それはきっと苦い味
朝日が差し込む病院の一室。
ひときわ光が差し込む窓際のベッドの上で、目覚めたお兄ちゃんは眩しそうに目を細め脇に置かれたテレビから流れるもう何度目か分からない同じ内容のニュースに目を向けた。
それから、ベッドの近くにいた私を一瞥するとその端正な顔を歪めた。
私はお兄ちゃんのその反応に少し心が折れかけながらも、負けじと声を掛ける。
「おはようお兄ちゃん、入院初日からだから、数日ぶりかな。加減はどう?」
「……」
クルリと、お兄ちゃんが黙ったまま私に背を向けた。
微妙な顔をしたお兄ちゃんが、床に視線を落としたまま顔を上げようとしない。
それどころか、隣にいる私を意図的に見ないようにしているのか、私がせめて視界に入ろうと動くたびに、お兄ちゃんは体ごと向きを変えてしまう。
どうして、なんて考えるまでもなく、お兄ちゃんはボソリと独り言を呟いた。
「俺…………あの時、凄い恥ずかしい事を言ってた気がする……」
「そ、そんなことないよ!? 格好良かったよお兄ちゃん!!」
羞恥で真っ赤に染まった顔を私に見られないように、お兄ちゃんは必死に私から顔を背け続けていた。
病院で目覚めてから二度目となる私との面会、つまりあの大学襲撃事件からおよそ一週間が経つ訳だが、どうやらあの時の恥ずかしさが今になってぶり返したらしい。
あの溶解人間に追われていた時、私に対して言った事が、お兄ちゃんにとってはとてつもなく恥ずかしいようなのだ。
病室の布団に包まるようにして私の視線から逃れようとするお兄ちゃん。
私は何とかフォローしようとしているが、別にこの言葉はお兄ちゃんを元気付けようとした中身の伴わないものではない。
あの時のお兄ちゃんの言葉は、ちゃんと私の心に響いていた。
「……あの時言ったのはアレだ。追い詰められて、咄嗟に口に出ただけの言葉で……その……本心、じゃない訳じゃないが……忘れて欲しい……」
でも、お兄ちゃんは私と目も合わせないままそんなことを言う。
……まあ、こんなことを言っているが、人間って追い詰められた時に出る言動は普段抑圧しているものが多いから、照れてしまっている今のお兄ちゃんのよりもあの時のお兄ちゃんの言葉の方が本心に近い筈。
つまり、色々あったけどお兄ちゃんは本心では私が嫌いじゃないのだ。
「……えへ」
「!! 燐香っ、なんだ今の笑いは!? お前っ、信じてないだろ俺の――――」
「えー? 私わかんないー。無理やり一人暮らししたくせに、寂しくて私達との家族写真を携帯の待ち受けにしていた人の言葉なんて全然わかんないよー」
「――――おっ、おっ、お前っ!? なんで……!?」
「いやぁ……私も忘れるくらい昔の家族写真が待ち受けにされてて、思わず自分の携帯のフォルダから同じ写真が無いか探しちゃったよ。うんうん、ほら見てお兄ちゃん! 私もこれ待ち受けにしたの。お揃いだねー」
「うぐぎぎぎぎっ……!!??」
表情を七変化させるお兄ちゃんをニヤニヤしながら眺める。
これまで中々、こうしてお兄ちゃんをからかった事が無かったから、ついつい面白くなってしまう。
とまあ、こんなところで素直になれないお兄ちゃんいじりは止めておく。
やりすぎて、意固地にさせてしまうのは今回の私の本意ではない。
今日、私が言いたいのはそういうことでは無くて……。
「……今回はたまたま深刻な怪我にならなかったけど、今後はもう自分を盾にして誰かを守るようなことは止めてね」
「……燐香、お前」
私は、病室のベッドで横になる、入院1週間を迎えたお兄ちゃんに対してそう言って、切り分けた果物を差し出した。
あの大学での襲撃及びお兄ちゃんの住んでいたマンションへの放火があってから、私はお兄ちゃんを病院に担ぎ込んですぐにお父さん達に連絡して状況を説明した。
直ぐにお父さん達は病院に駆け付けてくれ、お兄ちゃんは診断の結果、幸い重度には至っていないし後に残ることは無い程度の火傷だが、1,2週間入院する必要があることなどが告げられた。
