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表裏から迫るもの

 




『――――こちらの映像証拠を警察に提出して欲しいのです』



 突然事務所に現れたその男は、雨居紘一あめい こういちという無名の探偵に対して事情も説明せずそんな依頼をしてきた。


 品のある男だった。

 身なりが良く教養に富み、自分に自信を持っている者特有の雰囲気。

 姉夫婦の忘れ形見である子以外はほとんど出入りのない、質素な紘一の事務所ではあまりに場違いな人間として高級であるというような空気を醸し出している男。


 嫌な空気だ。

 初対面ではあるが、紘一は目の前のこの男が既に好きでは無かった。

 紘一は、その男が自分に向けているあまりに目が冷たく見下すような色をしていることにさも気がついていないかのようにして、差し出された映像に指先を向ける。



『……それはまた妙なお話だ。その映像が真実を証明する正しい証拠であるなら、俺のようなどこの馬の骨とも分からないような探偵を使って警察に提出するのでは無く、自分自身の手で持って行かれてはどうだろう?』

『犯人に繋がる重要な証拠であるのは確かですが、結局この映像だけでは犯行手段は不明。犯人がどのような凶器を持って過去の凄惨な事件を引き起こしたのか分からない以上、私は事件を解決する糸口すら見付けられていない警察組織を信用して自分の身を晒す訳にはいかないのです。過去の凄惨な事件の、ある意味で最大の被害者である私はね』

『過去の凄惨な事件、ねぇ……』



 そう復唱しながら、紘一の頭の中では目の前の男が言った最大の被害者であるという意味について考える。


 どの事件の、どういった意味での最大なのかは紘一には見えてこないが、過去の事件に言及しているにも関わらず、一切の激情が見えない目の前の男が被害者とは考えにくい。

 形式上そう言っておきたいのか、それとも自分を何かしら誘導しようと情報にノイズを混ぜ込んでいるのか。


 そのどれかとも判別はできないが、紘一にも一つ分かることがあった。



(……明らかに危険な裏がある)



 差し出された映像は随分古いものであるようで、色はモノクロであり、画質も今現在の最新機器の録画装置とは雲泥の差があるようなもの。

 二十年以上前の映像だというのだから、むしろ今まで適切に保存されていた映像だということが驚くべきであろう。


 大切に、丁寧に、正しく保存だけされていた映像証拠。

 これまでずっと警察に提出されないでいたこの証拠は一体どこの誰が撮影したもので、これまでどこの誰が保管していたのか。

 きな臭いと言うには十分すぎるほどで、紘一は一層判断を迷わせる。


 そして、そんな紘一の逡巡に気がついているのか、目の前の男は懐からぎっちりと詰まった封筒を取り出した。



『依頼料はこれほど用意しています』

『……随分豪勢なようで』

『危険性のある依頼だと自覚していますからね』



 一目で厚みが分かる黒い封筒の入り口から見える札束が、目の前の男の異常さを強調している。

 対価として差し出された目の前の報酬に猛烈な嫌な予感を覚えた紘一が何かを言うより前に、男はさらに話を続ける。



『これは貴方にとっても悪い話では無い筈です。名の売れていない探偵業を十年以上続けている貴方が、過去この国を大きく騒がせ未だに解決されていないこの事件、《針山旅館殺人事件》の新たな証拠を警察に提出する。それがさらに解決に繋がった時、貴方の名は大きく広がりを見せる筈です』



