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掲げた正義の行く末

 




 燐香と神薙達が接触するよりも少し前。


 人々が寝静まる深夜に入ろうとする時間帯。

 疲労困憊に至りながらも仕事を終えた飛鳥は、未だに家に帰っておらず、東京の街中を携帯電話と地図を片手に走り回っていた。


 既に十か所ほど目星を付けた場所を巡り終えた飛鳥は、確認を終えたマンションの当直室を後にしながら、携帯電話で口早に誰かと通話して情報のやり取りを行う。


 それは定時連絡のような、事実だけを伝える簡潔な連絡だ。



「3番町から荒川方向への通行を確認出来ました。これから橋方面を当たります」

『こっちの南千住は外れだ。俺と一ノ瀬は荒川周辺の河川敷辺りを漁る』

『今のところ私達の方に追尾してくる人などは見られないっスけど、そっちは1人なんスから気を付けてくださいね』

「分かってるわ。そっちも気を付けて」



 飛鳥はそう言って、通話を切った。

 あらかじめ目印を付けていた地図の、確認できた部分に色を入れる。

 そうして地図上に浮かび上がった進路を確認し、傘を差した状態でふわふわと空を飛ぶ。


 深夜の暗闇の中の雨の中だったとしても、こんな風に周囲に見られる危険の中で空を飛ぶなんて事は無かった。

 今はもう世間に知られている立場にあるから、そんなもしもがあっても問題無いという吹っ切れを飛鳥に与えていた。


 何よりも、今は時間がない。



「……」



 着地する。

 周囲にいた数少ない人が己の目を疑い飛鳥を何度も見返す中、彼らを無視して地図上のあらかじめ目印を付けた建物へと足を向けた。


 通話で話していた橋の近くのどこにでもある、少し警備が厳重なだけのマンション。

 その正面玄関の前で足を止める。



「……ようやく出て来たわね」



 飛鳥は足を止めたまま、招かざる客の為に背後を振り向いた。

 いつの間にかそこに居た、スーツ姿の、帽子を目深に被った長身の男性を前にして、飛鳥は凶暴な笑みを浮かべた。



「意味の無い顔隠しは止めにしなさい。アンタが邪魔しに来ることは分かっていた。だからわざわざ足取りを追いやすいように異能を使って移動していたんだもの。私の誘いに乗って見事に釣られたスライム人間――――そうですよねぇ浄前課長☆」

「……柿崎と一ノ瀬はどこにいる?」

「ただのスライム人間には知る必要も無い事です☆」



 スーツ姿の男が目深に被った帽子を脱ぎ捨てる。

 警視庁公安部特務対策第一課で何度も見てきた、浄前正臣が昆虫のように無機質な双眸で飛鳥を映している。


 飛鳥達警察の動きを監視していた内通者の存在、その正体がコイツだった事に飛鳥は微塵も驚きを見せていない。

 そもそもコイツには怪しい部分が多すぎたのだ。


 過去、警察官やその家族の不審な死や事故の被害の周囲にはこの男の影があった。

 それら被害者となった警察官に多少なりとも関りがあり、警察内部でも影響力を持ち、不自然なほど優秀な男。


 そして、浄前正臣がスライム人間である確信の決定打となったのは予想外にも、柿崎からもたらされた情報によるものだった。



『――――奴の生活インフラが伏木と同様だ。ほとんど使われてない』



 燐香からの電話で知った神楽坂の誘拐。

 以前より神楽坂と情報のやり取りをしているようであった柿崎にその件を伝えると、同じように神楽坂からの連絡が途絶えていた柿崎はすんなりと事態への納得を見せ、その情報を飛鳥に伝えたのだ。



『お前が別の誰かとやり取りしているのは分かっていた。お前が内通者かと疑った事もあったが、話で聞いていたスライムとお前の異能とやらは違った。何よりあの病院でのお前の仕事に対する姿勢を見てこの疑惑は既に捨ててある。俺はお前を信じよう』



 簡潔にそう言った柿崎からの、協力体制の申し出を思い出し、飛鳥は目の前の人ならざる存在に対して異能を向ける。



「神楽坂先輩を攫ったのは貴方達の親玉ですか? 異能を弾く外皮とやらを所有する連中、あの病院を襲った『泥鷹』も貴方達の差し金かと思いましたがどうやら違うみたいですねぇ」

「答えると思うか? ……とは言え、君の事は高く評価してたんだが」

「今更関係の修復は不可能ですね☆」

「だろうな」



 浄前の腕が銀の液体に変異した瞬間、飛鳥の懐から飛び出した赤色のお手玉が弾け飛ぶ。

 手作りのそのお手玉の中身は、小さな鉄屑やガラス片を内封した凶器。

 弾けて飛び出したそれらの凶器が、渦を巻くように飛鳥の周囲を飛び回る。


 一つひとつは少量のそれも、5つもあればそれなりとなる。



「出力が上がったので本当はこういうのも新調するべきなんでしょうけど。これまでそんな暇が無いくらい忙しかったですし、なによりこれ気に入ってるんですよねぇ」



 異能を弾く外皮を纏っているということは、恐らくスライム人間を異能で浮遊させることは出来ない。

 人がいる街中で戦闘になれば、物を飛ばすだけ飛鳥は武器となるものが限られてしまう。

 だからこそ、どれだけ非力だったとしても武器となりえるものを携行する必要があった。



(分かっていたけど、この状況)



 さらに、鋼球が入った黄色のお手玉を浮かせ臨戦態勢を取った飛鳥は周囲の状況を確認する。


 夜間帯とはいえ、都市部であるこの場所にはまだ通行人が存在する。

 状況が分からず立ち尽くしている者達ばかりだが、それらを巻き込まないよう立ち回る必要がある上、複数の分身体が存在するこのスライム人間の追跡がコイツ1人とは考えにくかった。



(犯罪者である“紫龍”の雇用も、警察内部を撹乱かくらんするためのコイツの差し金だったんだろうけど……これなら、“紫龍”の奴も何とか言い包めて協力させる方が良かったかもね)



