あなたの探し物
〇 お願い
いつも本作にお付き合いくださりありがとうございます!
実は本作の書籍化に伴い略称を決めたいと思い、現在 X(Twitter) にてアンケートを取らせて頂いております。
様々な方の意見をお聞きしたいので、もしよろしければそちらの方でどの略称がしっくりくるか教えていただけると私としては非常に助かります!
ご協力をお願いできればと思いますので、何卒よろしくおねがいします!!
〇 お礼
誤字脱字報告や感想評価、それから新規レビューも頂けて嬉しいです!
更新が遅くなっており皆様にはお待たせしておりますが、こういった応援がとっても励みになっております!
何とか更新を頑張っていきますので、これからもよろしくお願いします!
『ほんとにアンタは懲りないね。異能を使って近くをウロチョロして、私の探知能力を掻い潜れると本当に思っていたのかい? こういう場合、無知は怖いと言うよりも、無知ゆえの向上心を褒めるべきなのかねぇ……』
「……(怒)」
人里離れた一軒家。
椅子に座り、机の上でせっせと飲み物の用意をするフクロウを眺める老女が呆れ混じりにそんなことを呟いた。
声が届く範囲には誰もいないのに、まるで誰かに聞かせるような老女の呟きだったが、ちゃんとそれに反応したのが飲み物を用意していたフクロウだ。
カチカチと嘴を鳴らしながら老女へと振り返り、羽を逆立てて威嚇のような仕草を始めたフクロウを老女は鼻で笑う。
『ひひっ、なんだい? そんなに私に簡単に見つかって首根っこ掴まれたのが不満なのかい? 色んな部分が未熟だけど、アンタは何よりも出力操作が下手くそなんだよ。漏れ出した出力があれば、アンタの異能に掛かっている奴がどれなのか一目で分かっちまう。どこからここまで異能の出力を飛ばしてるのかは分からないけど、馬鹿デカイ出力をただ振り回す相手なんてやりやすい標的さ』
「……!」
『……まっ、最初に比べたら随分成長してると思うし、そもそも精神干渉系統の異能でここまで出力を持っているのはそれだけで厄介だとは思うけどね』
地団太を踏むようにペタペタ足踏みする小さなフクロウを軽く笑いながら、老女は呟いた。
精神干渉によって操られたフクロウから漏れだす異能の出力。
最初よりは随分と無駄が減っているとは思うが、今でも調整がへたっぴと言えるほど大きく漏れ出しているのが現状だった。
異能の使用を受けているだけの動物が、これだけ大きな出力を振り撒いているのを見るとまず間違いなく本体である異能持ちが膨大な出力を有しているのは間違いない。
世界を巡っていた時にこんな化け物染みた出力を有する異能持ちなどいたかと老婆は首を傾げながら、最初よりも手際良くなっているお茶出しの後ろ姿を眺めた。
(それにしても、やっぱり探知できないね。コイツの大元はどこにいるのやら)
精神干渉という距離を小細工で広げやすい異能とはいえ、長い時を生きて異能の扱いを磨き続けた老女が探知できない距離から異能を行使しているのは間違いのない事実。
まさか国を跨いで異能を使用しているなんてことは無いと思うが、それでも自身を明確に上回る部分を持っている姿の分からない人物の力量をヘレナは高く評価していた。
かなり距離がある中、動物の意識を自分の意のままに操る緻密な異能操作をしている。
これだけでまず間違いなく、この珍妙な相手はかなり異能の才能を持っているとは思うが、人との関わりを放棄した老女にとってはどうでも良い事だ。
自分の余生が終わるまでの暇な時間を使って、変に突っかかって来るこの相手で遊べれば、それで良い。
それ以上、この不思議な話し相手を知ろうという意欲も無いし、コイツもそれを望んでいると老女は思っていた。
『とはいえ、この私を基準にして自分の出力操作訓練をしようとする奴に会う事になるとはね。少し前の私なら想像すらしなかったよ』
「……」
『別に馬鹿にはしてないよ。自分の傲慢になっていた考え方に気付かされてただけさね。というか、アンタもこんな捻くれた婆の嫌味を聞かされて本当によく通い詰める気になるね。そんな努力家ならもっと別のやり方もあるんだろうに……』
何か大きな目標でもあるのだろうかと思いながら、人との関わりを放棄した筈の老女はせっせと努力を重ねる不思議な相手を見詰めた。
『まあ、直接会うことも無いんだろうし、私には全く関係も無いんだろうけどね。いずれアンタのその努力が実って、目標を成し遂げられると良いね』
‐1‐
たった一人の到着。
それだけで、破壊音や大声に満たされていた国会議事堂の中が緊張の張り詰めた沈黙に支配される。
突如として現れた人物に液体人間達は動揺し、柿崎や“紫龍”は困惑し、老女を知るベルガルドは安堵のため息を漏らした。
