その手の責任
間章四話目です!
例のハイジャックから数日。
事件処理もある程度進み、怪我人の治療や帰国処理が終わり始め、少し余裕が出て来た業務の傍ら、組織の中で特殊な役割を担う者達が集められていた。
華美な装飾品はないものの、荘厳と静謐に重きを置いた黒塗りの長机が中央に位置し、それを囲うように革製の椅子が並べられた広い会議室。
国の重鎮や企業の重役が使う場所のような、そんな印象を抱かせる部屋の間取りの中で、集められた者達が久しぶりに会った同僚へ声を掛け合っている。
集められた者達の中で、一際年若い金髪の少年に対して猟犬を思わせる鋭い目つきの男性が声を掛けた。
『レムリア、大事なかったか。例の“死の商人”の異能に囚われたと聞いていたから心配していたが、会議に出られるという事は少なくとも後遺症が残るような怪我は無かったんだな?』
『あ、はは。うん、ありがとうアブサント。僕の体調は、今は全然問題無いんだ。怪我も無いし、後遺症も無いし、お医者さんが頑張ってくれたから大丈夫』
『そうか。それは何よりだが、それにしては表情が暗いな』
『そんなことないよ、うん。そんなことないんだけどね』
『……』
レムリアとアブサント。
彼らの仲は特別良い訳ではないが、普段は必要なこと以外口を開かない寡黙なアブサントが気遣うくらい今のレムリアの表情は暗かった。
ここに集められた者達の中でもほぼ確実に最年少の少年。
保護された立場であるから正確な年齢は不明だが、小さな体躯に線の細さ、未発達な身体機能を考えれば他の者達よりも二回り近く年齢に違いがあるだろうことは想像に難しくない。
本来であれば彼らの人員の一人としてなど数えられない程に子供であることは間違いないが、異能という非常識が呪いのようにこの少年の価値を著しく高めてしまっている。
世界的にも類を見ない、二つの異能を同時に持つという希少性を持った彼は、この場に集められた異能犯罪に対応する者達の中でも一際価値のある少年なのだ。
だが、いくら非現実的なまでの才能があっても子供は子供、精神面までは成熟していないのを知っているからこそ、アブサントはらしくも無く慰めの言葉を掛ける。
『遅れを取った事ならそう気を病むな。奴の異能は常軌を逸していた』
『あはは、アブサントは優しいね』
『俺は事実しか言わん。思ってもいない言葉を吐くような労力など使いたくも無い』
ぶっきらぼうにそう言い捨てたアブサントだが、それを受けたレムリアは困ったように笑うだけだ。
先日の“死の商人”が引き起こした異能犯罪を解決する上で、レムリアが独断行為で窮地に立たされたのをここにいる者達は知っている。
その時の状況や経緯も知っているし、レムリアの行動で助かった命が多くあったのも理解している。
だがそれでも、単独行動で敵の手に落ちてしまったレムリアの判断を、この場にいる者は誰一人として間違いで無かったなどとは言えないのだ。
そして、間違いを犯してしまったレムリア自身もそれは充分に分かっているからこそ、アブサントの気遣いに甘える事が出来ないのだ。
気遣った筈なのに逆に変なしこりを産んでしまったようで、口を噤んだアブサントは少し困ったように眉間に皺を寄せた。
妙な沈黙が二人を包んだ。
二人の間で擦れ違いが起きているのは、外から見ていても直ぐに分かる。
『アブサントは随分人当たりが良くなったというか、気配りが出来るようになったというか、悪くない進歩をしてるじゃないか。ルシア、私が見ない間に何を仕込んだんだい?』
『ヘレナ女史、別に私は何もしていません。アブは日本語の勉強を時々レムリアに手伝ってもらっていましたから恩を感じているんですよ。変な憶測を口にしないでください』
『ヒヒッ、そういうことにしておこうかね。しかしまあ、今のレムリアに気遣いの言葉は逆効果だろうね』
『まあ、そうなんでしょうけれど……』
普段よりも幾分楽し気なヘレナの反応。
ハイジャックの件の後始末でヘレナは誰よりも忙しい身である筈なのに最近……より限定するのならレムリアが復帰できるようになってからは非常に上機嫌な様を見せている。
年の離れた息子か、はたまた孫か。
彼女がレムリアに対してそんな感情を持っている事は、事情を知る者達は皆が知っている事であるが、異能の性質がゆえに長命な彼女がここまで態度を表に出すのは珍しい。