 けれど、異能を持っていない柿崎達の元へ行かれるくらいなら、まだ自分に来た方がやりようはある。

 そう考え、飛鳥が目の前の不気味な人型を睨んだ時だった。



 視界が揺れた。



「な、にっ!?」



 違う、視界が揺れたのではない。

 目の前にいた浄前の形をしたスライム人間が巨大な何かに叩き潰された。


 バチュ、と気が抜けるような音がいくつか周囲から響き、その音が発生したいくつかの場所には物言わぬ水溜りが地面に広がっていく。

 草陰や物陰に潜んでいたモノ、一般人を装っていたモノ、浄前の形をしたモノ。

 飛鳥に向けて攻撃しようとしていた複数のスライム人間が、ことごとく不可視の何かに叩き潰された。

 先ほどまで話をしていた浄前正臣の姿すら無くなっているのを見て、飛鳥は自分を囲っていた脅威が一掃されたことを知る。


 だが、こうして異常現象を目の当たりにしても、異能の出力は最後まで感じ取れなかった。



「……これは……こんなふざけた事を出来るのは……」



 事の推移を窺っていた周囲の人達が状況を理解できず目を白黒とさせ混乱する中、飛鳥は遠くからの異能の余波を感じ取り、背筋を凍らせる。

 胸の内に抱いた恐怖を振り払うように頭を振って、飛鳥は再び、今度は追跡してくる存在を警戒することなく走り出した。


 きっともう、この街に潜んでいる恐ろしい分身体は残っていないだろう確信があった。





 ‐1‐





 顔の無い巨人。


 かの者は都市伝説として、厄災として、あるいは世界的な異能持ちとして有名だが、実際遭遇した事のある者はほとんど存在していない。

 レムリアやヘレナのように、異能の現象に遭遇した者こそ存在するが、それだってほとんどいないのが現状だ。


 確認できた活動期間は3年前から2年前までの1年間。

 ICPOが過去を遡った一連の事件の想定される最低限の被害者数が10億名。

 10億名が何かしらの精神干渉を受けていた、と考えなければ説明できない現象がこの1年の間に発生している。

 だがそれは、『泥鷹』のような異能による武力弾圧ではなく、目に見えぬ力による洗脳という、到底科学技術では証明しえない方法によるものだったからこそ、その存在が長らく活動をしなくなった今、存在を疑う者が増えていくのは必然だった。


 『三半期の夢幻世界』

 “顔の無い巨人”が世界を完全に支配したと言われるその期間。

 犯罪も、事故も、紛争も、戦争も、何もかもが消え去った平和な世界。

 “顔の無い巨人”の手によって統治された時なのだと言われてきたその現象。


 それが、たまたま、偶然にも、そんな風に成り立ったのだと言う者は決して少なくないのだ。


 世界最悪の異能持ち、世界最強の異能持ち、異能の支配者、異能の王。

 世界中で様々な名で呼ばれる彼自身、あるいはその異能を正確に把握している者はおらず、ただ話だけが肥大しているのでは、というのが現在事情を知る者達の大多数の意見となりつつある。

 証拠がないというのもあるし、本当はそんな存在を信じたくないというのもある。

 時間が過ぎて、恐怖が薄れて、現状に満足している者達がそんな楽観論を夢見るようになるのはある種仕方ないことではあったのだろう。

 “顔の無い巨人”本人も、そんな人間の心理を良く分かっていたし、少し大人しくしていればいずれそんな過去など風化するという、その思惑は正しく進行していたのだ。



 ……だが、それは世界的に見た話だ。



「っっ……!!」



 日本で活動していた神薙や和泉、また白崎は巨大な異能が世界を侵食しようとしたのを知っている。


 病を治し、異能を得て、有頂天にあった白崎が恐怖を覚えて国外に逃げ出し、和泉が必死に異能を弾く外皮を使って神薙と自分を隠した過去。

 おぞましい程強大な異能の現象を目の当たりにした彼らは、疑われつつある“顔の無い巨人”の存在を、いつだって微塵も疑ってはいなかった。


 彼らの不幸は、かの存在と同じ国にいた事だろう。



(どこからこの機械音がっ、「まきな」とはなんだっ!? この機械染みた音声は何だというんだ!? “顔の無い巨人”の異能は白崎と同じ精神干渉系統の筈だろうっ!? いやっ、そもそもこのおぞましい出力の出所は本当にこの女から……? 駄目だ、正確な場所が探知できない……)


「……まさか、あの“顔の無い巨人”が、君の様な幼い少女だとは想像もしなかった」

「先生っ」

「分かっている。“骨格変異”」



 神薙が自身の異能、“製肉造骨”を使用する。

 生物の肉体を構成する全てを増幅、縮小、変異、抹消が可能な神域の異能。

 そして、長年自身の異能を行使してきた神薙であるからこそ、その異能の対象となる相手は自身のいずれかの感覚で相手を捉えていれば成立する。

 つまり、いかにあの凶悪な異能を振るった存在が相手だろうと、神薙の視界に入った時点でこれの回避は不可能だ。


 対象は数メートル先にいる“顔の無い巨人”の少女。

 効果は肋骨を内臓に突き刺すように変異させる。


 防御も、抵抗も不可能の異能の使用――――であるにも関わらず、“顔の無い巨人”の少女は痛みなど無いのか眉一つだって動かさなかった。



「それ、生物に対してしか効果無いのね」

「……馬鹿な」



 瞬き一つしない。

 まるで自分が生物でないとでも言うようなその発言に、神薙は自身の異能の不発原因が分からず、焦りを浮かべ。



「こんなお返し、どうかしら?」



 ほんの少しも状況を理解する時間を与えず、“顔の無い巨人”の少女はそんな事を言う。


 “ブレインシェイカー”という、音を使った精神を揺らす技術。

 普段は指を鳴らすことで使用するそれを、今は周囲を取り囲む真っ黒な鳥の群れが一斉に鳴き声を上げることで使用した。

 つまりそれは、万にも及ぶ異能持ちが一斉に攻撃を仕掛けたと同義。


 爆発が起きた。


 もはや何の鳴き声なのかも分からない暴力的な轟音と、大きすぎるがゆえに探知し切れない異能の暴力が、神薙と自分達を守るように腕を盾のように変形させた和泉を上から叩き潰した。