 男の言葉に紘一は息を呑む。

 話題に上がっていた過去の凄惨な事件というのが、国家単位で有名な未解決事件であると知る。

 ただの依頼人であれば気にする必要も無い、雨居紘一が営む探偵業にまで言及を始めたこの男は、まるで全てを見透かすような冷たい目をしている。



『貴方が探偵業を営む理由である情報が、貴方の元に届く可能性が高まるのですからね』

『…………そこまで調べた上で、俺に依頼をしている訳か』

『そうでなければ態々無名の探偵にこんなことを依頼すると思いますか?』


『――――あれ? 雨居叔父さん誰か来てるの? もしかしてお客さん?』



 事務所の玄関口から、いつも通り遊びに来たあの子の声が聞こえてくる。

 事務所によくやって来る姪の存在をあらかじめ知っていたかのように、目の前の男は眉一つ動かさず紘一の返事を待っていた。


 不気味な男だった。

 普通であれば交流しようとも思わないような、腹に一物も二物も抱えた男。

 それでも、自分の身の周りを全て調べ尽くし、対価として十分すぎる以上の物を提示できるだけの力を有する、この男の依頼を断る危険性が紘一は選べない。


 大切な姉夫婦の忘れ形見が事務室に入ってくる前に、雨居紘一は置かれていた黒封筒を受け取り、二つ返事をするしかなかったのだ。



(違う、そうじゃなかった)



 危険は回避したかった。

 報酬は十分以上だったし、成し遂げた時の形の無いメリットは非常に魅力的だった。

 だから間違いなく裏があるだろうと思えた不気味な男の指示通りに証拠を提出して、依頼人と探偵という関係を一度清算した。

 従順で盲目的な反抗なんてしないような探偵として、男との関係を終わらせたのだ。


 そしてそれから、雨居紘一は針山旅館についての調査を行うこととした。

 自分が提出した物がもし何かしらの悪意による誰かを陥れるためのものだったらという自身の疑いを解消するために。


 針山旅館の清掃予定の入っていた業者とコンタクトを取り、業務委託を提案した。

 未解決の殺人事件が起きている山中にある旅館など、どんな業者だって進んでやりたくはないだろうという紘一の予想は正しく、目論見通り清掃依頼を引き受けることに成功。

 唯一の誤算は姉夫婦の忘れ形見が紘一の不審な動きに目聡く気が付き、着いてきてしまったことだが……。


 それでも、一般の業者に依頼していた清掃作業であるだろうから。直接的な危険性は特にないだろう、と。


 そう思ってしまった。

 そう思ってしまっていたのだ。



(もしも自分が交渉で得たと思っていた依頼が、眼前に吊された餌だったとしたら。この場所へ誘導されていたのだとしたら)



 事件現場となった現地の調査をして違和感が無ければそれまで。

 無名の探偵である自分の元に舞い込んだ不審な依頼の後始末をそれくらいで片付けようと考えていた紘一は、着いてくると言って聞かない強情な姪を強く止めることは無かった。

 いざとなれば子供一人抱えて逃げるくらいはできるだろう。

 最近異能と呼ばれる力が話題に挙がっているが、見たことも無いソレを過度に警戒しても何もできない。


 あの子の社会勉強もかねて、調査と清掃業務をこなしてみよう。


 ――――そんな自分の判断の全てを、獣頭の怪物を見た紘一は後悔した。



(証拠を提出した俺を処分してしまいたいと考える可能性を、口封じされる可能性を考えるべきだったんだ)