『……ふん、仕方ないね』
二人の成り行きを見守っていたヘレナはそう言うと、何をするのかという目をしたルシアを置いて席を立ち、レムリアのところまで歩み寄る。
怪我を治して復帰したばかりのレムリアの前にやってきた、ICPOの異能対策部署に置いて実質的な最高権力者であり、彼の直属の上司でもあるヘレナの姿に部屋で飛び交っていた雑談が止まった。
『レムリア』
緊張が部屋を満たす。
重苦しい空気を醸しながら、ヘレナはじっとレムリアを見詰める。
『今更だがね。私の指示に従わなかったあの時の判断は間違いだった。それはレムリアも分かっているね?』
ビクリとレムリアの肩が震え、隣にいるアブサントがヘレナの言葉を止めようと立ち上がり掛ける。
だがそんなアブサントの動きをヘレナは一瞥する事で止めて、続きを切り出した。
『私達が二人一組での行動を基本にしているのは異能相性の相互補完を図るためだ。異能同士のぶつかり合いにおいて勝敗を分けるのは技量や力量だけじゃない。相性っていうのも無視できない重要な要素なんだ。相性をどうにかしようとしても、本人だけの努力じゃどうにもならないし、私達の立場では敵を選ぶ事はできやしない。だから、相性不利を準備段階で埋めるのがこの考え方なんだよ。片方が勝手な行動をしたら、この考えが根本から崩れちまう』
『……はい』
『あの時のレムリアは私の指示に従わず人命救助を優先した。結果的に見れば間違ってなかったかもしれないし、人道的には称賛されることかもしれないけど、何か一つでも違えばもっと被害が増えていた恐れのある危険な選択だった。レムリアと私が共倒れになった時、あのテロリストが国家単位で占拠を拡大する可能性だってあった訳だ。だから私は、保護者としても、上司としても、レムリアには言わなくちゃいけない』
『っ……』
冷静に、淡々と、理路整然と反省点を並べていく。
怪我や後始末、あるいは結果的にはあの独断行為により救われた命があって、ずっと後回しにしていたレムリアへの叱責をヘレナは行う。
『————まったく! 本当にあり得ないよ! 私の指示に従わないで飛び出した挙句“死の商人”に操られるなんて! レムリア! 反省してるのかい!? 危なかったんだよ!?』
『え!? ご、ごめんなさい!』
急に態度を変貌させ怒り心頭となったヘレナに、レムリアが動揺しつつ慌てて頭を下げる。
先ほどまでの理詰めで叱責する上司の姿は何処へやら、感情的に怒り狂うヘレナの姿に二人の様子を窺っていた周囲の者達は目を丸くした。
しかし、そんな周りの目など気にもならないようで、ヘレナは早口でレムリアを叱りつける。
『それに、緊急時だったとはいえ異能の使い方も下手くそだったよ! ちゃんと冷静なら飛行機が建物に衝突する前に駆け付けられた筈だし、飛行機の真正面を陣取れてたら衝撃全てを吸収出来てた筈だった! 今回のレムリアは駄目駄目だよ! 駄目駄目! 点数にしたら20点さ!』
『あぅぅ……』
『そ、そんな言わなくてもいいんじゃ』
『ルシアは黙ってな!』
もはや冷静な上司の叱責などでは無く、ただの激昂するお婆さんが騒ぐだけの場と化す会議室。
子供の考える罵倒のような中身の無い怒声がひとしきりレムリアに浴びせられ、投げ付ける罵声の語彙が無くなったヘレナがむっつりと黙り込むまでそれは続けられた。
すっかり静まり返ってしまったその場で、ヘレナはようやく誰かに怒られたレムリアの表情が先ほどよりも明るくなっているのを確認して深く溜息を吐いた。
『ともかくね、今後は私の指示に従いな。いつも助けてやれる訳じゃ無いんだからね』
『……ヘレナお婆さんごめんなさい』
『私が見捨てろって言った時は私の責任で見捨てるんだ、良いね? ……ただまあ、もしも今回と同じ状況になった時、私がレムリアに単独で飛行機を止めさせても問題無いって思うくらい、もっと冷静に、もっと異能を使えるように練習しておくんだよ。そうすりゃ私がちゃんとレムリアにお願いするからね』
『……うん』
何だか綺麗に纏めてしまったヘレナの手腕を目の当たりにしたルシアは、きっとこれは一連の演技だったのだろうと思った。
悪い点を反省できるよう指摘し、感情を爆発させた厄介な老人を演じて居心地の悪さを軽減させ、最後には自分も譲歩する姿勢を見せて優しく相手に言い聞かせる。