「あっ……ぐううぅぅ!!??」

「和泉君!?」



 異能を弾く外皮を纏っているということは、異能の出力に触れているということだ。

 物理的な衝撃に対する耐久の有無はともかく、刃のような攻撃性を持たされた異能を無限に受けられるわけではない。


 電気を通さない絶縁体にも、許容量を超えた電気に破壊される絶縁破壊という現象が存在するように、異能を通さない筈のものでもどうしようもないものは存在する。

 断頭台から落とされた刃の様な異能の攻撃を何とか凌ぎ切り、自分と神薙を守り切った和泉だが、うめき声と共に膝を突いた彼女の姿はとても無事とは言い難い。


 予想もしていなかった光景に、神薙は目を剥いて和泉を見た。

 外皮を貫通こそされていなくとも、今のたった一撃で和泉の余裕は消えている。



「和泉君、無事か!?」

「せ、んせいっ……!! この出力は……つぎ、は……駄目、です……!」

「ああ、もう一発欲しいのね?」


「顔の無い巨人っっ!!!」



 情けも容赦も無い“顔の無い巨人”の言葉に、咆哮に近い声を上げた神薙が前に出た。


 老人の体が変形する――――異能の起点を自分にした。


 骨格と筋肉が増大する。

 廃倉庫を埋め尽くすほどの大きさへと、やせ細っていた老人の体を核として、巨人の体を構築していく。

 人体について、これ以上ない程理解している神薙だからこそできる、この世に実在しない巨人という生物の肉体構築。


 顔の無い巨人という現象ではない、本物の巨人がこの世に姿を現した。


 危機を感じた鳥達を一斉に上空へと避難させた“顔の無い巨人”の少女は、8メートルに及ぶその巨人が自分目掛けて拳を振り上げているのをつまらなそうに見上げた。



「力技ね……試してみる?」

「「どこまでも余裕を晒してっ、後悔するなっ!!」」



 巨大な風切り音。

 太古に存在した恐竜ですら一撃のもと叩き潰せそうな容赦ない拳の振り下ろし。


 だが、その拳は終ぞ“顔の無い巨人”の少女に振り落とされることは無かった。


 彼女の背後の奈落から現れた、巨大な腕がその拳を掴み取った事で停止させられたのだ。


 正確に掴み取られた神薙の巨大な拳は、圧倒的な力で抑えつけられピクリとも動かせない。



「「ば、ばかな……君の異能は精神干渉で、物理的な干渉は無い筈では……?」」

「末期状態でなくても、これくらいは出来るのよ」

「「同じ巨人の力の筈、なのにっ、なんだ、これはっっ……!!?? ふざけるな、どうな」」



 奈落から、“顔の無い巨人”の名称となった巨人が徐々に姿を現していく。

 片手だけですら拮抗どころか完全に抑え込まれていた神薙が、片手から片腕、両腕、上半身、と姿を現していく巨人を押し切れるはずもない。

 逆に押し潰されるように姿勢を崩し、最後には掴まれた両腕を地面に叩き付けられ、さらに顔を掴まれ巨大な力で地面に圧し付けられていく。


 巨人が潰される光景。

 神薙が作り出した巨人が巨大な力を一方的に圧し付けられ、コンクリートの床に大きな亀裂が走り始める。



「こっちを見ろっ! “顔の無い巨人”っっ!!」

「言われなくても」



 全身を液状にした和泉が、体をいくつにも分裂させながら“顔の無い巨人”の少女目掛けて疾駆した。

 完全に戦闘のために作られた分身体の数は、和泉が一度に製造できる限界数である20にも及ぶ。

 銀色の人型をした『液状変性』の分身体達が、それぞれ全く異なる動きをしながら“顔の無い巨人”の少女を取り囲むように、時間差で飛び掛かっていく。


 1体ですら普通の異能持ちの天敵となりえる異能を弾く外皮を持ち、それぞれが別の液体特性を持った分身体達。

 その一斉攻撃は、どんな異能でも、どんな人間でも、それこそグウェンという世界最強と名高い異能持ちでさえ、対処は難しい。


 実際、相性が悪いと判断していた“顔の無い巨人”の少女も、周りに現れた分身体の数を見て少し悩む仕草を見せている。


 そして。



「う、ぐぉォォッ!!」



 神薙は自分の体を核として作り出した巨人の肉体と自分の体を切り離し、奈落から現れた“顔の無い巨人”を相手取らせると、自分は和泉に合わせて“顔の無い巨人”の少女目掛けて駆け出した。


