので、店では師匠と同じものを頼んでいる。
今日のメニューは魚のスープと黒パンだ。
私は手を合わせ、スープを口に運ぶ。
「普通です」
不味くはないが、これと言って美味しくもない。
大雑把に切られた玉ねぎやニンジンの旨味もスープから微かに読み取ることもできるが、それ以上に塩漬けされたであろう魚がスープを少し塩辛くしている。硬すぎる黒パン。一般的な大衆料理だ。
この値段でこの味なら悪くないだろう。
これ以上を求めるのなら、相応の対価を払う必要がある。
そんな私を見透かしたように師匠は肩をすくめて、首を大きく横に振った。
パンをスープに浸して、木皿に口を近づけパンで具材を流し込む。完食である。褒められた食べ方ではないが、本当に美味しそうに食べる。
「物書きを目指すもの、いついかなる時も修行を怠ってはいけないよ。感情を言葉にするのも立派な勉強さ」
「……確かに一理ある。師匠、お手本を見せて下さい」
私は自分の分を師匠に渡す。
料理は後でもう一度注文すればいい。今は師匠から学ぶのが先だ。
パンを半分にちぎったて、彼は先ほどと同じようにパンでスープを口に流し込む。
「うむ、これは……筆舌に尽くしがたいうまさだ。魚がいい。パンも…いい。うまい。ほら、君も」
「あ、ありがとうございます」
私は師匠を習い、パンでスープを流し込む。
それを笑顔で見守る師匠。人にこんなに真っ直ぐ見つめられることはないので、少し……
「どうだ? うまいか?」
「もぐ、もぐもぐ」
私は頭を縦に振る。
口の中がいっぱいで喋ることができないからだ。
でも確かにうまいと感じた。なぜか分からないが、美味いと思えた。スープの塩辛さも、パンの硬さもまるで気にならない。
これは恐らく、パンとスープを一緒に食べることで丁度いい感じに中和されているに違いない。
それにしても暑い。汗が顎を伝っている。スープはそんなに熱くなかったぞ。夏だからか? それとも美味しいからか?
よくわからない。
ただ。
「筆舌に尽くしがたいうまさだ、師匠」
「だろ?」
食べ歩きもそれほど悪くないなと思った。
「大作を書きたい?」
「はい、だから私は生半可なものを書きたくない」
「なるほど……」
私は大作を書きたい。
誰かの人生を狂わせるような、誰かの価値観を作り変えるような、そんな作品を。
だから私は中途半端なものは書きたくない。
「じゃあ、書くべきだよ。たくさん」
「いや、師匠の言いたいことは分かりますが。それでも私は……」
師匠は有無を言わせずペンと紙を渡した。
「自分の作品としてじゃなくていいんだ。それに公開しなきゃ、誰にもバレないよ。ここには君と僕しかいないんだ、好きに書きなよ」
悪戯っぽく笑う師匠に毒気を抜かれた。
まったく、度し難い。
「わかりました。書きます」
「一週間後、楽しみにしていますよ」
「いいえ。一時間で十分です」
私はそう言って、ペンを紙に走らせた。
これから書くものは大作である必要はない。今はただ、思ったことを書くだけだ。
結論から言おう。
私の書いた作品は駄作だった。自分で言うのもなんだが、読んでいてつまらなかった。
しかし師匠の意見は違ったらしい。
「うむ、これは。改善の余地ありだね。だけど悪くないよ」
師匠の言葉に私は少しホッとした。
師匠の言葉には、嘘も世辞もなかった。それだけで私は嬉しかった。
「じゃあ、これは後は好きにしていいよ。捨てるのも大切に保管するのも君次第さ」
私はその作品を捨てることはできなかった。
翌朝、本屋に訪れた常連客の少女に私の処女作を読んで貰った。
理由を強いてあげるのなら、なんとなくだ。
彼女の反応はというと。
「とても筆舌に尽くしがたいのは伝わったよ」
その日から私は筆舌さんと呼ばれるようになった。
実に度し難い。