じっと幼い少女の姿を見詰めていた老女だったが、慌てて室内に飛び込んで来た少年がそんな彼女に叫ぶ。
「ヘレナお婆さん! ロランさんも楼杏さんも、警察の人達も凄い怪我だよっ……早く治療しないと!」
「レムリア、そう急かすもんじゃない。それをやった奴はまだ私達の前にいるんだから、私達の行動方針を狭めるようなことは言っちゃ駄目だよ」
「けどっ……死んじゃったら……!」
「死にゃあしないよ。それよりも、私達がやられたらそれこそ本当に終わりさ。レムリア、液状の奴らが怪我人を襲った時の相手を頼むよ。それまでは下がってな」
「液状の奴らって、前の病院の中にいた……」
適当にそう言いながらも、ヘレナは頭の中でルシア達がもう間もなく到着する事を計算し、ロランや楼杏、飛鳥といった者達の怪我の具合を遠目に確認した上で、自身の異能の優先順位を決めていく。
老獪に、淡々と、人命第一に。
それでもあくまで外面上は、治療は二の次という冷徹な姿勢を示し、目の前の幼い少女から視線を外さないのは、この相手が今までの相手とは次元が違うと分かっているからだ。
ちょっとだけ動揺を見せている幼い少女に対して、ヘレナは声を掛ける。
「出力の多さは想定通り、ただ出力操作に関しては何だか随分と成長してないね。アンタほどの才能があったなら、今はもっと異能の扱いが上手くなっているものだと思ったんだけど、努力を怠ったのかい?」
「……年寄りが随分遠出するのね。体に悪いわよ」
「死ぬに死にきれないくらい心配事が増えちまったのさ。それが片付くまでは現役でいるつもりだよ」
「人嫌いの老魔女が健康的に外と接点を持つのは良い事ね。その内カビやキノコが生えるんじゃないかと常々思ってたわ」
「少しは申し訳なさそうにしなクソガキ」
「心配を掛けたつもりは無いわ」
初めて会う老女と少女の今にも喧嘩が始まりそうな会話。
まるで仲が良いのか悪いのか分からない師弟が交わすようなやり取りが始まり、お互いが苛立ちと共に異能の出力を解放し始めた。
じっと体の動きを観察し、直ぐにでも異能を使用できる状態を作りながらも、今のやり取りでさらに大きくなった疑いをヘレナは自覚する。
「……アンタは」
「人違いよ」
だが、問い掛けようとしたヘレナに、幼い少女の姿をした“百貌”は先んじて否定を口にした。
少し驚いたヘレナに、幼い少女の姿をした“百貌”が冷たく続ける。
「私から言えることはあるけど、私の立場で言うべきことは無いの。今の私と貴女の関係は、敵でしかないわ」
「ふん、そうかい」
返答されたそれだけで、ヘレナは何となく理解して話を打ち切る。
“顔の無い巨人”と“百貌”が別人で、ヘレナが面倒を見切れなかったと後悔する相手とは違うのは分かっていた事だった。
けれど全くの別人というにも少し違和感があるのも事実。
少しの引っ掛かりを覚えながらも解放された出力量が僅かに幼い少女が上回っているのを理解し、ヘレナは考えを戦闘用のものへと切り替えていく。
そして、空気中に極めて薄い異能の出力が空から降ってきている事を探知して、その実行犯が目の前の少女で間違いないのを確信したヘレナは、通告する。
「最後に確認するけどね。空から振り撒いてる不気味な異能の出力を止めるつもりはないのかい? ウチの部下達を傷付けた事は擦れ違いがあったと目を瞑ろう。ここを占拠した国外の信者共を無力化したって連絡は聞いたからね。でもそれ以上は駄目だね。世界規模にデカい事をやろうとしてるのは現状を見れば疑いようがないからね。異能による世界侵略の再来を、私達は認めるつもりは無いのさ」
「状況を理解しているのは流石だと思うけど……それが正しい世界平和だったとしても私を止めるの?」
「アンタみたいなクソガキ一人の考えで正しい世界平和なんて実現できるもんじゃないし、それは私達誰もが同じさ。だからこそ私達が掲げるのは、異能を持つ者も持たない者も平等に暮らす世界の基盤構築だ。異能は単なる個性の一部で、異能を持たないことは欠落じゃなくて、異能を持つ者も持たない者も普通の生活を送れる世界の価値観が広がるよう目指してる。異能を持つ者を頂点とした強制統治なんていうディストピアは望んじゃいないのさ」
「貴女の思想を私は否定しない。けど同時に、私の思い描いた“人神計画”に欠陥なんて無い。世界に散らばる愚物と醜悪な悪性を適切に処置して、資源を最大限有効活用して、この世界に私の平和を必ず実現させる。させてみせる。他の誰もやらないというのなら、他ならない私が成し遂げてみせる」
「世界平和を願う気持ちを悪いとは言わないけど、ちょっと拗らせ過ぎだね。若気の至りで思い上がるのもほどほどにしな。人間なんてどれだけ優秀でも、たった一人で世界を支配する事はできないものさ。どれだけ才能があっても、どれだけ長生きしても、それは出来やしない事なんだよ」