 基本的に、異能は一人一つしか持ち得ないし、出力に上限は存在する。

 だから、どれだけ人智を越えた強力な異能だったとしても、異能を持つ人間が本体である限り、数の差には絶対的な有利性がある。

 異能持ち一人では万の一般人への対抗が難しいように。

 たった一人の異能持ちに対して、二人の異能持ちが有利になるのは当然だった。


 顔の無い巨人というこの怪物の異能の詳細は分からないが、少なくとも精神干渉系統が予想されるなら、下手に時間を掛ける事が出来ないのを二人は充分理解していた。


 だから、勝負を決めるならこの一瞬。

 その覚悟を持って、二人は少女に迫る。



「ここで消えるのはお前だ“顔の無い巨人”っ!!!」



 全身を銀色の液状に変異させた和泉及びその分身20体。

 さらに巨人化した剛腕を振るう神薙。


 神薙達にとってこれ以上無いくらい好機で、当然“顔の無い巨人”の少女にとっては窮地の筈だった。


 『液状変性』と『製肉造骨』。

 どちらも間違いなく、現存する異能の中でもトップクラスに入るほどの理不尽な異能。

 『泥鷹』グウェン・ヴィンランドやICPO最高戦力の一人レムリアにすら届きうる、世界レベルの異能持ち。


 そう評価しているからこそ、“顔の無い巨人”の少女も全力で迎え撃つ。

 少女は、手に持った携帯電話の画面を見せるように構えた。



「――――面倒。マキナ、轢き潰して」

『了解』



 また、何処からか響いた機械音声。

 出力元が分からない、圧倒的な異能の出力が場を支配した。

 目を見開いた神薙と和泉の視界一杯に、雷光のような異能の出力が迸った。


 ――――瞬間、“顔の無い巨人”の少女を取り囲んでいた分身体が残らず叩き潰される。


 彼らは体を構成していた液体を撒き散らし、何も出来ないまま掻き消える。



「あ……」



 一瞬、ほんの一瞬だ。

 敬愛する神薙のために、少しでも時間を稼ごうと動いた和泉が稼げた時間がそれだけ。


 そして彼女は足を止めた。

 分身体達の末路に放心したのではく、分身に使用した指の喪失の痛みによるものではなく、あまりに巨大な異能の出力によるものでもない。


 突如として目の前に現れた“顔の無い巨人”に、和泉は呆然と声を漏らして足を止めた。


 同時に反対側で、何もない虚空に持ち上げられた神薙が地面に叩き付けられているのが見える。

 神薙を抑え込んでいるだろう何かを、和泉は見ることも敵わない。

 それでも姿無き何かに抑え込まれている事態の理由は自分の前にいるこれしか考えられないから、なぜ自分の目の前にもコレがいるのか、和泉にはちっとも分からなかった。



「貴方達の言う巨人が一体だけだと思ったの?」



 和泉の疑問に応えるように“顔の無い巨人”の少女が問い掛ける。


 少女の後ろで、神薙が切り離していた巨人の肉体が跡形もなく叩き潰されている。

 きっと、あそこにも何かが存在するのだろう。


 和泉は自分の顔が引き攣るのを止めることが出来なかった。



「末期、早かったわね」



 少女がそう吐き捨てた。


 直後、巨人の拳が和泉の体を撃ち抜く。

 子供に投げ捨てられた人形のように、廃倉庫の壁に叩き付けられた和泉が激しく咳き込み、うめき声を上げるのを、ソレは目前で見ている。

 いつの間にか、目の前にいた“顔の無い巨人”の少女に、和泉は反応すら出来ないまま首を掴まれ壁に叩き付けられた。


 彼女の力は、到底人間のものとは思えない。



「捕まえた」

「あ、ぎぁ……!! や、やめ……」

「やめ? やめてって言ってるの?」



 神薙は地面に圧し潰され、和泉は首を掴まれ指1つ動かせない。

 和泉を殴り飛ばした巨人は、主人の背後に付き従うように立っている。

 音すら無く、身じろぎもしない巨人の姿は、今にも襲い掛かってくるのではと思う程に恐ろしい。


 誰がどう見ても抵抗のしようがない、完全に詰んでしまった状況。

 懇願するような和泉の言葉に、おぞましい光を宿した少女が不快そうに眉を動かす。



「そういえば、貴方には何も聞いてなかったわね」



 せせら笑いを浮かべた“顔の無い巨人”の少女は、掴んだ獲物を品定めするように空いたもう片方の手で撫でた。

 何をしているのかという和泉の疑問は、体に纏っていた異能を弾く外皮がズルリと裂けて地面に落ちていった事で、すぐに氷解する。

 読心を防いでいた、和泉の守りを完全に破壊したのだ。

 そして、包み隠され見通せなかった和泉の精神を、“顔の無い巨人”は丸裸にしたのだ。



「――――ああ、そう、なるほどね」

「な、に……? なんで、守りが……」

「貴方、生粋のサイコパスじゃない。善悪の価値観も碌に無いのに、よく世直しの手伝いをしようと思えたわね」

「――――」



 沈黙した。

 これまでの比ではない程呆然と、そして状況を理解して恐怖に表情を硬直させた和泉が震える声を出す。



「や、めて……お願い、それは、それだけは、やめて……せんせいの、前でだけは……それは……」

「へえ」



 和泉の懇願に対して“顔の無い巨人”の少女が浮かべた笑み。

 どんな人間よりも悪意に満ちたその笑みは、和泉の背筋を凍らせた。


 巨人に潰され、ボロボロになって元の形に戻った神薙が、和泉達の元へと投げ捨てられる。

 一瞬死んでいるのではと思う程の負傷だったが、しっかりと呼吸をしているため生きているのは間違いない。


 そして、生きた神薙を和泉のもとに運んだことに、意味するのは1つだ。


 “顔の無い巨人”の少女は語り掛ける。



「う、ぐ……ぉ」

「神薙隆一郎。貴方は平和を維持するためなら誰かの犠牲もやむを得ないと言った。どんな善人だろうと、立場や状況を甘んじたのなら犠牲になることも仕方がないと言った。そうでしょう?」

「な、にを」

「なら、私がこの女を貴方の手で始末しろと言ったら出来る? 数々の事件の実行犯で、無用に犠牲を出したこの女を、貴方の手で始末したら私は手を引くと言ったら、貴方は出来る?」

「…………それは」

「貴方達の過去は、事前にあらかた調べてある」



 言葉に詰まった神薙に、“顔の無い巨人”はさらに言う。



「この女は幼い頃火災現場から救われ、命に関わる大やけどを全身に負いながらも貴方に治療され助けられた。それから、火災で亡くなった両親に代わって養子として貴方がこの女を育てていたみたいだけど……不思議に思わなかったの?」

「やめて……おねがい、やめて……」

「……」

「この女には火傷以外にも怪我があった。打撲痕や切り傷と言った、まあ、虐待の傷ね。それで、火災の理由は煙草の不始末とされてるんだけど。そんな家が燃えて虐待されていた子供だけが助かるって中々無い確率だと思わない? 両親が寝静まった頃合いを見計らって、子供が火を放ったと考える方が合理的でしょう?」