喜怒哀楽を巧みに使い分け、自分達を含めた周りの人達の感情にも悔恨を残さないように叱責を成立させたヘレナの人心掌握術はあまりに年季を感じさせた。
だがそれだけではない。
そもそもヘレナがこうして叱責したのは、他の誰も独断行為をしたレムリアを怒らなかったからだ。
自分の間違いを理解しているレムリアを誰も責めなかったからこそ、逆にレムリアは精神的に息苦しさを感じていたのだろうと、叱られたばかりなのに表情が明るくなったレムリアを見てルシアはそう思った。
だから、元の席に戻って来たヘレナにルシアはぼそりと声を掛けた。
『流石ですね、ヘレナ女史。勉強になります』
『よしな。数百年生きてたら誰にでも出来るような事だよ。年長者として気を使っただけさ』
『いいえ、それでも流石です。異能という面では絶対に追いつけなくても、ヘレナ女史のそういった気遣いをしっかり学ばせていただきたいと思います』
『ルシアは真面目だねぇ』
アブサントが表情の明るくなったレムリアに首を傾げながら話し掛けているのを見て、ルシアは嬉しそうにヘレナを称賛する。
だが、そんな称賛を軽く聞き流しながらヘレナは再び席に腰を下ろし、この場に集まっている者達をゆっくりと眺めた。
ヘレナが集めて来た異能持ちのメンバー。
個人間に差はあれど全員が異能の扱いに長け、様々な事件の経験を得た事で凶悪な異能持ちにすら余裕を持って対処できるようになってきたこの組織。
世界に広がる異能を開花させる薬品による被害を完全に抑える事はできていないが、それでも異能犯罪を解決するための要領などを、組織として経験してきた。
間違いなく成長していて、数年前ではできなかった事もきっと今の彼らには成し得るだろうという信頼がある。
そして自分が育てて来た組織がしっかりとした形になっているのを目の当たりにして、ヘレナは思い出す事がある。
(……私がちゃんと面倒を見てれば、アイツもここにいたのかね)
長すぎる生に疲れ、もう誰とも関わり合いになりたくなくて、人のいない森奥で一人生活していた時に出会ったあの存在の事をついつい思い出してしまう。
ヘレナからすれば本当に短い、ほんの短い間の出来事だ。
異能の飛び抜けた才能を持ち、粗のあった異能の技術を瞬く間に磨き上げ、愛想も態度も良くなかっただろう枯れ木のような老人に構い続けたあのふてぶてしい存在。
こちらの事情や心情などお構いなしに、鳥や兎といった小動物を使って接触してきた、暴力的な異能の圧力を発していた相手。
それで異能の出力を隠しているつもりかと揶揄えば意固地になってあれこれ調整し始めて、入れた紅茶が不味いと言えばムキになって色んな入れ方を試し始めて。
子供を相手にするようなそんなやり取りで、人嫌いでいたつもりのヘレナはいつの間にか絆されてしまって、ソイツがやってくる毎日が楽しくなってしまっていた。
それなのに。
心の中ではソイツとのやり取りが楽しいと感じているのを分かっていたのに、何時まで経っても構いに来てくれるソイツと自分はちゃんと向き合おうとしなかった。
数週間という、ヘレナにとってはあまりに短い時間をただ受け身で過ごし、相手の事を知ろうとも向かい合おうともしなかった。
だから何もかもが突然終わってしまった。
名前も年齢も性別も国籍も知らない、何もかも知ろうとしなかったソイツとの唯一の接点であった異能感知能力の優劣が逆転してから、ヘレナはまた孤独になってしまった。
家の周りを走り回る小動物のどれがソイツなのかヘレナは分からない。
呼び掛けようにも姿の見えないソイツの名前すらヘレナは知らない。
向かい合おうともしなかった自分がソイツにとってはいったいどんな存在だったのか、ヘレナは考えた事も無かった。
ソイツと会う前は心地よく感じていた筈の静かな家の中が冷たく感じた。
誰にも存在を知られずこの家で一人朽ちていくつもりだったのに急に怖く思えた。
彼女が誰にも関わらないようになった本当の理由である『喪失』を、またヘレナは味わう事になってしまった。
そんな時の事を、ヘレナはふと思い出してしまうのだ。
だからきっと。
(……ロランと話したあの内容が正しいのかは分からないけれど、少なくとも私がやりたい事ではあるんだろうね)
『おっと、全員集まってるね。資料を持ってきたから隣に回してくれ』