話は平行線かと、あまりに年の離れた二人は理解して。
「年老いた老婆一人に力及ばない事で、その現実を教えてやるよクソガキ」
「小娘一人に轢き潰される事で、その古い価値観を一変させてあげるわ御婆様」
叩き付け合うような会話の応酬を最後に、お互いの理不尽な力を振るい合う。
「どうせ既に小細工を仕掛けて来ているんだろう? これだけ時間があったなら私の思考や五感に齟齬を作り終えたってところかい」
手を放し、倒れていく杖をそのままにして、ヘレナは自身の異能を起動させる。
その瞬間、カチリと国会議事堂全体の状態が変化した。
時間経過で劣化していく事の逆。
時間回帰により状態の劣化が元の状態へと強制的に巻き戻っていく。
壊れた壁や破れた布が修復されていき、血だまりに沈んでいた者達の傷が消える。
ロランがいくつも作り上げていた鋼鉄の障害物が掻き消えて、楼杏により破壊されていた巨人の傷が塞がっていく。
そして何よりも、ヘレナは自分自身に掛けられていた“精神干渉”による変化も、時間回帰によって元の状態に戻して見せたのだ。
瞬く間に周囲の状態を正常なものに戻して見せたヘレナに、液体人間に自身の周囲を囲ませることで巻き戻しの異能を防いだ“百貌”が息を呑む。
「時間回帰……やっぱりその異能は理不尽ね。時間なんて普通操って良いものじゃないわ。明らかに規模の違う、直接世界に影響を与える異能」
周りを見渡し、自分が成し遂げたものの数々が全て無に帰されているのを確認し、心なしか楽しそうにそう評した“百貌”が、周囲に渦巻く球体を複数浮かべているヘレナを見遣る。
状態のみの時間回帰。
ただ出力を振り回して異能本来の力を使うだけなら、時間丸ごと逆行する筈のヘレナの異能使用に“百貌”は挑発するように笑い声を溢した。
「でも、何で完全な時間回帰をしないかしらね、状態のみに限定した時間回帰なんて器用な事をするのは不思議よね。もしかしてそれって、今の貴女の姿が若返っているのと関係があるのかしら」
その瞬間、先ほどよりも若干若返ったヘレナが浮遊させていた球体を撃ち出した。
時間回帰という現象を内封した球体。
触れるもの全ての時間を無理やり回帰させ、加工物を原料に、成人を幼子に、異能で作り出した現象を無に帰す回帰の力。
そして同時にその球体は、物理的には存在しない異能出力の塊だ。
だから障害物で防ぐことも出来なければ、刀剣や銃弾で破壊することも出来ない。
防ぐ術は存在せず、避けるしか対処方法の無い球体。
そんな理不尽極まりない力の塊が迫り来るのを、幼い少女の姿をした“百貌”は眉一つ動かさずにその場に留まり、観察するように眺め続けた。
「どれだけ凄い異能にも相性がある————貴女もそれはよく口にしていたわよね」
“百貌”のその言葉が合図だった。
異能の出力を弾く外皮を持った液体人間の一体が何処からか飛び出して、時間回帰の球体へ正面から体当たりするようにぶつかった。
そうすれば、異能そのものを弾く性質を持った外皮に通過された時間回帰の異能の力は構造的な安定性を失い、散り散りに消えて無くなる。
ヘレナが作り出す球体の性能を知るレムリアやベルガルドが絶句するのを余所に、幼い少女の姿をした“百貌”が消えて無くなった球体を満足げに見届ける。
「貴女の異能を知っていて対策を講じない訳が無いでしょう。時間停止や時間回帰なんていう反則技も、構成上の隙間を突けば突破は困難じゃない。無敵に思える力程、あっさり破れる事なんて珍しくもなくて」
「ペラペラと良く喋る口だね。自慢話でもしたいのかい?」
時間という物理的な攻撃性能の無い、概念系の異能ゆえの対策。
異能そのものを弾く液体人間という天敵が何処からともなく集ってくるのを前にして、ヘレナは好戦的に一歩踏み出す。
もはや杖すら必要ないほどに若返った老女は液体人間達を侍らす幼い少女の姿をした“百貌”に向けて、真っ直ぐ突き進んでいく。
時間を掛けない。攻撃に怯みなどしない。そんなヘレナの強気な姿勢を感じさせる姿に、手札が豊富にある筈の“百貌”の方が怯んだように表情を歪めた。
「私の異能に明確な対策をしてくる奴は初めてだ。何処までやれるのか楽しくなってきたよ」
「……自分の異能の限界を知りたい戦闘狂キャラだったのね。あ、待って、もしかして異能を使うごとに若返って凶暴化するんじゃ……」
「凶暴化なんて野蛮な言い方だね。知識欲が溢れ出すとでも言っておくれ」
“百貌”のそんな不安そうな言葉を肯定するようなヘレナの返答。