 すすり泣きを始めた和泉と静かに目を閉じた神薙。

 それらを見る“顔の無い巨人”の目に侮蔑は無いものの、何処までも無機質だった。



「誰に助けを求める事も無く、自分の身を守るために自分の住居ごと纏めて焼き尽くす事ができる生粋のサイコパス。ううん、もしかしたら虐待されるうちに心が死んだ後天的なものなのかもしれないけれど、いずれにしてもこの女の価値観は、普通の人にとっては危険極まりないもの。同情の余地はあるかもしれないけれどね」

「……なにが、言いたい?」

「たとえ私を打倒してこれまでを取り戻したとしても、その女の価値観はまた無用な犠牲を生むわ。これは貴方の言う、剪定対象でしょう? 貴方は平和を乱すという理由で、これまで育てて来た娘を手に掛けられるのかと聞いてるの」

「…………」



 沈黙した神薙に、和泉が泣き声を上げ始める。

 必死に守り続けて来た秘密を明かされ子供のように泣きわめく和泉を、“顔の無い巨人”の少女は特に何も言わないまま拘束し、神薙の様子を見続けている。


 数十秒沈黙していた神薙が、ゆっくりと顔を上げた。



「……彼女は私の娘だ」

「それで?」

「娘の不始末は親が付けるものだろう。娘が悪い事をしたのなら、責任は親も持つ。彼女が悪い事をしたら私が始末を付けるべきで、対処するべきだったのも、君の言うように私なんだろう」

「……それで?」



 強く目をつぶった神薙がゆっくりと吐き出した。



「だが……だが、私は、和泉君を……その子を手に掛ける事は出来ない」



 予想もしてなかった神薙の言葉に、和泉が泣き腫らした顔を神薙に向けた。

 反対に“顔の無い巨人”の少女は眉を顰めた。



「和泉君……雅。そんなに泣かないでくれ。私はね、最初から分かっていたんだ。だてに“医神”だなんて呼ばれていない。君の傷を見て、火災の状況を知って、そんな可能性はずっと考えていた。考えていた上で君を愛すると決めたんだ。今更そんなことを知ったからといって、君を嫌う事なんて無い」

「せん、せい……せんせいっ、せんせいっ!」



 違う意味でボロボロと泣き出した和泉に反して、“顔の無い巨人”の少女は冷たく神薙を睨む。

 彼女の怒りは収まるどころか、さらに膨れ上がっているようにさえ見えた。



「……それ、言っている事が無茶苦茶よね。将来的な危険性を考えて見知らぬ誰かの犠牲を許容するのに、将来的に誰かの犠牲を生む娘の犠牲は認めない。他人だからと犠牲を強要する、貴方の言う悪と何が違うの?」

「……そうだね」

「善を為し悪を挫く。それで、他人は善人であっても犠牲を強いるのに、身内に悪がいても手を施さない。自分達の積み重ねた罪さえなかったことにして、のうのうと平和を謳歌する……それって、おかしいでしょう?」



 一呼吸置いた。

 彼らの色んな擦れ違いや想い違いを想定し、これまで積み重ねてきたものを想像する。

 色んな事情や切っ掛けがあって、それでこの場所に至ることになったのだと酌量する余地を考え、結局口に出たのはこんな言葉だ。



「ふざけるな」



 怒りに染まった異能の出力が暴れるように噴出する。



「そんな矛盾した自己満足の正義感で人が死ぬの?」



 怒りに満ちた感情を、問い詰めるような激情を言葉に乗せる。



「死ってそんなに軽いものなの? 異能があれば異能がない人はどうしても良いの? 白崎天満のように、自分以外はどうでも良いと心底思っている人間じゃなくて。欲望に浸った醜悪でも無くて。死の痛みを良く知る貴方達が、どうしてそんなに簡単に人の生死を決めてしまうの?」



 ただ、“顔の無い巨人”の――――少女の目からはもう、おぞましい光は消えていた。

 あるのは、目いっぱいに溜まった涙。



「人が悲しむ、人が苦しむ、人が嫌う。大切な人がそんな風になるのが嫌だと思うなら。それだけ、人を想う心があるのなら……」



 いつの間にか顔の無い化け物は消えていて、年相応の少女がそこにいた。

 大切なものを失ってしまって、傷付き、泣きじゃくる少女がいた。



「……どうしてその優しさを少しでも、もっと別の誰かにも向けられなかったんですか? どうして、優しい人達を手に掛けられるんですか? どうして悲しむ人達を見ようともしないで、どうして、神楽坂さんを殺したんですか……?」



 空いた片手で胸を搔き抱き、疲れたように肩を落とした燐香はポツポツと言葉を落とす。



「神楽坂さんが貴方達に、いったい何をしたっていうんですか……? 神楽坂さんは、大切な人をいっぱい失って、あれだけ苦しんで、それでも藻掻いていたのに、どうして……」



 行き場を無くしてしまった異能の出力が消える。

 和泉の首を掴んでいた手を離して、フラフラと後退りした燐香がその場に座り込んだ。


 慌てたマキナが即座に周囲の家電やカラス、燐香の携帯から異能を行使し、防衛網を敷く。

 ほとんど制圧し切っているとはいえ、まだ動く敵を前にして無防備を晒すなんて絶対にやってはいけない事なのに、とマキナは不満の想いを乗せた危険信号を燐香に送る。


 しかし、マキナのその心配は杞憂だ。

 質は変わっても、燐香の怒りの矛先は神薙達に向けられたままなのだから。



「……貴方達は、今日を生きたかった罪も無い人達を何人も殺したんだ……」



 落合兄妹も、伏木航も、神楽坂上矢も。

 もしかすると自分の兄である佐取優介も、一歩間違えばその中にいたのかもしれない。



「…………許さない、お前達は絶対に許さない」



 彼らが冷徹なだけの人間ならそれでよかった。

 これまで会って来た犯罪者達のような、醜悪なだけの人間性であれば彼らの精神に手を加えることに何の憂いも無かったのだ。


 事情があった、彼らなりの正義もあったのだろう。

 純粋な善人とは言えなくても、醜悪だと切り捨てるほどの悪人でも無かった。

 けれど、彼らを許すかと言われると、そんなことはあり得ない。

 何もかもを許すには、奪われたものは多すぎた。


 なら、どうするのか。



「……私がやる、私がやってやる。たとえ、これまで貴方達が起こして来た非科学的な犯罪事件の数々を。誰も、法も、神様も裁かなかったとしても、私が、私の憎悪に従って償わせてみせる――――絶対に」