燃えたお兄ちゃんの私物等の話は置いておいて、お兄ちゃんの命に何の別状も無かったのは不幸中の幸いだったと思う。
幸い大事に至らず、病院での治療を受けてから少しして、お兄ちゃんは目を醒ました。
お兄ちゃんが目を醒ました姿を見た時は、思わず私は安堵で膝から崩れ落ちてしまった。
困惑するお兄ちゃんに縋りついて、お父さんや桐佳がいる前でグスグスと泣いてしまった私は、きっとどうしようもないくらい情けなかっただろう。
ぼんやりと、私が切った果物を口にするお兄ちゃんを私は眺める。
「……ねえ、お兄ちゃん。あの時、どこまで私の話が聞こえてたか分からないけど、お兄ちゃんが考えていた私に対する疑惑は全部当たってるよ」
「っっ、んぐっ!? ま、まて燐香っ、周りに人がっ……」
私の口火を切った言葉に、口にしていた果物を噴き出しそうになったお兄ちゃんが制止しようとするのを、私は逆に遮る。
「聞こえないよ。ううん、違うかな。私達以外は認識できない。そういう風にしてるから」
「それは…………そんなこと出来るのか?」
「出来るんだ。私のはそういう力だからね……例えばね、『 』。これ、聞こえた?」
「…………聞こえなかった。いや待て、例えば、の後に口が動いたのも分からなかったぞ。本当は話してないなんてこと……ないんだな、本当に……」
「うん。『佐取燐香』って言ったんだ、凄いでしょ? 聞き覚えがある言葉でも、目の前で話してても、認識できないんだよ」
愕然としたお兄ちゃんが、手を私の口へと伸ばして触れたので、もう一度やって見せる。
意図的にだが、お兄ちゃんの指の感触は残しておいた。
お兄ちゃんの目が見開かれる。
「……口は動いてる。燐香、これ……相当ヤバい力だぞ」
「非科学的な現象、つまり、一部の人間に宿った超常的な才能。私はこの力を、異能と呼んでるの」
「これが……あの怪物を実際に目の当たりにしたが、世の中でこんな力を使える奴が本当に……」
「私のこれは……えっと……精神干渉。知性体の精神に干渉できる力。この前襲って来た奴は、仮呼称だけど『液状変質』かな。体を液体に変化させ、変化した液体には特性を付けられるんだと思う。発火性とか酸性とかね。こういう風に、目に見えたり見えなかったりとか物理的なものかそうでないとか、才能の発現には色々種類はあるけど、総称して異能、異能持ち」
そんな風に、私はお兄ちゃんに対して今までずっと隠してきた秘密を告白した。
世界にはこういう風な力を持つ人が一定数いて、世界でも認識はほとんどされていなくて、一般人の中に潜むようにして生活している、特殊な才能を持つ者達。
自分を含めてそう言う存在がこの世にはいるのだと、お兄ちゃんに告白した。
「全部が全部じゃないけどね、そういう存在は良くも悪くも自分本位なんだよ。誰かの為に自分の特殊な力を使う人なんて滅多にいない。そりゃあ歴史上の聖人として数えられている人なんかは、そういう人だったかもしれないけど……基本的には、自分さえよければそれでいい。才能を持たない人から何かをしてもらった訳でもないから、才能を持った自分達が無償の奉仕をするなんてありえない。そう考えるのが普通なんだ」
「……その、異能持ちは悪人ばかりなのか?」
「ううん。そういう訳じゃないよ。でも、世界から異能持ちに対する扱いってあんまりよくなくてね。一般的には異能は周知されてないんだけど、やっぱり一部の、偉い人達とかは事情を知ってて。ちょっと前までは、見つかった異能持ちは……その、色々非人道的な扱いを受けてるところもあったの。だから、異能を持っている人達は、その力を隠れて自分の為だけに使うのが普通の考えなんだ」
だから、と私は続けた。
「お兄ちゃんみたいに、異能を解明しようとする人は嫌われる。異能持ちにも、一部の事情を知る偉い人達にもね」
「……」
どうしたものかな、と頭を掻いて言葉に悩む。