その返答を聞き、物凄い嫌そうな顔を浮かべた“百貌”が何か言うよりも先に、単身で向かってくるヘレナに反応した液体人間の一体が襲い掛かった。
高速で目前までやってきた液体人間に対して、ヘレナは懐から拳銃を抜いて構えた。
「異能の効果を引き上げるのは何も異能の鍛錬だけじゃない。環境や機材を利用すれば、異能の練度関係なしに効果を引き上げる事も可能さ」
小さな、それこそ威力が低く反動もほとんど無いような拳銃の登場に、自分を破壊するほどの威力がないと判断した液体人間がそのままヘレナを硬質化した腕で突き刺そうとして。
「例えば銃弾に異能の現象を付与したりね」
「ア?」
撃ち出された銃弾そのものの時間が加速し、異常な速度に達した銃弾が小さな傷も付けられない筈だった液体人間の外皮を軽く抉った。
異能による銃弾の強化。
それでも破壊とまではいかず、本当に小さく異能を弾く外皮を貫くのみの銃弾だったが、当然それだけでは液体人間を打倒するほどの影響などある筈も無い。
だが銃弾が異能の出力を弾く外皮を僅かに貫いたことによって、銃弾に込められた異能が液体人間の体内に届き、独立して活動する異能生命体の核に異能の効力を届かせた。
より正確に言うなら、核を異能が開花する前の状態へと回帰させた。
「ア」
ポシュンと気の抜けた音とともに、ヘレナに襲い掛かっていた液体人間の姿が消えて無くなった。
小さな威力も無いような拳銃一つで、液体人間の一体を消して見せたヘレナに、他の液体人間達は動揺し、“百貌”も表情を曇らせる。
物理的な攻撃で外皮を破壊し、核を露出させて何かしらの攻撃を加える。
液体人間を倒すために必要だったその二つの手順が、ヘレナには銃弾を撃つだけに省略されてしまう。
ヘレナの対策として用意していた液体人間が簡単に攻略された事実に、“百貌”は困ったように呻き声を漏らした。
「流石に……ここまで簡単に突破されるのは想定外」
「ドウスルッ!? 一斉ニ襲イ掛カッテモ良イゾ!? 分身体ノ数ハ余裕ガアル!」
「馬鹿。あのお婆さんの他にも物理に強い子供の異能持ちがいるでしょ。貴女達が纏まって全員やられて、世界丸ごと時間停止されたら対策が無いじゃない」
「ナラ!?」
「煩いわね。本当はしっかりとした対策を成立させた上で安全に勝ちたかったけど、こうなったら力押し以外無いでしょ。私がやるわ。対異能を想定して考えていた技も試してみたいし」
目の前の強敵であるヘレナから視線を逸らし、傷が治ったものの未だに意識が無いロランや楼杏の居場所を確認した“百貌”は焦りを浮かべる液体人間の言葉を軽く流して呟く。
頭に浮かんだ同士討ちの搦め手を却下して、自分の異能へ持つ絶対的な自信を示すように攻撃的なものへと切り替える。
「さて、そろそろ異能持ちとの戦いにも慣れて来たわね」
コキリと指を鳴らした“百貌”が突き進んでくるヘレナに対し、迎え撃つように異能を起動した。
“精神干渉”の力なんて、普通なら物理現象を引き起こせるものでは無い。
けれどそれを覆すような巨大な異能の出力が“百貌”から噴き出し、何も無い空間を掴むように手を伸ばした事で異常事態が引き起こされた。
「感覚裁断」
「!?」
掴まれた空中に亀裂が走る。
手の中のひび割れた亀裂をさらに幾分にも枝分かれさせ、幾重もの裂傷を世界に生み出す。
そして手の中に生み出したその亀裂をヘレナへと放った瞬間、亀裂が高速で世界を侵食し、ヘレナの下へと殺到した。
視界を埋め尽くす裂傷の波に、ヘレナは顔色を変えた。
「それはっ、ヤバそうじゃないかっ!?」
無数の稲妻がそれぞれ意志を持って飛んでくるような光景。
咄嗟に時間回帰の球体を作り出し盾にするが、亀裂という異能の現象を時間回帰で無に帰すどころか、僅かな拮抗も無く裁断されたのを目の当たりにしてヘレナが息を呑む。
空中を縦横無尽に走り回り触れた全てを裁断する数多の亀裂が、あらゆる方向から自身の目前に迫る光景にヘレナが背筋を凍らせた。
だが、視界の端に映ったレムリアの困惑したような表情を見て、ヘレナは現状を直ぐに理解した。
「————誤認かい……!」
「あら、バレちゃった」
亀裂が届く直前、ヘレナは自身を対象に時間回帰を施し、受けていた“精神干渉”を解除する。
ギリギリで、全てを切断する世界の亀裂が消滅したのを確認し、致命の一撃を回避できたことに一瞬だけ安堵したが、“百貌”が床を掴んでいるのを見て次なる攻撃が来ると身構えた。
「意識混濁(ソウルシェイカ―)」
「次は何をっ……!?」
その言葉の後、最初に感じたのは本当に小さな振動だった。
だが次の瞬間、グラリと世界がひっくり返り、上下の感覚が逆さまになる。
頭の上に先ほどまでいた床が見え、天井に向けて落下する感覚に心胆が冷える。