 そんなこと、最初から決まっていた。

 燐香は、ただ神楽坂上矢の1人の友人として彼らに手を下すと決めていたのだ。

 神楽坂の望みがどうであれ、たとえこの想いが間違いであったとしても、それでも良いと思っていた。


 そうでなければあまりにも、生きられなかった人達が報われない。



 そんな、子供と呼べる年齢の少女が目に涙を浮かべ、ただ怒りを向けてくるのを目の当たりにして神薙は苦しい表情を浮かべた。


 彼が目指していたのは、子供にこんな表情をさせる未来でなかった筈なのに。

 何処で道を違えたのだろうと、そんな言葉が神薙の頭を過る。

 自分が作り出した子供が泣きじゃくる光景に、神薙の抵抗する意思はぽっきりと折れてしまった。


 燐香がふらりと立ち上がる。

 超高密度の異能が燐香の腕を覆うように流れた。


 廻らせ、巡らせ、罪人の首を落とす断罪の刃のように変質させる。


 人格さえ破壊するその力は、異能持ちが一目見れば恐ろしい凶器だと分かるほどに凶悪だ。

 とっさに自身を守るように動こうとした和泉を、神薙は制止して歩いて来る燐香を座ったまま見詰めた。



「君が、裁いてくれるのか。ああ……それなら、悔いはない。雅、済まない。最後まで私の戯言に付き合わせてしまったね」

「……私は先生に救われた。先生だけが私の全てなんだ。先生と一緒に居られるなら、どこまでも。先生は……もう、良いのかい?」

「ああ、そうだね。もう充分だ。私はきっと、長生きしすぎたんだろう」



 燐香が二人の前に立つ。

 燐香は酷く感情的な目で睨むように彼らを見下ろし、一方で自分達に下される未来を受け入れた神薙達の姿は満足感に満ちている。


 どちらが優位に立っているのか分からなくなるようなその光景は、燐香の手に纏わされた破壊の力で終わりを告げるのだ。



「――――命は奪わない。けど、貴方達の自由意識は消えてなくなる。価値観も、善悪観も、情緒も、感情も。全て私が定めた単一の物差しに従って生きて、この世界の誰かの為に、その命尽きるまで罪を償い続けろ」



