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サイレント

 




 嘉善義人は恵まれた人間だった。

 世間一般的に言えばこれ以上ないほどに、恵まれていた人間だったのだ。


 地位のある父親に愛情深い母親。

 中々子宝に恵まれなかった夫婦の念願の第1子となった彼は、その家の有り余る財と力の恩恵を与って、何一つとして我慢せずに生きて来て、奔放な彼の態度は許されてきた。

 多少成績が悪くても、金遣いが荒くても、女遊びが酷くても、金と権力とコネがあれば誰だって彼を許さざるを得なかった。


 だから彼はそういう風に世界は出来ているのだと、認識していた。

 自分は権力を持ったほんの一握りの上流階級。

 これまでも、そしてこれからも、自分は恵まれた人間であることを少しだって疑っていなかった。


 そんな何一つ不自由ない生活に亀裂が入ったのは、当然甘やかされて育った彼の過ちからだった。



『……い、いや、勘違いだ。違う、猫でも撥ねただけだ』



 親から貰える大金で夜通し仲間と酒を飲んでいた彼は、スーっと冷えていく頭で繰り返しそんな事を自分に言い聞かせた。


 何かにぶつかった。

 その時の信号の色は覚えていない。

 悲鳴のようなものが聞こえた気がしたが、そんなのは小動物でも同じだろう。

 だから自分は何も悪くない、何も悪くないんだと、動揺に震える体のまま運転を続けた。


 現場からの逃走。

 もしも人間を轢いていたら。

 僅かばかり残った理性がそんな恐怖から車をそのまま家に向かわせることなく、人通りのほとんどない隣の県にある山まで向かわせた。

 そして、人がいないのを確認してから、自分をいつも甘やかしてくれる母親へ電話をしたのだ。


 母親から父親へ連絡を繫ぎ、帰ってきたのは期待通りの言葉だった。



『お前は何も気にしなくていい。迎えをやるから少しそこで待っていろ』



 それから証拠とともに、彼は父親の息がかかった者達に回収された。

 最初は人を撥ねたと言う意識から挙動不審になっていたものの、誰も何も自分に罰を与えないのだと理解して、10日も経たずに気にもしなくなっていく。

 そうして世間には何も公表されることなく、何もかも恵まれた彼はまたいつもの恵まれた普段の生活に戻る筈だった。



 ――――これが、どこにでもある犯罪事件の顛末だった。





 ‐1‐





 一つの事件が解決した。

 死者も出ていない、普段であれば見向きもされない様な小さな轢き逃げ事件であったが、闇に葬られようとしていた真犯人が明るみに出たとあっては話が変わる。

 警察による隠蔽工作、犯人は警察官僚の息子、罪を全く関係のない者に被せようとした事実、騒がせるには十分すぎた。


 要するに、未解決であった轢き逃げ事件の真犯人と共に、警察による隠蔽工作があったことも世に出回ることとなったのである。


 警察官のほとんどはこの件に関与していない、無関係の者達であることは間違いないが、だからと言って、警察に対する批判が爆発しないかと言えばそうではない。

 これまでに類を見ないほど、世間から噴出した不満や批判は膨大だった。


 連日続く報道各社による警察批判やネットやSNSで行われる批評の嵐に、警察庁は声明を出すまでに至り、年々増加傾向にあった犯罪件数や未解決事件の多さに、警察始まって以来最悪と噂されていた国民からの信頼がさらに墜ちることとなった。


 もはや針のむしろ。

 制服を着て外を歩いているだけで陰口を吐かれるなんて言う個人に対する攻撃のみならず、警察庁周辺でのデモ行進なんて言うのも連日続いている。

 警察庁の本部だけでもこれだけ攻撃されているのだ、発端となった事件の現場である氷室警察署は苦情や批判の嵐で、相当対応が忙しいらしい。



 ……色々と世の中の情勢を話したが、結局何が言いたいかと言うと、ここ最近私は神楽坂さんに会えてすらいないと言うことだ。


 私の力を見せて、神楽坂さんの信頼を得るために行った事件解決だった訳で、これを土台として異能の関わる事件の処理をしていこうと思ったのだが、それどころではなくなった。