ヘレナが落下していく自身の体が天井に叩き付けられる前に掛けられただろう“精神干渉”を解除しようと、即座に時間回帰の異能を再起動した。
だが。
「これも、誤認だろうっ……がっ!?」
「感情波」
何処からともなく音が響く。
その音に乗せられた感情を強制的に揺さぶる力がヘレナの体を貫き、意識の維持を危ぶませることで“精神干渉”の解除を邪魔した。
それでもヘレナは薄皮一枚の差で、時間回帰による“精神干渉”の解除を先に成功させ、天井に向けて落下していた自身の意識を回復させることに成功する。
感情を外部から強制的に搔き乱す力に意識を朦朧とさせられながらも、自身の技を初見で凌ぎ切ったヘレナに驚く“百貌”を睨み付ける。
「ぐっ、う……! クソ、ガキ……!」
「……意識を保たれた。時間回帰を展開されている場合これはもう少し強めに打つべきね」
「アンタ、それだけ異能の使い方を用意しておいてっ……遊んでたって訳かいっ。何時でも自分の力で叩き潰せると思っていたから、別の手札を使って見ていたんだねっ……」
「酷い言い草ね。違うわ。確かに時間稼ぎはしていたけど、遊んでいた訳じゃない。必要だったから、分身体という貴女の対策を用意して、神薙隆一郎という異能持ちとの戦闘経験も持つ人物に動いて貰った。これは私の学習の為に必要な手順だったのよ」
「学習……」
「だから、何度も言うけど私は異能持ちとの戦闘は初めてなの。独学なりに戦い方をちゃんと学んでいかないと、自分に何が足りないのか分からないまま先に進んでしまう。全ての力を持って万全を期さないと、自分の気が付かない隙を突かれるかもしれない。自分の持つ力とそれ以外の使い方をちゃんと把握しておかないと、最大効率を発揮できない。だから、段階が必要だったの。出力任せ、性能任せの力押しなんて、必要になった時だけでいい」
「……異能持ちとの戦闘が初めて、かい。勤勉な奴は好きだが、ここまで来ると逆に匙を投げたくなるね。けど、まるで私を倒した後があるみたいな言い方じゃ無いか」
「あるわ、必ずね」
確信を持ってそう断言されたことにヘレナは思わず口を噤むが、“百貌”は未だこの場に辿り着いていない人物を思い浮かべながら言葉を続ける。
「成長しないと御母様に勝てないの。異能持ちとの戦闘経験を積んで、多くの手札を用意して、より成長して自分の持つ戦力全てを十全に使いこなせる状態を持って当たらないとね」
「……なるほどね、その御母様とやらが“顔の無い巨人”か」
「私は“顔の無い巨人”なんて呼ばれているのは知らなかったけどね。本当に誰が付けた名前なんだか」
そう言う幼い少女の姿をした“百貌”に、ヘレナは自分が前座かと苦笑する。
世界最強の異能使いの一角として称される自分に驕っていたつもりは無いが、誰かの前座と見られることは今まで経験したことも無かった。
確かに、“顔の無い巨人”と呼ばれる相手を見据える“百貌”にとって、世界最高峰の異能使いは最後の障害では無いのだろう。
ヘレナの力量どうこうではなく、甘く見られているという訳でも無く、ただ“百貌”の最終目標がそうというだけの話。
ヘレナだってそんなことは理解できる。
だが、自分の後悔する過去の相手に多くの相似点を持つ存在にそういった態度を取られることは、ヘレナとしてはとても思う所がある訳で。
「……普通に腹が立って来たね。こっちにも意地ってものがあるのにね」
「え?」
ポカンと呆けた顔をした“百貌”に、自身の体が八十歳程度まで若返ってしまっているのを確かめたヘレナが覚悟を決める。
「人を嘗め腐ったクソガキを躾ける為なら、もう少し長い余生になることも受け入れてやるよ」
「えっ?」
ヘレナの持つ異能は【時間を操作する】という世界そのものに影響を及ぼす異次元の異能だ。
そしてそんな世界の理を簡単に捻じ曲げるような異能を使用するために必要なエネルギーは、到底個人が持ち得る量を軽く超越している。
世界中の全てを巻き戻さず、異能の対象を限定するのだって、時間回帰の球体なんてものを無理やり作り操るのだって、消費する莫大なまでの出力を節約するためのものだ。
単純に世界中の時を止める、或いは世界中の時を巻き戻す異能をまともに使用すれば、ヘレナが持つ出力量ではほんの数分程度が限界。
世界最高峰の異能使いの出力量を持っても、その程度が限界なのが【時間を操作する力】なのだ。
ただし。
「アンタ、最初に言ったね。どうして状態だけの時間回帰にしたのか、どうして世界の全てを巻き戻さないのか。そして、私の姿が若返っている事は関係しているのかって言ったね」
「……」
「————その通りさ」
ただし、ヘレナが数百年の時を生きると言われている所以を考えれば、その前提は崩壊する。