大学で、お兄ちゃんの研究を応援すると言った言葉に偽りはない。
だが、今の世界情勢的に危険であり、そして、今回の異能持ちによる襲撃でほとんど知る人のいなかったお兄ちゃんの研究は、少なからず目にする人が増えたのも事実だ。
その研究を続けることがこれからどれだけ危険を呼ぶのか、今の私には見当も付かなかった。
テレビからもう何度見たか分からない飛鳥さんの映像が映し出される。
火災で逃げ場を無くした人々を『浮遊』させて救い出す飛鳥さんの姿は、まるで物語から飛び出してきたヒロインのようで、今は日本中を熱狂させている。
アイドルの様な立ち振る舞いで笑顔を振りまく飛鳥さんの姿は、きっと普段の彼女の姿を知る人でないと違和感にすら気付けないだろう。
飛禅飛鳥と言う女性警察官は、未知であった『非科学的な現象』を携えた市民に味方する正義のヒロイン。
恐らく世間の大多数の意見としては、飛鳥さんを好意的に受け入れるものが大半だろう。
だが、これを見た、隠れ潜んでいた異能持ちやこの事実を隠したかった権力者はどう思い、どう動くのか。
躍起になって火消しに走るだろうか。
飛鳥さんに続くように、表舞台に立つのだろうか。
傍観するか、諦観するか、それともこの流れを利用しようとするか。
全ての思考や感情を理解することは、今の私には出来ないけど。
「……それなら、俺はこんな研究やめるよ」
私が何を言うよりも先に、お兄ちゃんはそう言った。
驚く私をお兄ちゃんはじっと見据えた。
「燐香が、こんな奴らが起こす事件にもう関わらないと言うのなら。俺は何の後腐れも無く研究をやめる」
「――――……」
「燐香、俺はお前を理解したかった。お前に勝ちたかったし、お前の兄でいたかった。だからこの研究を始めたんだ」
望んだ形ではなかったけれど、私の力を知れた。
私の秘密を聞いて、世界の裏事情を知れて、それがどれだけ危険なのか理解した。
であれば、もう無理に研究を続ける意味なんてないのだとお兄ちゃんは言う。
「お前とは色々あったけど、燐香がそういう視点を持っている事を知れた。燐香がどういう悩みを抱えて俺と接していたか分かった。もういい、もう十分だ。今回の一件を経てよく分かった。これ以上お前が傷付くのは見たくない、あんな奴らにお前が襲われるなんて考えたくない。……なあ、燐香。これまでの事を謝る。これまでずっと冷たくしててごめん。これからは家族を何よりも優先して考える。だから」
そう言って、私の手を握る。
「もう、あんな奴らに関わるのなんて止めてさ。父さんと桐佳と、俺とで……何気ない毎日を過ごしていこう」
それは、前に私がお父さんに向けて言った言葉で、きっと私がずっと聞きたいと思っていた言葉だ。
家族に私を受けいれて欲しかった。
どんな悪意にも家族を奪われたくなかった。
お母さんとの最後の約束を守りたかった。
見て見ぬふりさえしてしまえば、求めていた全てが揃うようなお兄ちゃんの言葉だけど、今それはできない。
「…………ごめんねお兄ちゃん。それは出来ないんだ。最近頻繁に起きてる一連の事件には、異能を利用したものばかりで、まだその根本を断つことが出来てないの。今の状況全部忘れて日常に戻るのは、危険に怯えるだけの生活をすることになるから。そんなの、私は嫌だ」
「それは……燐香がやらないといけない事なのか?」
「私、警察とか国とか、国際組織だとか。全部信じてないの。だって、私一人どうしようも出来なかった人達に、期待なんて出来ないよ」
「…………燐香一人にどうしようもなかったって、どういう……いや、顔の無い巨人ってお前まさか……」
「あっ、とっ、ともかく! そのふざけた奴らをボコボコにするまでは協力するって言う約束もあるから! 完全に関わらないっていうのには、もう少し時間が掛かるの!」
ジトッとしたお兄ちゃんの視線から逃れるように、顔を逸らしながら私はそう宣言する。
ダラダラと汗を掻き始めた私の横顔をしばらく眺めたお兄ちゃんはそれから、仕方なさそうに溜息を吐いた。