 事件を解明したことになっている神楽坂さんには連日事情聴取と言う地獄が待っており、また、どこから情報を入手したのか、報道各社が今回の隠蔽工作を暴いた警察官と言うことで取材を強行したために、世間からの注目度も他の警察官とは段違いとなってしまった。


 世間からの評価は、不正を許さず真相を暴き切った立派な警察官。

 警察内部からの評価は……まあ、評価は2つに分かれていることだろう。

 一部から裏切り者扱いされていることは間違いない。

 色々な対応をしなければならないようで、まともに電話すらすることが出来ない。

 今後の協力体制についてやあの汚職おじいさんが言っていた神楽坂さんの婚約者とかについても話をしたかったのだが……こうなっては仕方ない。


 しばらくは休憩期間と言うことで、気ままに私生活を送るしかないだろう。


 チラチラと携帯画面を確認しながら掃除機を掛ける私に、ジト目をした妹が声を掛けてくる。



「……お姉、最近携帯ばかり見てるけど、彼氏でも出来たの?」

「――――な、いきなり何をっ……!」



 びっくりした。

 普段心底驚くことなんてない私だが、読心から除外している妹の発言には完全に虚を突かれてしまう。

 慌てる私の様子に桐佳はさらに疑いの目を強くして、唇を尖らせ始めた。



「だって、お姉って携帯は普段家だと自分の部屋以外で使わないし、かといって操作をしてる風でもないから、誰かの連絡待ちかなって」

「うぐっ……」



 びっくりした。

 言われてみればその通りである。

 頭が足りなくて手のかかる子だと思っていた妹が、いつの間にかこんな観察眼を身に着けているなんて……流石は私の妹だ。



「言っておくけどお姉が分かりやすいだけだからね。目は死んでるくせに表情は豊かだし、そもそも何も隠す気のない行動ばっかりじゃん。お姉が本当に外でやっていけてるのか私、心配なんだけど」

「うぐぅっ!!??」



 どうやらポンコツは私の方だったらしい。

 い、いや、世の未解決事件を解決できる才女がポンコツな訳がない。



「べ、別に彼氏とかは出来てないし! ただのくたびれたオッサンの手助けをしてるだけだもん!」

「え……お姉、高校生とつるむおっさんは完全に不審者だから近付かない方が良いよ?」

「妹に常識を教えられる姉って惨めだから! 違うからね!? そういう仲じゃなくて、あくまで業務的な関係と言うか……!」

「業務……的……?」



 口を噤んだ桐佳が顔色を変えて即座に電話をかけ始めたのを見て、心を読まなくてもどんな誤解を受けたのか分かった。



「――――あ、もしもし警察ですか。実は姉が」

「誤解!!! 誤解だから電話を切って桐佳!!!!!」



 武力行使ほど利のない交渉はないと言う信条を捻じ曲げ、私は電話を掛ける桐佳に組み付きに掛かった。


 当然、負けた。





 ‐2‐





 家に帰れず、職場で夜を過ごすこと1週間。

 神楽坂上矢はようやく溜まりに溜まっていた業務の数々から解放され、家に帰ることが許された。

 許されたのだが……神楽坂は家に直帰せず、最寄りの駅近くの定番の待ち合わせ場所、大噴水の前で人ごみに紛れて、人を待っていた。


 当然この1週間は、携帯電話を周りの目が無く使う時間がなかったために人と満足に連絡を取ることもできなかった。

 特に燐香とは今後について話すこともできなかったため、仕事から解放されてすぐに彼女に『この後会えないか』と連絡を入れたのだ。

 彼女はなぜか息も絶え絶えではあったものの快く二つ返事をくれたため、神楽坂は自分の安アパートにも帰らず、そのまま彼女との待ち合わせ場所に向かった訳だ。



 正直、今の神楽坂の立場は相当悪い。

 そもそも左遷の様な扱いで氷室署に飛ばされ、事件に関わらないようにとほどほどに忙しい交通課に入れられた訳で、そんな奴が刑事課を差し置いて色んな事件を解決していれば、どこも良い顔はしないだろう。