手を前に出し、異能に変換する前の出力のみの放出を行う。
ヘレナの目前に溜まっていく指向性を持たない膨大な異能出力に、何をするつもりかと“百貌”が動揺し、警戒を強めた。
「私の異能が必要とする出力量は常軌を逸しているから、使い過ぎた場合自動的に自分に巻き戻しが掛かっちまう。異能の使い過ぎは命に関わるから、言ってしまえば防衛本能のような反応だね。私の体は出力の使い過ぎを察知すると出力を消費する前の状態に半永久的に巻き戻り続ける。だから段々と姿が若返っていくし、段々と私は全盛期に近付いていく。まあ、つまるところ」
「私を完全に倒すためには、私の人生総量を全て超える必要がある訳だ」
無理やり放出し続ける異能の出力にヘレナの防衛機能が強制的に働き、自己の巻き戻しが行われる。
独立した異能の現象である外部に溜め込まれた異能出力の塊はそのままに、ヘレナの出力が巻き戻しによって回復し、再度溜め込まれていく。
回復して溜め込んで回復して溜め込んで。
恐ろしい速度で、比類無いほど巨大な異能出力の塊を作り出したヘレナが————いや、白銀の髪をした女性が物語に出て来る悪い魔女のように笑う。
「アンタ、時間停止に並行した異能使用は出来ないと思っていたんだろう? 半分正解さ」
「……っ!? まずっ……その人を止め」
「もう遅いよ」
溜め込まれていた異能出力の塊を、異能の現象へと変換する。
指向性の持たなかった出力の塊を、巨大な時計のような形へと変換する。
それは世界の時間を停止するオブジェクト。
異能によって作り上げられたそんな被造物が、創造者の指示に従い起動する。
「外部で時間停止する物を作れば、私は別の異能の使い方を出来る。つまり時間停止が効かない液体人間どもに囲まれようが始末は可能。チェックメイトだよクソガキ」
「————」
世界の時間が停止した。
時の進みが異能により縫い留められた。
誰も彼も動きをせず、瞬き一つしない。
“百貌”も、レムリアも、雲の流れや太陽の動きも、全てが止まった終止の世界。
そんな静止した世界を創り出したヘレナが、予想通り時間停止を受けることなく襲撃してきた液体人間達に向けて銃を構えた。
「あれだけ溜め込んだんだ。一時間は時間停止が続くよ。お前達がどれだけ時間稼ぎをしようが、私がお前達を始末してあのクソガキを叩きのめすのを止める事はできないのさ」
「コ、イツ……!」
「今は四十代くらいになってるからね。アンタ達程度の攻撃、対処は難しくないよ」
静止した世界では精神干渉への警戒が必要無くなった。
老化による肉体的な衰えが無くなった。
そして何より、自身とは別に時間を停止するオブジェクトを作り出した事で、時間停止中に他の異能が使え、液体人間という天敵に対して有効打を持てている。
不利な要素を全て排除した。
だからこそ襲い掛かって来た五体の液体人間を簡単に、傷一つ負うことなく始末したヘレナは、時間停止により硬直状態のままでいる幼い少女の姿をした“百貌”の目前へと歩みを進めた。
「……さて、どうしようかね」
完全勝利の状態。
時間停止で相手は動けず、自分は自由に異能を使用できる状態。
余裕が生まれ、思考を巡らせる時間が生まれ、ヘレナに迷いが生まれてしまった。
幼い少女。
目の前にいるのは小学生程度にしか見えない姿をした子供。
手に持つ銃を撃てば簡単に命を奪える状況になって、ヘレナは覚悟を決めていた筈なのにその手が動かなくなってしまった。
拘束は難しい。
精神干渉なんていう厄介な異能を持つ相手に対して、なんの間違いも無く異能の使用を防ぎ、完全に無力化する術など今の技術では存在しない。
少しでも隙があればあらゆる人心の掌握をされる。
少しでも時間があれば都合の良い状況を作り上げられる。
そんな相手に情けを掛ける余裕なんてないのに、どうしてもヘレナは子供を手に掛ける事への躊躇を捨て去る事ができなかった。
(……もしコイツが、あの私の家に現れた妙な奴だったとして。私がちゃんと導いてやれなかった奴だとして。私は危険だからという理由で命を奪う選択を取れるのか……)
彫像のように動かない少女の瞳。
大人びた口調と達観した価値観を持って、異能による世界掌握を宣言した子供。
ヘレナは少女の事を何も知らないが、彼女にもこうして大それた目的を掲げるだけの理由があるだろうし、彼女を大切に想う人もいるのだろう。
そうやって考えるから、合理的にばかり考える事に疲れてしまったから、ヘレナは人との関わりを止めてひっそりと一人余生を送り始めたのに、こうしてまた目の前に突き付けられる事となった選択に胸が苦しくなる。
少女の額に向けていた銃を下し、ヘレナは疲れたように首を振った。