 何も声を発することもせずにいる獣頭で人型のソレ。

 生物的な呼吸の音すら無く、赤黒い骨のような手が血塗れの鉈を持っている。

 足下に倒れ伏している人達など眼中にないかのように、地面を滑るようにして窓越しに近づいてくる人外の恐怖に思考が止まってしまった。


 だから、足を持ち上げるような着物の揺れも無く迫ってくるソレに真っ先に反応できたのは一番歳上の紘一では無かった。



「え、え、さっき悲鳴とあの人に掛かってる赤いのって、まさか――――」


「――――窓から離れてください! あいつの次の標的は私達ですっ!」



 獣頭のソレが窓越しに鉈を振り上げるより数秒早く、助手の少女が声を張り上げた。

 その少女、山田沙耶は想像もしていなかった脅威に硬直していた紘一と涼を引っ張るようにして、危険域からの回避をさせた。


 直後、ソレが振り下ろした鉈が窓ガラスを突き破り床に叩き付けられた。


 先ほどまで紘一達がいたであろう場所。

 窓ガラス一枚など障害にもならないソレの人外染みた怪力を目前にして、ようやく思考能力を取り戻した紘一は身の毛がよだつような危機感を自覚した。


 助手である少女の行動がなければ、今頃自分も姉夫婦の忘れ形見も、獣頭の怪物を塗らす赤い塗料になっていたことを理解して、心臓が止まりかける。



「た、助かった。悪い山田ちゃ――――」

「何を安心しているんですか! 薄い壁すら私達には無くなってしまったんですよっ」



 理解不能な怪力と変幻自在な腕の可動域。

 緩慢な移動とは違って、腕により振り回される鉈の速度は恐ろしく早い。

 その証拠に、地面に叩き付けられた鉈の切り返し動作も、人体構造上の限界を容易く踏み越えていた。


 ギリギリ。

 髪の毛の先端が切り裂かれるようなそんなタイミングで、助手の少女に引き倒された二人が続けて振り回された刃を避けることができる。


 躊躇や戸惑いなどは勿論、お礼を言う僅かな暇すら無い速度で振るわれる命を奪う凶器に心と体が追いついていない。


 目の前の事態への対応が間に合わない。

 あまりに想定外の危機。そして、到底人間とは思えない動きをする獣頭のソレへの対処が、紘一達は数段遅れてしまう。


 異能という非科学的な現象に遭遇した経験の有無が、そんな絶望的な対応速度の遅さに繋がってしまっている。


 だからこそ、致命的に対応が遅れている二人に気がついた助手の少女は、即座に二人の手を取って逃げ出した。



「待っ、山田さんっ、どこに逃げる気なの⁉ そっちは外だよっ⁉」



 日が落ち始めて、もう後十分程度で暗くなる。

 暗い山の中を人外染みた獣頭に追い回されることを想像しただろう丸眼鏡の少年が危険を訴えるために大声にあげるが、助手の少女も声を張り上げる。



「この旅館は明らかに怪物が暴れても良いよう堅牢に設計されています! この旅館内を逃げ回るのは、アレを利用する人物にとっては好都合である筈です! だからまず、私達はこの旅館から逃げ出さないとアレを仕向けた人物の思うつぼの筈です‼」

「ど、どういうこと⁉ それじゃあ今僕達を追ってきてるアレは、この旅館の人達にとってはどういう……⁉」

「いや……山田ちゃんのその考えは間違っていないかもしれない……」



 助手の少女に手を引かれて逃げながら、紘一は自分が調べた過去の事件の被害者達を思い出す。


【針山旅館殺人事件】と呼ばれる二十年以上前の事件は五十八名の死者を出している。

 全身の血が抜かれたように枯れた死体がいくつも密室で発見されたことが有名だからこそ吸血鬼事件だなんだと言われてはいるが、実のところ大多数の死体は損壊が酷い状態で見つかっている。


 一部の死者から目を逸らせば、単なる猟奇的な犯人による大量殺人事件。

 全身の血を抜かれたような枯れた死体はともかく、過去の被害者達のような損壊が酷い状態の死体は、今自分達を追っている獣頭が行った可能性も十分考えられる筈だ。


 つまり、その事件で有名な【血を抜かれたような遺体】は他の死体から目を逸らさせるミスリード的な役割を持たせるために用意された物でしか無かったのだと考えれば全て繋がると、紘一は理解した。



「分かったぞ……! 針山旅館殺人事件、いや【串刺し山の吸血鬼】はっ、複数の殺人事件が同時多発したが故に未解決に終わった事件なんだっ! 非科学的な名称をわざわざつけて未解決であることを誤魔化そうとしたのは単純な犯行である真実から目を逸らされるためのまやかしっ! 今俺達を追っているあの犯人のようにわざわざ不気味な被り物をすることで、正体不明の怪物だと被害者達に勘違いさせ抵抗の意思を奪っていた! だからこそ、生き残ったあの者の証言は誰にも信用されなかったんだ! 不気味な怪物が実在するなんて証言、誰も信用しないから……!」

「えっ⁉ そ、それは違うんじゃ無いですかね……?」

「いや、そうであるなら全て繋がるっ。俺に依頼したあの男っ、神埜源晴かみの げんせいが狙った相手を始末するための場が、この旅館だったんだっ! 昔も今も変わらず、この場所はあの血塗られた家系にとっての処刑場だったわけかっ! くそっ、情報を渡している俺をどこかで処分しようとする可能性くらい考えておくべきだったっ……俺のミスだっ……」