 それが、燐香が下す罰。

 酷く合理的で無駄がなく、それでいてあまりに冷酷な厳罰。

 およそ倫理的ではない、他人の精神にメスを入れるその非人道的な異能の行使。

 昔と同じ、悪意に満ちた異能の使用を、燐香はその言葉と共に行おうと手を伸ばした。



 だが、燐香の手が二人に触れる、その最後の一線を越える直前。

 佐取燐香という少女の何かが終わってしまう直前に、それは現れた。



『御母様、誰か来る。かなり早いゾ。これは、飛禅飛鳥と、……ム?』

「…………え?」



 この状況でも、あらゆる反撃を想定していた燐香が完全に虚を突かれたように呆然とした声を漏らした。

 ゆっくりとそれらが向かってくる方向へ、廃倉庫の出入り口へ顔を向けてから、再び燐香は鋭い目を神薙達に向けた。



「……今度はどんなトリック?」

「……何を言っている?」

「ふざけないで。受け入れたような態度を見せた挙句、まだこんな搦め手を使って生き延びようとするなんて」



 冷たく、無機質に、燐香の声質が変わり始める。

 年相応の怒りを見せていた少女が、顔の無い怪物へと変貌を始めて。

 再び、奈落の底から湧き出るような異能が、燐香から溢れ出す。


 だが、神薙は状況が理解できないのか、困惑の表情を浮かべて燐香を見上げている。



「……ああ、貴方の纏った外皮も先に剥がしておくべきだった。けど良いわ。貴方達がそのつもりなら良い。私は最後まで徹底的に貴方達を圧し折るだけだから」

「――――佐取っ……!」



 目におぞましい光が宿った燐香の背後から聞き慣れた声が響いた。

 燐香は自分の名を呼ばれたことで目を見開いた。



「……どうして……」



 振り返った先にいるのは飛禅飛鳥と、彼女の肩を借り乾いた血がこびり付いた服を着る汚れた男、神楽坂上矢の姿。


 さきほどの和泉の擬態と同じで、体中の負傷や汚れは真に迫るものがある。

 息を切らしながら廃倉庫の状況を見渡した彼らは、燐香を見てさらに困惑の表情を浮かべた。

 それから彼らは本物のように燐香の無事を喜び、顔を綻ばせている。


 燐香は自分が動揺しているのが分かる。

 散々探した彼が、こんな場所に現れる筈が無いのに。



「ま、間に合った……」

「佐取っ……!」


「近寄らないで」



 だから、燐香はその偽物達に冷たく吐き捨てた。

 神薙達に精神干渉を掛け、攻撃を許さないようにしながら、新たに現れた偽物達に読心を向けてその正体を考えていく。


 和泉の擬態。

 神薙達の別の仲間。

 『UNN』のような第三者の介入。

 そして現状を作り上げるのに考えられる異能はどんなものか。


 つらつらとそんなことを考え、まるで痛々しいものを見るような顔をする偽物達を冷たく観察する。



「……」



 だが、いくら時間を掛けても考えの全てが当てはまらない。


 “読心”が通用する。

 彼らの思考が読める。

 本当の彼らが考えそうなことばかり考えている、視線の先にいる二人。

 何か行動を起こすことも無く、ただ燐香の気が済むまで彼らはじっとそこに留まっている。


 今はただ、そんな彼らの存在が不愉快だった。



「なんで……」

「佐取、もう良いんだ。俺の不注意だった。佐取に責任は無い。だからもう、自分を責めるな」

「黙れ偽物、私の前から消えろ」

「……佐取」



 相手に隙など与えるものかとあらゆる奇襲の可能性を考慮して。

 神薙と和泉の挙動におかしな部分は無いかと意識を割き。

 何よりも偽物達が妙な行動を取らないか監視する。


 ……それから。


 …………それから。


 ついに何も思いつかなくなってしまった燐香はその場で立ち尽くし、口を噤んでしまった。

 あらゆる手で彼らの偽証を暴こうとするが、あらゆる手を講じる度、彼らが本物である証明がされてしまう。

 そんな筈がないのに、彼らが本物であるかのように思えて仕方なくなって。


 他人の心を読むことが出来る。

 こんな異能を持っているくせに燐香はまた、何が正しいのか分からなくなって、ただぼんやりと彼らを見詰めてしまう。


 自分の血に塗れた男が、そんな燐香にゆっくりと話し掛ける。



「そいつらは、佐取がやらなくていい。佐取の手を汚す必要なんてない。俺が、警察官として、そいつらを逮捕する」

「…………何を馬鹿な事を。それはこいつらを助け出すための方便? 馬鹿にしないで、異能犯罪を逮捕だなんて出来る訳がない……こんな非科学的な事をどうやって証明するというの? こんなのいくら証拠を出そうとも、不能犯にしかなり得ない。それに、そもそもそいつらは」

「必ずだ……佐取。俺が必ず、異能を証明して、彼らが起こした犯罪の数々を白日のもとに晒して見せる。どれだけ時間が掛かろうが、どれだけそれが困難だろうが。それが卯月先輩に最後に託された、警察官としての俺の使命だから……だから頼む佐取」


「佐取だけに責任を負わせるなんて事をして。俺に、これ以上俺自身を嫌いにさせないでくれ」

「……」



 くしゃりと歪んだ表情の縋るようなそんな言葉に、燐香は無意識の内に手に纏わしていた異能の刃を解いていた。


 おぞましい光が宿っていた燐香の瞳が揺れる。


 光が消えた今の彼女の目には、二人の姿しか映っていない。



「……帰ったら、約束していた旨い定食屋に行こう」

「神楽坂先輩?」

「勿論、飛禅も一緒にな」


「――――……」



 それは、少し前にした約束の話。

 神薙達が知りえない、小さな取るに足らない下らない約束。


 燐香はフラフラと、偽物達の元へ歩みを進める。

 そして、目の前まで辿り着いて、神楽坂の顔に手を伸ばし触れた。


 彼は、間違いなく本物だった。

 本物の神楽坂上矢だった。



「………………ぅ……」



 燐香が冷徹で、無機質だった顔を俯けて、沈黙する。


 数十秒に渡る沈黙。


 けど、それが破れたのは一瞬だった。


 燐香の感情が爆発した。



「――――うわあああああんっ!!! かぐらじゃかしゃんっ、死んじゃったがと思いましたぁぁぁ!!!」


「うるさっ!?」

「うおおっ!? と、飛び付かないでくれ、傷がまだ、響……ぃぃ!!」



 涙でぐしゃぐしゃになった顔の燐香が、神楽坂と飛鳥目掛けて飛び付いた。

 体重が軽い燐香の勢いに乗った突撃をボロボロの神楽坂達が受け止め切れる筈もなく、三人諸共倒れて床を転がっていく。


 今まで溜め込んでいたものを全て吐き出すように大声で泣き続ける燐香を、圧し掛かられて倒れている神楽坂達が困ったように優しく撫でた。

 自分を撫でる温もりに、さらに「びえええんっ!」と言う、恥も外聞も無い幼子の様な泣き声を大きくした燐香に、神楽坂と飛鳥は噴き出したように笑う。


 あれだけ恐ろしい雰囲気を纏っていた燐香の姿はもうどこにもなかった。



「悪かった、心配かけたな」

「へっ、ざまあ見なさい。私だってこれくらいやって見せるんだから、最初から素直に私に頼っておけば良かったのよ。この馬鹿」

「あぶぶぶぶっ……!! わ、わだじはやっぱりポンコツですぅ……!! なんにも出来ないアホの子なんですぅ……!!!」

「ちょ、ちょっと、泣かないでよ……! 警察官の強権使えるだけ使ってやっただけなんだから! アンタが悪いんじゃないって……もうっ、この子の面倒は見てますから、神楽坂先輩はあいつらの始末をお願いします! それとも、手伝いましょうか?」

「いや……そうだな、俺に任せてくれ」

「かぐらざかさんっ、危ないからだめですっ……!!」

「大丈夫だから。少し待っててくれ」



 泣き続ける燐香を心配そうに眺めた神楽坂は、しがみついている彼女を飛鳥に渡すと身を起こした。


 そうして見据えるのは燐香達の事態を理解し静観していた、神楽坂が長年追い続けていた事件の黒幕。


 神薙たちの元へと、神楽坂は歩を進める。

 それを見た神薙が少しだけ惜しむように燐香を見て、神楽坂に視線を向けた。



「……怪我の調子はどうだい?」

「おかげさまで」

「それは良かった……下らない裁判ではなく、あの子の手に掛かれなかったのは少々残念に思うが……子供の手を汚すことにならなくて安心している自分もいる。相反する感情だ。度し難い事だね。そう思わないかい、神楽坂君」