有り余り過ぎた時間が、かえってヘレナに決断を遅らせた。
だが今回ばかりはその決断の遅れは悪いものでは無かった。
「少し、意外だったわ。貴女は容赦なく引き金を引けるものだと思っていたんだけど」
「!?」
背後から掛けられたあり得ない声。
弾かれた様に振り返ったヘレナの視線の先には幼い少女の姿をした“百貌”が、困ったような顔をして立っている姿があった。
慌てて自身が作成した筈の時間を停止するオブジェクトを確認するが、未だに正しく起動状態にある上、溜め込まれた異能出力も余裕がある。
今なお世界は停止している状態の中で、“百貌”はその異能の効果から逃れている。
何故、というヘレナの頭の中の疑問に“百貌”は回答する。
「世界中の時間を停止しても停止していないものがあったでしょう? 貴女という時間は進み続けていたんだから、事前に仕掛けた貴女の精神への干渉は続く。だから貴女はこれまで私を見付けられなかった」
「……アンタは私の誤認による存在って訳かい?」
「それも違うわ。異能の出力を弾く外皮はね、体に纏わりつかせることで身を守る術にも出来るのよ。厄介よねこれ。例の医者から異能の出力を感知出来なかった理由がコレだと聞いていたかは知らないけど、私から異能の出力が感知出来て油断したわね」
「……世界全ての時間停止に対する警戒を見せながら、時間停止された時こそアンタの勝ちが確定する訳だった。私はまんまと踊らされちまったのかい」
「まあ、そうね。貴女が膨大な出力を使用して世界停止を行えば、貴女の援護をする人達への警戒も必要無くなる訳だしね。でも、時間停止の中でも他に異能の使用が出来るのは想像してなかったし、最後の最後で想定外が起きたから、私が全部上回れた訳でも無いわ」
“百貌”が世界の時間を停止する時計のオブジェクトに触れて、その形を確かめるようにゆっくりと撫でる。
そして解析が済んだのか、感心するように息を吐いた“百貌”が軽く指先で時計の中心を押せば、世界の時間を停止する時計のオブジェクトは風に運ばれる砂のように細かくなって消えていった。
その瞬間、世界の時間が元通りに進み始める。
雲が流れ、太陽が西方向へと動き、瞬き一つしなかった者達が息を吹き返したように周りを見渡し始めた。
だが停止していた者達にとってはほんの一瞬で状況が一変している光景に理解が追い付かず、“百貌”とヘレナ、状況を把握できている二人のやり取りを呆然と眺めるしかなかった。
「……わざわざ自分の有利な環境を捨てて、いったい何のつもりだい?」
「私はね、醜悪な悪人以外を進んで傷付けようとは思わない。優しい人には優しい対応をするくらいの分別を持っているつもりよ」
「クソガキ」
「怒らないで。貴女を甘く見ている訳じゃ無い。私の目的の為の時間稼ぎが終わったの。だからこれ以上の戦闘は不要だと判断しただけよ」
時間が進み始めてすぐ。
焦りを滲ませ室内に飛び込んで来たルシア達を見遣り、その中に【見分ける異能】を持つミレーを見付けた“百貌”が現状を正しく見破られたのを確信する。
最終段階へと差し掛かった自分の【人神計画】を完遂するために、起動させていた人工衛星という出力機によって見つけ出したモノへと視線を向けた。
『ヘレナさんっ……! 空から降ってくるこの異能の出力は何か現象を引き起こすものじゃないです! この微弱な出力は視認できない何かを世界から探知するためのもので————』
「マナーのなっていない観客ね。種明かしは舞台上の芸者が行うものよ」
何かを言い掛けたルシアを遮り、“百貌”が空に浮かぶソレを見詰め続ける。
何かを届かせるように、世界を満たした異能出力でしっかりと捕捉した姿無きソレに何かを届かせるように。
未来の自分が思い描いていた計画に着手していたなら、必要なのは「創る」ことではなく「探す」ことだった。
自分の未来が分からなくとも、計画していたアレをいずれ創り上げているという自信が彼女にはあった。
そして、その自信の通り探し求めていたものは無事に見つかった。
一度始めた【人神計画】を再び始める為に見付けたアレへと手を伸ばす。
それから、“百貌”は視線を動かした。
異能犯罪によって大切な人達が犠牲になった暴徒達。
様々な思惑に翻弄されるしかなかった飛鳥達。
異能を持つ者達が普通に暮らせるよう願っていたロラン達。
色んな考えを思い浮かべながら、この場に倒れた者達を見遣り、そして最後に幼い少女は狼狽するヘレナへと顔を向けた。
「やっぱり貴女は優しすぎるわ。優しい人が自分を傷付けながら誰かの命を奪う選択をしなくちゃいけない世界は、間違っている」
遠い昔はヘレナだって思ったそんなことを、少女は言う。