「か、かみの、げんせい……? 血塗られた家系、ですか……?」



 頭の中で推理が繋がった紘一が声を荒げる。

 そして、そこまで推理が繋がったからこそ、目の前の危機が自分の浅慮によって引き起こされた事態であることを理解した紘一の怒りは、事態を引き起こした犯人では無く自分に向かうのだ。



(俺の浅慮でのこの状況っ……。俺は馬鹿だっ、長年未解決だった事件に何の裏も無い証拠が二十年越しに出てきて、その裏を探ることに危険性がないなんてっ。たかだかあの男の想定を上回れたと考えたのが間違いだったっ)



 強烈に後悔する紘一をよそに、丸眼鏡の少年は追ってきている、到底人間には思えない獣頭の追跡者からある程度の距離を取れていることを確認していた。


 突然襲った死の恐怖。

 最初こそ全く思考や体が動かなくなるほど動揺していたが、頼れる友人が手を引いて助けてくれているという精神的な支えがあり、丸眼鏡の少年はいつの間に落ち着きを取り戻す。


 そしてだからこそ少年も、興奮したように推理を続ける叔父の考えに対して簡単に賛同はせずに首を傾げた。



「……でも、あれ本当に人間なのかな……? 雨居叔父さんが言うみたいに、理性ある人が被り物して追いかけて来てるようには見えないけどな……」

「私もそう思います。というか雨居さんのそれ、何の得があるんですか? そんなことをして、富も名声もあった筈の神埜の家の人達になんの利もあるように思えません。自分達の運営する旅館を利用してそんな風に使うなんて……」

「……確かに利はない。普通の感覚があれば、大勢の人間を巻き込んだ殺人事件も、俺のような人間をわざわざ誘い込んで襲うようなことしようとも思わないだろう。……だからこその狂信者。過去、処刑場として使われていたこの山の慣習を復活させたかった。過去の栄光に囚われた“神埜”という狂信者集団による暴走あたりが濃厚かもしれないな」

「暴走……? 裏で操っているだろう人物にとってここまで好都合な状況で……?」



 筋は通るかと一応の納得を見せた丸眼鏡の少年とは違い、助手の少女は何か違和感があるような表情のまま顔をうつむける。

 自分が持つ情報と現在の状況を考え、そして、早足程度の早さでしか追いかけてこれていない獣頭の姿をもう一度振り返って確認し、ぽつりと呟いた。



「……私にはどちらかというと、道筋途中の失敗作のように見えるけどね……」

「え?」



 呟かれた言葉が一瞬だけ気になったが、そんなこと気にしてる余裕なんて無いかと思い直す。

 助手である少女によって手を引かれて逃げ出すだけだった二人も、自分達が今取るべき行動を必死に考え始めた。



「だが、そうと分かれば下山する! 暗くなってきているとはいえ、走れば十分程度の距離しか無い! 現状追いつかれていない以上ヤツから逃げるのは難しくない筈だっ!」

「それ私が最初から言っていることですけど……まあ良いです。どうせへっぽこ探偵さん程度じゃ天才美少女燐香ちゃんを上回る案なんて出せないこと最初から分かっていましたし」