「そうか……それなら俺も、研究をやめる訳にはいかないな」
「おっ、お兄ちゃん何を言ってっ……!? 危ないんだよ!?」
「燐香がそういう危ない奴ら相手に少しでも上手く立ち回れるよう、異能とやらの解明をしないといけない、そうだろ? 己を知ることは戦術の第一歩だが、相手の裏をかくなら相手のことを知る必要がある。異能とやらの仕組みが分かれば、その分だけ優位に立てる筈だ」
お兄ちゃんの目に強い決意が宿る。
あやふやで先の見えなかった目標が定まったというような、乗り越えるべき壁を見付けたというような、久しく見なかったお兄ちゃんのそんな晴れ晴れとしたそんな顔。
「この前見た異能持ちとやらを相手にして、俺は何か出来るとはとても思えなかった。きっとどんな異能でも、直接出会ったら俺にはどうしようもないんだろう。異能持ちに対して何も持たない俺が何を言ったところで、燐香の意思はきっと止められない。だったら、俺は俺のやれることをやるしかない」
敗北には慣れてるんだ、そんなことを言ったお兄ちゃんが私を見詰めて寂しげに笑った。
「……それくらいやらせてくれ。俺は、妹のお前を一人危険な目に遭わせるなんて嫌なんだ」
「ぐ、ぐぐっ……ぐにぬぬぬっ……」
異能も持ってない人が異能の関わるものに近付く危険性。
実際に異能による怪我をしているお兄ちゃんへの心配。
それでも、お兄ちゃんから向けられる心配も、何かしら行動を起こしたいという気持ちも、私はよく理解できてしまう。
だから、そんな自分のごちゃごちゃした感情が処理できなくて、私は頭を抱えるようにしてお兄ちゃんの横になるベッドに顔から飛び込んだ。
驚いたような声を上げたお兄ちゃんに対して、私は顔を毛布に沈めたまま問い掛ける。
「私、お兄ちゃんに酷いことしてたんだよ? 心を読んで、勝負でぼこぼこにして、対等じゃないのに見下して、これまでずっと異能を秘密にしてた」
「……ああ」
「家族を守りたかったのに嘘はないけど、お兄ちゃんのことずっと冷たい奴だって思ってたし、中学生の頃まで家族に向けた読心も日常だった。自分以外の誰の事も信用なんてしてなかったし、自分以外の人間を、きっと私は人間とも思ってなかった」
「ああ、それでも」
「……前に喧嘩した時なんて、お兄ちゃんに対して、私は異能を使おうとまでした。最低だし、最悪だし……今だってこんな風になってるけど、本当の私は冷たくて、凄惨で、悍ましくて、許されていいような人間性なんてしてなくて」
「それでも、お前は俺の妹だから」
むにっ、と布団にうずめていた私の顔を持ち上げて、お兄ちゃんは正面から私と目を合わす。
「俺はお前を守るよ、燐香」
「っ……」
くしゃっ、と自分の顔が歪んだ。
どんな風に歪んだのかは分からなかったけど、目を丸くして、それから噴き出したお兄ちゃんの反応を見るに、ろくな顔じゃなかったのだけは分かる。
これまでずっと、口喧嘩を含めて、お兄ちゃんとの勝負は負けたことは無かったけれど。
子供のように笑うお兄ちゃんの姿に、私は今、初めて言い負かされたのだと知った。
不思議と悪い気がしなかったのは、きっと、これが初めてお兄ちゃんと同じ土俵での勝負だったからなのだろう。
私は、そんなことを思うのだ。
「……ねえ、お兄ちゃん」
「はははっ……! な、なんだっ……?」
「守ってくれてありがとう」
笑いを引っ込めて、驚いた顔で私を見たお兄ちゃんは、それから優し気に微笑んだ。
「……どういたしまして、燐香が無事でよかった」
まるでどこにでもいる普通の兄妹のように。
随分遠回りした私達の関係は、確かにこの時近付けたのだと思う。
ここまでお付き合い頂きありがとうございます!!
この話で5章終了となります!
色々引っ掛かるところがあるであろう飛鳥さんや神楽坂さんの話などは、間章としてまたちょくちょく挟んでいきたいと思います。
ここまでお付き合い頂き本当にありがとうございました。