 そしてとどめに今回の件だ。

 警察の不祥事を暴き、世間からの警察の信頼を文字通り失墜させた。


 同じ氷室署の人達はおろか、警察庁から来た偉い方々も、辞めさせるにも辞めさせられない面倒な奴だと言う考えを隠すそぶりさえなかった。

 一度経験しているから分かるが、あの態度を見る限り、おそらくまたどこかに飛ばされるか、別部署に移されるのが有力だと思う。



(せっかく異能と言う超常的な力までたどり着いて、本当に幸運に、その力を持った善良な協力者まで得られたんだ。警察官を辞めることになったとしても、この協力関係だけは何とか継続したい……)



 先日見た力の一端。

 犯人を特定するまでの尋常ではない速度に加え、人の行動を先読みし、その意思を砕き、行動を誘導する。

 常人ではどうあっても太刀打ちできない格差をまざまざと見せつけられた。

 彼女は“読心”できる程度の大した異能ではないと言っていたが、そんな生易しいものでは断じてない。

 もし彼女が完全犯罪を犯そうと考えれば、いや、世界の均衡すらいともたやすく崩すことが出来る、そんな力を彼女は持っていると神楽坂は確信した。


 だからこそ、そんな力の持ち主が味方でいてくれている現状は、どうしようもないほどに幸運に違いないのだ。



(そうだ、たとえ俺が警察官を辞めることになったとしても。警察では解決出来なかった事件を解決させることが出来るのなら――――)


「お久しぶりです、神楽坂さん。心配してましたよ」

「――――ああ、連絡取れずすまなかった。こっちは少し大変だったんだ」



 背後から掛けられた声に振り返る。

 頭数個分小さな燐香の姿はいつも通りで――――いや、いつも通りではなく、何か争った形跡が体中に見受けられた。



「ふ、冗談です。そちらが大変だったことは知っています。そんなことを気にしませんから謝らないでください」

「あ、ああ」



 心を読めて話を逸らすと言うことは、なんで争ったような形跡があるのかと言う疑問には答えたくないのだろう。

 そう考えた神楽坂はそのままスルーしようとするが、その思考すら読まれたようで、燐香は涙目で睨んでくる。



「……まあ、良いです。ちょっと、自分の身体能力の悪さを再確認しただけですし……神楽坂さん、今度良い筋トレとか教えてください」

「何があったのかは聞かないが……トレーニングとかは任せてくれ、俺は結構詳しいからな」



 そんな他愛のない話をして、そこそこにお互いの無事を喜び合う。

 まだ出会ってから一カ月も経過していないが、打算はあるもお互いの身を案じる程度にはいい関係を築けていたようだった。



「ニュース見ましたよ。ヒーロー扱いでしたね神楽坂さん」

「止めてくれ、警察署では腫れもの扱いなんだ。変に褒められて自分の立場を勘違いしたくない」

「私は正当な評価だと思いますけどね。実力や人柄含めてですよ?」

「事件解決は君で、不正を暴いたのは同じ警察職員として当然だ。優秀なのは俺では無くて君だし、褒められたくてやった訳じゃない。それに、そんなどうでも良い事よりも、俺と君にはやりたいことがあるだろう?」

「同感です。ではそのために、神楽坂さんが抱える憂いを一つ解消しておきましょう」



 ニヤリと悪人ぶった笑いを浮かべた燐香が、手書きのメモ用紙を神楽坂に押し付ける。

 そこに書かれているのは、異能が関わっているのではないかと彼女に詳細を見せた他の三つの未解決事件の名称と、それぞれの事件名の下に人の名前と住所、そして潜伏場所だった。



「私の方でそれぞれの犯人と所在について調べておきました。神楽坂さんには今回かなり身を挺してもらう形になりましたので、それに対する報酬の様なものです。まあもっとも、物理的な証拠については何も握っていないので、それはそちらでやることになると思いますが」

「……なるほどな。助かった、ありがとう。この件についてはこっちでやっておく。ちなみに最初に言っていた通り、異能が関わっていた事件は……」

「一つもありませんでした。と言うか、同じ地域で異能が関わる事件なんてそうそうあるものじゃないですから。安心してくださいって」



 何度も言うが、異能なんて言う常識外れを所持しているのは非常に希少であり、それを十分に発現させられる者はさらに少なくなる。

 その上、異能を些細な犯罪に使おうなんて言う気狂いは、世界は広いといえども流石にいないも同然だ。

 だから、注視するべきは一件一件の事件ではない。



「異能を集めている組織、これを探ってしまった方が芋づる式に判明することの方が多いはずです」

「……子供を集めて何か実験をしていた組織、か。“紫龍”と言う強力な異能持ちが所属していたほどの奴らだからな。ほかにどれほどの手札があるか、どんな目的を持っているのか、考えることは山積みか」