「え? え? え? や、山田さんさっきから変なこと言ってない……?」

「気のせいですよ、気のせい。今そんなこと気にしている余裕は無いはずです」

「あ、うん、そ、そうだね?」



 行動指針をはっきりとさせた紘一が手を引いていた助手の少女よりも先を走り出す。

 完璧な物的証拠はなくとも、自分達を消そうとする存在と他の被害者を知り得た以上、生き延びることさえできればこの場の事件を明るみに出せる、と。


 そう判断した紘一が、一刻も早いこの場からの離脱を先導しようとした瞬間。


 ゴボリ、と。

 暗闇の中、正面にある物陰から何かが大きく泡立つのが見えた。



「……⁉」

「雨居叔父さんっ⁉」



 物陰から飛んできた何かに対し、咄嗟に二人から手を離して自分の身を盾にした紘一は物陰から飛来した何かを全身に被ってしまう。


 それは酷い匂いのする液体だった。

 腐った血のような匂いのする真っ赤な液体が自分の髪から滴り落ちているのを見て、紘一は目を見開きながら動揺する。


 何かの血だろうかなんて思うが、全身に被ってしまった液体へのそんな不安があるだけで、痛みはおろか痒みすら今の紘一の身には起きてなかった。



「雨居さん大丈夫ですか⁉ 痛みとか熱さとかはないんですか⁉」

「っ、あ、ああ、匂いが酷いだけで何か異常は感じない。俺は大丈夫だ。けど一体何を……?」



 液体の飛んできた場所である物陰から、人影がゆらりと姿を現した。


 自分達を追跡してきているソレと格好も体格も同じ、大きな鉈を持った存在。

 一瞬追ってきていた獣頭がいつの間にか目の前に現れたのかという思考がよぎるが、目の前に現れたソレの頭が『牛の頭部』であることに気がつき、驚愕する。


 二体目。

 人外のように思える獣頭の怪物がもう一体。

 行く手を封じられたことで足を止めざるを得なくなった三人に対して少しの余裕も与えず、挟み込むように二体の怪物が一定の速度で歩み寄ってくる。



「もう一体⁉ 挟まれたっ……ぐっ……片方を突破するしか」

「武器も無いのにどうやってっ⁉ あいつがあの鉈を振る速さを見たでしょう⁉ 躱せる訳がっ……」

「だがそれ以外にどうにもできないだろうっ! 俺が突っ込むから山田ちゃんと涼はその間に突っ走れっ! 良いか! 必ず足を止めずに下山して助けを呼べ!」

「そんなのできる訳がっ……嫌だよぉ! 僕には雨居叔父さんしかいないのにっ!」

「聞き分けをっ…………、なっ、んだ?」



 せめてこんな場所に巻き込んでしまった自分が逃げ道を作らなくては、と。

 拒否する姉夫婦の忘れ形見を説得し飛び出そうと身構えた瞬間、紘一の視界が大きく歪んだ。


 立っていられない。

 ぐらりと歪んだ視界に、両膝をついて呼吸が激しくなる。

 先ほど酷い匂いの液体に触れた体の部分に葉脈のような赤黒い罅が浮き上がり始め、肌の色から急速に生気が抜け落ちていく。


 荒い呼吸をして動けなくなっている紘一の姿に、助手の少女は目を見開いて驚き、丸眼鏡の少年は慌ててすがりついた。



「叔父さんっ⁉ 体が、おかしくなってっ……⁉」

「こ、れ……は? さっき浴びた液体のせい、なのか……? ど、毒物にこんな症状のものは……」

「あ、あああっ、何がっどうしてっ……」



 痙攣し全く自由の利かなくなってしまった自分の体。

 せめてと思い、囮役を買って出ようとしたもののソレすらも叶わず、前後から迫り来る獣頭の人外達を見る無名の探偵の顔は何の活路も見いだせない情けないものとなっていた。


 自分のせいで。

 自分が間違えた選択をしたせいで、大切なものを全て失ってしまう。

 姉夫婦が死ぬことになった原因を見つけ出してみせるという目的も、姉夫婦の忘れ形見を立派な大人にするという願いも、全てが果たせなくなってしまうことが、どうしようもなく許せない。



(だったら……せめて、これだけでも……)