部屋の空気を全く気にすること無く、勢いよく扉から入って来たロランが手に持つ紙を集まっている同僚達に渡す。
ひんやりとした空気が漂う置かれる物の少ない簡素な部屋。
最重要機密事項を会議するこの場に今いるのは、ICPO内でも本当に限られた者達だ。
ヘレナにロランにレムリア、アブサントにベルガルド、楼杏にルシア。誰も彼も組織に多大な貢献をしてきた者達であり、信用に足ると判断された者達がこうして集められた。
そして、同僚達の手に資料が行き渡ったのを見届けたロランは会議の進行を任された者として、今日こうして全員が集められた目的を話していく。
『働き詰めだったから皆疲れているだろうけど、こうして集まれる機会は中々無いから今回はある程度情報を共有していこうと思う』
そんな風に話を切り出し、視線を資料に落とす。
『目下最重要課題の一つだった“死の商人”バジル・レーウェンフックによる世界テロ誘発は本人の逮捕で終息。異能を完全に破壊されて、廃人状態になって拘束されている。精神状態は“千手”や“泥鷹”のグウェンと同じだ。誰がやったかは、まあ知っての通り』
『異能開花薬品の出所は色んな所に協力してもらって潰してはいるけど次々際限なく湧き出る状態。大本であろう【UNN】へ繋がる証拠は未だに出て来てない。【UNN】の動きはこれまで通り異能による事件の解決協力・被害への支援・物資の提供など幅広い。この情勢下で奴らが会得した世間的な信頼はかなりのものだろうな。事件を起こした犯人以外の異能を開花した奴らを保護してるのもかなりキナ臭い。医療設備関係にも精通してる【UNN】が保護や治療をするのは当然にも思えるが、奴らの目的はそんな生易しいものじゃないだろう。強制的に押し入り捜査でもしてやりたいが、あの大企業に肩入れする奴らはいくらでもいる。強制捜査をした場所で欲しい証拠物が出てこなければ手痛い反撃を受けるだろうし、支持を得るにも何かしらのきっかけが無いとウチで動くのは難しい』
『で、リーダーと日本警察から報告のあった“百貌”だけど、これについては情報が少なすぎてなんとも言えない。“顔の無い巨人”との関連性もありそうだが、そもそもそっちの足取りもまだまだなんだ。よりにもよって異能犯罪が極端に少ない日本に潜伏してそうなのが厄介で、現状の新しく発生する異能持ちへの対処が手一杯な俺達が無理に介入するのもリスクが多い』
『こうして情報を整理してみると分かるが、見えている全ての目標が現状ウチから動いてどうこうするのは難しい。これまで通りの後手後手。何か異能犯罪が起きた時の解決に走るだけか、お相手さんが失態を犯して証拠を残すのを待つしかない……筈だったんだがね?』
一通り今の状況を説明したロランが、含みを持たせた笑みを浮かべてヘレナを見る。
ロランが何を言いたいのか理解しているヘレナは溜息混じりに言葉を引き継いだ。
『探知系の異能持ちが協力してくれる事になったんだよ。ミレー、こっちに来な』
『うぅぅ……』
ロランが部屋に入って来た時に一緒に居た少女が息を潜めながら扉の近くで立っていたのをヘレナが呼ぶ。
涙目のままトトトッとヘレナに駆け寄った。
ICPOが今まで待ち望んでいた種類の異能を持っているという少女の登場に、この事を知らなかった者達は驚きで目を丸くしながら、怯えるミレーという少女を見詰める。
キョロキョロと不安げに視線を彷徨わせ、その少女はしどろもどろに自己紹介を始めた。
『お、おらはフォンテ・ミレーです。“見分ける”異能を持ってるだ、です』
『見ただけで相手の才能や能力、状態が分かる異能さ。バジルの奴に使われてたから保護したんだけど、いざ帰国させてみたら家が跡形も無くなっていたから帰ることも出来なくてウチで雇う事になったんだよ』
待望だった探知系の異能を持った人材が現れたことに、ホッと胸を撫で下ろした者やどうでも良さそうにする者など反応は様々だが、事実、彼女がいる事で出来る範囲は大きく変わる。
『要するに、ミレーの異能があれば悪事を働く相手を見付ける事も、相手の所持する異能といった情報を先取りすることも難しくなくなる訳だ。潜伏する異能持ちや暴れる凶悪な異能持ち、資金や権力を盾にする世界的な企業も、一網打尽に出来る可能性がある』
『それは、凄いですね。ヘレナ女史、ということは……』