「おそらくその組織にとっても“紫龍”は大切な存在の筈です。そのうち奪還に来ることも予想されますから注意を……って、すいません。今の立場の神楽坂さんには、好きなように動けるだけの自由はありませんね。気にしないでください」

「……そこまで聞いて、みすみす見逃すようなことはしたくないな」

「別に見逃してくれて構いません。むしろ回収してくれた方が足取りを追いやすいので。あくまでいなくなったタイミングを教えてくれるだけで十分です」



 前を歩く燐香を追いかける形で神楽坂は彼女と会話をするが、不穏な会話をしていても周りの人達はこちらを気にしたようなそぶりも見せない。

 燐香が異能で何かしらやっているらしいが、神楽坂はどうにも誰かに聞かれているのではないかと不安を覚えて、出来るだけ小声で話してしまう。

 が、燐香はあえてそれに逆らうようなことはせず、同じように声を潜めて話を続ける。



「とりあえずお疲れ様です。またしばらくは忙しいでしょうし、何か異能が関わりそうな情報があった時や状況に変化があった時は連絡をください。なんとか時間を作って、協力させていただきますので」

「……ありがとう、君には助けられてばかりだな。また今度埋め合わせはちゃんとする。何か欲しいものや食べたいものなんかあれば遠慮せずに言ってくれ」

「ふふ、では神楽坂さんの行きつけの食事処にでも連れて行ってもらえれば」



 時間はもう夕刻だ。

 何とか時間を作ってこうして落ち合わせたが、あまり長い時間は取れない。

 人通りもそろそろ帰宅ラッシュの波で急増するだろうことを考えれば、長々と話を続けるのも難しいだろう。

 近くにあったクレープ屋から品物を受け取った神楽坂が燐香に渡して、そろそろ解散するかと提案する。

 現状とお互いの無事は確認できた、これからの方針も共有できた、ここから神楽坂の立場がどうなっていくのかは未知数だが、とりあえずはそれだけで二人は満足だった。



「とりあえず家に帰って風呂入って寝るかな。どうせ明日にはまたゆっくり食事する暇もないし、今日だけでもしっかりと休まないとだ。君もそろそろ勉強に力を入れたいだろ?」

「私、頭良いのでそれは大丈夫ですよ。職場でどうにもならなくなったときは言ってくださいね。警察署丸ごと洗脳してなんとかしてみせますから」

「はは、そんなテロみたいなこと……駄目だからな? やっちゃ駄目だからな?」

「冗談ですって、私にそんな出力は出せませんから」

「どうせ読まれるだろうから言うが、君はマジでやりかねないと俺は思ってる」

「…………私ってそんなに悪い奴に見えますか?」



 露骨に目を逸らし早歩きになった神楽坂に、燐香は半目を向ける。

 少し空いた距離を小走りで詰めて、手にしているクレープを口に押し込んだ。



「君の協力のおかげであと残ってるのは後処理だけだからな。この後異能の関わる事件でも起こらない限り、しばらく会うこともないかもしれないな」

「またまた未練がましいですって、同じ地域でそう何度も起こらないですよ…………あ、そういえばちょっとお聞きしておきたいことがあったんでした。ほら、この前あの妖怪みたいな汚職おじいさんが言っていたことなんですが」