 震える足のまま立ち上がる。

 視界が滲み、呼吸が乱れ、自分の内側をナニカに壊されていく感覚。

 紘一に掛けられた液体が何だったのかは分からないが、少なくとも人知を超えた何かだったのだろう。



「叔父さんの体がっ、赤黒く罅が入ってっ、どうすればっ……助けを、医者を呼ばないと……」

「りょう、ニげろ……おれが……やつにころされる、しゅんかんに……」

「嫌だっ! 嫌だっ! 叔父さんは僕を一人にしないでっ……」



 馬鹿な考えだ。

 救助や医者による治療を少しでも期待するのも、一人だけこの場から逃げさせる算段を立てるのも、どちらもこの場において思考の無駄にしかならない馬鹿な考え。


 こんな山の中の曰く付きの旅館。

 都合の良い助けなんてないだろうし、医者がいたとしても普通の病では無い今の紘一の状態を治療することができる訳がない。

 それどころか、一人が囮となり子供が一人この場を脱したとして、ここまで用意周到に裏で糸を引いていた人物が生存者を許す筈が無いのだ。


 この場にいる獣頭の怪物などきっと前座。

 もっと多くのコイツらがどこかに潜み、異能を持つ何かがどこかにいる。

 のこのこと、こんな場所に来てしまった獲物達が生き延びる術は存在させはしない。


 だからきっと、この場所の顛末なんて誰も知ることが無いまま終わるだろう。

 二十年前の未解決事件のように、いいや、それどころか事件として処理もされない。

 誰も知るよしの無い殺人事件として終わる、この件の糸を引いた人物にとって理想的な状況が今なのだ。



 けれど、裏を返せば『ここでは何が暴れたとしても人の目を気にする必要は無い』ということ。



「まあ、いいです」



 だから。


 そう判断したからこそ、助手の少女は――――佐取燐香は襲い来るだけだった怪物へと牙を剥いた。


 この場において、一方的に獲物を追い詰める絶対的な捕食者であった怪物達へ、目に見えない“精神干渉”の異能を行使する。



「大体の性能は分かりましたから、対策が通じるかも一つ確かめてみましょう」



 突如として巻き起こる、旅館全体を軋ませる黒い雷のような異能の出力が現実を歪ませる。


 作り出す。

 感情なんて欠片も見せずに追跡していた獣頭の怪物達が突然足を止めた。

 自身の内側に突如として生まれた何かに動揺するようにその場で立ち竦んだ二体の獣頭の怪物が、状況を理解しようとお互いを見合わせた瞬間。


 グチャリと、二体の獣頭の怪物が巨大な力によって壁に叩き付けられた。


 怪物が暴れても良いようにと、強固に作られた旅館が揺れるほどの衝撃で。

 抵抗すら許されず、旅館の壁に大きな罅を作ることとなった獣頭の怪物達は、轟音と共に体を爆発させ赤黒い液体をまき散らした。


 ほんの一瞬で、怪物達は獣の頭と着物だけを残して消し飛んでしまった。



「…………え?」



 人外にしか見えなかった怪物達。

 それが突然自壊、或いは見えない何かによって潰されてしまった状況。

 目の前に事態が理解できないでいる丸眼鏡の少年の横に膝をつき、苦しげに呻いている紘一の青白い肌に触れて状態を確かめた助手の少女は面倒くさそうに呟く。



「ふん、運が良かったですねへっぽこ探偵さん。どうやら何とかなりそうですよ」

「……や、山田、さん? 君は……君の、名前は……ああ、違う。僕は……君のことなんて知らないはずだ……。今日まで僕と君は会ったことも無いはずだった……」



 隣に座る、これまでずっと一緒に居た筈の、見知らぬ筈の少女に少年は問いかける。



「君は…………誰?」

「山田沙耶、少なくとも貴方方に名乗るような名前はこれしかありませんよ」



 真っ暗な夜の闇の中。

 少女の怒りが潜む双眸が、少年の姿を見詰め返していた。






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― 新着の感想 ―
[一言] 更新ありがとうございます!いつも楽しく読ませて頂いてます。 不気味な男の依頼から始まり、山奥の洋館で怪異に追いかけられる。ここまでは定番のホラーゲームなんですが、探索メンバーに怪異が霞んで見…
[一言] 更新ありがとうございます へっぽこ探偵、野次馬根性だけじゃなかったのか… 姪って言ってるのに少年ってことはへっぽこ探偵弄られてる? そして少年黒幕サイドかな? 「……私にはどちらかというと、…
[一言] 第三者のモノローグと隣香ちゃん先輩の考察、そしてメタ読み(これ大事)によって、何となく見えてこないこともない……やっぱり隣香ちゃん先輩って格好いいな、第三者から見れば(最重要)。
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