「……まず、どうして俺を殺さなかった。落合先輩や伏木を手に掛けたのは間違いないんだろう? お前達に人を殺す躊躇なんて無い筈だ」

「そんなことを今聞くのかい? さあね、私にもよく分からない……ただ……君は怪我をしていた。だから、怪我が完全に治るまで、私の異能を行使したとはいっても安静にする期間が欲しかったんだろう。本格的な尋問は、君の容態が落ち着いてからと思っていたのかもね。職業柄の馬鹿な考えだったんだろう。結局、そんな時間的な余裕、私に残っていなかったようだがね。君、子飼いの異能持ちが、まさかあの“顔の無い巨人”だとは予想もしていなかったよ」

「顔の無い巨人……?」



 聞き覚えのある単語に反応して、チラリと未だに号泣している燐香の姿を確認し、少し沈黙する。


 だが、それは後で良いと整理した神楽坂が次に聞くべきことを口にした。



「落合卯月、落合睦月、伏木航。そして『薬師寺銀行強盗事件』はお前ら、若しくはお前らの仲間がやったことで間違いないな?」

「せ、先生はそいつらを直接手に掛けていないっ! 私と白崎がやったんだ! 『薬師寺銀行強盗事件』は白崎の奴が、警察情報について教えて欲しいと言ったから、私が擬態で得た情報を教えて、少しでも先生の役に立とうと思って一緒に計画を立てた。先生が知ったのは全てが終わってからだった……先生は悪くない。私が、先生を理解した気になって、暴走しただけだ」

「……神楽坂君。今、雅が言った事は事実だ。だが、だからといって私の手が血に染まっていない訳ではない。無能な政治家や悪意に満ちたマスメディア。手に掛けた官僚は数多い。私の行いを見て、彼女が思い違いをするのは当然だ。私が彼女を幼少時から洗脳したようなものだ。彼女には、情状酌量の余地がある」

「先生!?」

「そういう話は後で聞く。今は俺の質問にだけ答えろ」



 庇い合おうとする神薙達を制し、神楽坂は次の質問をする。



「白崎天満とはどうなった?」

「決別した、そう言うべきかな。彼は私の方針に納得してなかったし、私も彼の過激なやり方には思う所があった。思えば、彼は手に入れた異能の力に酔っていたんだろう。つまり、“顔の無い巨人”の侵攻の前に私達の関係は崩壊していた。だからこそ、和泉君は外皮で白崎君を守るのを拒否して、彼は国外に逃げ出さざるを得なかった……彼のその後の事を、私は詳しくは知らない」

「そうか」



 そして、神楽坂は最後の問い掛けを行う。



「最後だ……自首をするつもりはあるか?」

「神楽坂さんっ、待って下さい!」



 その質問に割って入ったのは燐香だ。

 涙をボロボロとこぼしながらも、必死に彼のしようとしている事を引き留めようとする。



「そいつらが自首したところで、異能が犯罪の因果関係として完全に認められていない今っ、そいつらの罪がもみ消されるのは目に見えています! そいつらがやって来た悪事は多いですが、同時にそいつらが為してきた偉業や善行も多いんです! この国の司法や政治的な判断に、完全な公平なんて存在しない! 区別も、特別待遇も、忖度も、世界にはいくらでも存在するから……」

「ああ、分かってる。それでも、佐取に罰を頼むなんてことはしない。俺を想って言ってくれてるのは分かってるよ。ありがとう佐取」



 燐香へ振り返りそう言った神楽坂。

 だが、その柔らかな表情と言葉に反して、彼の手は震えるほど強く握り締められている。

 恩人や大切な人、慕ってくれた後輩を手に掛けられて何も思わないなんて、神楽坂だってある訳がなかった。


 彼が理性を保てているのは、あくまで自分の憎悪よりも、燐香や卯月との約束が重いからだ。

 それを理解したのだろう、燐香は何か言いたげな顔をしながらも口を閉ざす。



「自首をすると思うのかい? これまで君を苦しめて、これまでこれだけの事を裏でやって来た私に、そんな良心が残されていると?」

「仮定の話だ。この場で、お前らを犯人と知る者がこれだけいて、それでもまだ過去の罪から逃れ、誰かを傷付けようとするのか? もしもお前らが、お前が嫌う、保身に走り強権を振るう権力者のように、罪を隠し罰から逃げ続けるのなら、俺は必ずお前らを追い続ける。どれだけの年月を経ようが必ず、異能を証明し、罪を立証して、必ずお前達を正式な形で逮捕する」

「なるほど、それが自首をしない選択をした時の話だね」



 何処か影が差した顔で、暗く笑った神薙は隣にいる和泉を見遣る。

 それから、ようやく泣き止み鼻を啜っている燐香を見て、小さく疲れた様な溜息を吐いた。



「…………もしも、もしも私が自首をすると言ったらどうする?」

「その時は」



 品のある老人と汚れた壮年。

 正義を掲げた老人と正義を秘めた壮年。

 二人はお互いが目を逸らさず、じっと睨み合うように視線を交わした。



「お前の良心を信じている訳じゃないが、もしもそうすると言うのなら……お前には警察に突き出す前に、命を奪った人達とその家族のもとに謝罪に回ってもらう。償うべき罪を、お前にはしっかりと目で見てもらう」

「それは………………随分酷い罰だね」



 そう言って。

 神薙隆一郎は憑き物が落ちたかのように静かに笑った。


 神薙にとって、何も気負うことなく笑うのは随分久しぶりで。


 その姿はどこにでもいる、ただの穏やかな老人の姿だった。






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― 新着の感想 ―
[一言] 某探偵漫画の笹◯さんみたいにならんくて良かった
[気になる点] うーむ。 あんまり納得いかない。 面白いから読むけど。 [一言] まだ最新話まで読めてないけど、"俺たちの冒険はこれからだエンド"になっちゃうのかな?
[気になる点] うん、結構矛盾点はあるよね。 数日間接触しなかったという事は、治療自体は初日で終わっていて、尋問するために液体人間に世話をさせていたと。で、医神が初日だけで治療を終えているなら、快復…
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