きっと間違っているのだと、きっと誰かが何とかしなくちゃいけないのだと、そうやって信じている少女は頑なに言い続ける。
「私と貴女の闘いは貴女の勝ち。出力がまだまだ回復し続ける貴女も、こうして応援に来たお仲間達も、貴女が回復してしまった人達も、全部纏めて何とかするのは難しいからね。私の想像や手札、何よりも経験が足りなかった。今の私が貴女を上回るのは難しい。だから、こうして悪あがきのズルをするのは許してほしいわ」
そして結局、世界最高峰の異能使いと呼ばれ、多くの人達に慕われるヘレナという偉人は拗らせ切った子供の思考を否定し切ることが出来なかった。
たった一人で為す世界掌握なんてそんなこと出来る訳が無いのに、ヘレナはそんな単純な事すら証明できずに、目の前で実行されようとしているナニカを止めるために銃口を少女に向けようとしたのに。
「うん……あのね。私の努力が実って目的が達成されるのをそこで見届けて御師匠様」
「————」
結局、ヘレナは聞きたくなかったそんな言葉を聞いてしまって、銃口を向け切れないまま、少女の実行する最後の行動を止めることも出来ずに見詰めてしまう。
その結果、突如として現れたあまりに巨大な黒き太陽に気が付いたのはミレーの悲鳴を耳にしてからだった。
あり得ない大きさ。
あり得ない非現実。
あり得ない程の、あまりに神々しい御身を目の当たりにして、それが本物の神だと思ってしまった。
「人類を管理して【エクス・デウス】」
黒き太陽が起動した。
【人神】エクス・デウスが起動した。
惑星が空に現れて、地球に住む者達全てに巨大な影を落としていく。
もう日が沈み始める夕暮れ時。
ようやく目的の人物の背中が見えた時、その人物はこんな事態を引き起こした張本人である筈なのに、どこか寂しそうに空を見上げていた。
「————遅かったわね、御母様」
ビルの屋上でボンヤリと空を眺めていた“百貌”が背後に現れた私達に気が付いてゆっくりと振り返る。
わざわざ高い場所に来て何をしているのかと思っていたのに、やっていた事と言えば空に漂う例のアレを眺めていただけだった。
「本当はICPOよりも先に御母様が来るものだと思っていたのに随分時間を掛けるものだから、この子の掌握に抵抗できなかったんじゃないかと少し不安になったけど、こうして来てくれて安心したわ。この舞台への招待が出来たみたいで本当に良かった」
改めて、間近で“百貌”の姿を見ると、昔の自分の姿を本当にそのまま生き写ししたように思えて動揺してしまう。
仕草や口調、表情に態度。
全てが本当に昔の自分で、まるでもう一人の自分が目の前にいるようで、この人物が持つ異能の詳細をおぼろげに理解し、最悪のパターンだったのだと今更ながら理解する。
視線を外して、私より一歩前に立っている神楽坂さんを見遣ると“百貌”は不思議そうに首を傾げた。
「予想外にもう一人いるみたいだけど……まあ、異能も持たないなら、誤差みたいなものね。歓迎はしないけど、許容はしてあげる。大人しくしていれば怪我することは無いわよ」
厳しい目を向ける神楽坂さんに対して興味なさそうにそれだけ言った“百貌”は、すぐに唯一敵と成り得る異能持ちの私へと視線を戻した。
「ねえ御母様。交わしたい言葉もあるし色々聞きたい事もあるけど、何よりも先に見て欲しいのよ。この完成された世界————神様の望む形をね」
そして“百貌”は屋上から眼下に広がる街中の光景を、宝石箱の中身を見せびらかすように指示す。
眼下にあるのは人々の普通の生活。
人々は理路整然と働き、規律正しく必要な行動をとり、誰もが見知らぬ他人を思い遣り譲り合いながら小さな違反一つしない光景。
信号を守り、車は法定速度で、歩く人は決まって片側。
挨拶を交わし、優しさを振り撒く、人が善意と善意を交わし合う正のスパイラル。
間違いの存在しない世界。
偶然の不幸なんて起きず、どんな悪意も生まれない。
不幸も、不注意も、不義理も、不足も、醜悪なものは何一つとして存在しない。
まるで巨大な何かに人類すべてが管理されたような、そんな事を思ってしまう世界がある。
それを見せつけた“百貌”は「素晴らしいでしょう?」と言って誇る。
「私が憧れた貴女の夢を、私は引き継いで叶えて見せた。だから分かるでしょう御母様。この完成された世界平和において、掌握を受け入れていない御母様は不純物なの」
間違ったものを正すにはどうしたらいいか。
世界に広がる醜悪を正しく処理するにはどうしたらいいか。
そんな事を考えてばかりいた昔の私が出した答えが、形となって突き付けられる。
「貴女の夢は私が叶えるから、御母様は安心してこの子の掌握を受け入れて」
そう言って“百貌”は……いいや、目の前に現れた私の過去は、両手を広げて笑うのだ。
 