「汚職おじいさんってお前……」



 あれでも最高幹部まで上り詰めた人間なんだがとは思ったが、今回の事件を隠蔽しようとした部分しか見ていない燐香に何言っても説得力などないかと口を噤む。

 どうせもうすぐ失職するんだから何と呼んだっていいだろうと燐香は言って、それよりもと続けた。



「ほら、同僚が自殺したとか、婚約者が植物状態だとか――――」



 そんな風に、燐香が少し気になっていた事を聞き出そうとした時、背後から女性の短い悲鳴が上がり、直後男の怒号が飛んできた。



「邪魔だ退きやがれ!!」


「っ、危ねぇ!!」

「え――――ひぃんっ!!??」



 突如として強く背中を押され、小さな体躯の燐香が吹き飛ばされかけたのを神楽坂が慌ててキャッチする。


 危うく地面と顔面からキスする所だった。

 随分と情けない悲鳴を上げた自覚があったのか、燐香は恥ずかしそうに口元を抑える。

 それから燐香は猛然と走り去っていく男の背中を睨み、神楽坂にお礼を言ったところで誰かの怒号が聞こえてきた。



「あいつっ、ひったくり犯だ!! 誰か捕まえてくれ!!」

「まったく……すまん、少し離れるぞ」

「え、神楽坂さん!?」



 押し飛ばされた女子を放って犯人を追う!?

 いや大事はなかったし!? しっかりと倒れる前に支えてくれたけれども!?


 そんな燐香の抗議の声などなんのその。

 恐るべき速度で犯人を追いかけ始めた神楽坂の足の速さに燐香は唖然とする。

 学校の運動会で見る体力自慢達でもあんな速いのは見たことがない。

 人ごみをスルスルとすり抜けて、あっと言う間に犯人との距離を詰めていく姿に、警察官ではなくスポーツ選手になれと一瞬考え。



「――――ちょ、ちょちょ、ちょっと待ってください!」



 追いかけられていることに気が付いた犯人が苦し紛れに路地裏に駆け込んだと同時に、燐香も慌てて二人を追いかけた。


 一人や二人の暴徒に対してあの神楽坂が負けるとは思わなかったが、もし何かしら武器を持っていたら自分の異能が必要になるかもとの考えが頭を過ったからだ。


 走り出し、なんとか燐香は2人が曲がった路地裏に辿り着く。



「ぜひゅ……ぜひゅー……、か、神楽坂さん待って……え……?」



 路地裏を覗き、燐香の口から出たのは疑問の声だった。


 神楽坂だけが路地裏に入ってすぐのところで立ち尽くしている。


 直前に入った犯人の姿は何処にもない。

 争った形跡すら、どこにもなかった。



「か、神楽坂さん、犯人は?」

「なあ。異能を持つ奴ってそういないんだよな?」



 神楽坂の問いかけを聞くと同時に、ぞくりと燐香の脳内に警鐘が響く。

 神楽坂は訳が分からないと言った表情で振り返り、状況を説明しようと口を開いた。



「確かに目の前にいた奴が跡形もなく消えたんだが、これは――――」

「――――下がってください神楽坂さん!!!!!」



 危険を感じたのは神楽坂の様子になどではない。

 感知した攻撃的な“異能”の出力に、死の危険を感じ取ったのだ。


 神楽坂が何か言う前に、燐香は彼の襟首を掴み、そのまま後ろに引き摺り倒した。

 直後、鋭い何かが神楽坂が立っていた辺りを通過する。




 バシャバシャと、高所からバケツでもひっくり返したような水音が目の前で発生し、それが真っ赤な血であることに気が付いたのは、周囲で悲鳴が上がってからで。


 次いで上から落ちてきたのは、バラバラの複数の物体で。



 それが――――先ほどのひったくり犯のバラバラ死体だとすぐに分かった。



 状況に気が付いた神楽坂が目の前の凄惨な光景を見せないようにと、咄嗟に燐香を抱え込み、それから呆然と、目の前の落下してきた死体を見つめる。



「なんなんだ、これ。直前まで、俺から逃げてた犯人がどうやって……」

「……どうやってなんて、分かり切ったことじゃないですか」



 異能の出力を全開まで上げて、半径500メートル範囲に犯人がいないかを探った燐香がため息を吐く。


 ほんの数秒前まで、神楽坂まで巻き込もうとしていた攻撃的な異能はすでにこの場に存在していない。


 半径500メートルの範囲には殺人的な思考を持つ犯人は存在していない。


 つまり、それ以上の距離から力を振るう、若しくはほんの数秒で燐香の探知範囲から逃げ出せるほどの速さを持つ――――



「……これが、異能の関わる事件ですよ」

「は、はは……ふざけやがって」



 阿鼻叫喚と化した駅前広場の中で、神楽坂の頬から冷たい汗が流れ落ちた。






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