期待するような眼差しになったルシアを制し、ヘレナは面倒だからと会議の主導権を自分に投げて来ただろうロランを睨んで説明を続ける。
『今、私らが解決しなきゃいけない問題は主に三つだ。一つ、【UNN】による世界規模の異能開発。二つ、“百貌”を含めた新たに現れる異能持ちの犯罪。三つ、“顔の無い巨人”の確保。これらは私らの最終的かつ実現しなきゃいけない目標でもある。それで、ミレーの協力でどの目標も達成までの道のりが見えた訳なんだけどもね。どれを優先するべきかロランと話したんだが……』
そこまで言って、ヘレナはレムリアを見た。
少しだけ躊躇するように言葉を迷わせ、ヘレナは不思議そうな顔をしているレムリアから視線を外し、この場にいる者達全員を見渡した。
『まずは三つ目の目標。“顔の無い巨人”の確保を行おうと思う』
『……え?』
レムリアの声と共に、沈黙が部屋を包んだ。
この場にいる者達はいずれも様々な異能持ちとの戦闘あるいは情報戦や交渉を行ってきた者達だが、そんな歴戦とも言える彼らだからこそ彼の存在の危険さは充分に理解していた。
傭兵として名高い“千手”ステル・ロジー。
彼の存在の名を騙り世界を混乱させた“白き神”白崎天満。
世界最強とまで言われた“泥鷹”グウェン・ウィンランド。
人の領域を完全に逸脱していた“死の商人”バジル・レーウェンフック。
そのどれもが強力かつ凶悪な異能を有していて、彼らが残した爪痕は今なお色濃いが、それでも、“顔の無い巨人”は文字通り次元が違うとここにいる者達は知っている。
だからこそ、ヘレナに対して強い信頼を持っている彼らも一様に否定を口にする。
『己、理解不能』
『ババア、ソイツは……厄介度合的には最後の最後だろう』
『反対だ。有効な対策が何一つない。全員やられる可能性が高い』
『ひぇ、う、お、おらお腹痛くなってきた』
『ヘレナお婆さん。僕は……』
異能を持つがゆえに、この場にいる異能持ち達は口を揃えてヘレナの言葉を否定するが、対するヘレナは気だるそうに頬杖を突いて『落ち着きな』と言う。
『最近の奴の活動は全くと言っていいほど無い。それだけじゃない、日本で何かしら暴れた異能持ちはことごとく精神崩壊させた状態で見付かってる。言ってしまえば奴が始末してるんだろう事はほぼほぼ確定さ。異能犯罪を許さず、大きな侵略活動もしない、おまけに“死の商人”に囚われていたレムリアを助けてくれていたのも奴だ。“顔の無い巨人”っていう色眼鏡を外してそういう活動をしてる奴だと考えれば、交渉次第では味方に出来そうだとは思わないかい? まあ、あとは悪意のある活動をしそうな“百貌”とやらが日本に出没している事を考えて、先に大人しい“顔の無い巨人”に接触して協力を仰ぐ必要もありそうだしね』
『いえ、ですがそれは……』
ヘレナの、絶対に敵対する訳ではないという言葉に表情を明るくさせ始めたレムリアの横で、ルシアが困惑の声を上げる。
『あれだけの力の持ち主である“顔の無い巨人”が素直に協力するとは思えませんし、今どのような理由で侵略の手を止めているのか私達には皆目見当も付きません。何か一つ掛け違った時点で、数年前のおよそ十億人にも及ぶ精神干渉の被害が再び起こる可能性さえあります。十億人という数は……正直言って、“白き神”の被害を受けた者達の数とは文字通り比較にもなりません。それに、“顔の無い巨人”の危険度だけではなく、数年前に彼の存在に多大な被害を受けた者達は納得するんでしょうか。私達に協力させるということは彼の存在の所業を許すのと同義になりますし……』
『“顔の無い巨人”に金銭や物的な被害を受けたのは不正してた奴か悪事を働いてた奴、あるいは非人道的な所業をしていた奴だけで、それ以外の奴らはせいぜい軽く洗脳されてた程度。とはいえ、アイツが善人でないのは分かり切っているし、異能を使って億単位の人間を洗脳したのなら許しがたい暴挙でもある。面倒な奴らからの攻撃を避ける意味でも協力関係を築けた時は内密にする必要はあるし、勿論ルシアが言うように協力を断って来て、最悪の場合は闘いになる可能性はあるんだろうけど』
『ただ』とヘレナは言う。
ヘレナは自分の感情だけではない、ヘレナと同様にロランも憂慮していた“顔の無い巨人”の確保を最優先する理由を口にする。
『……これ以上世界の異能犯罪が増え続けたら、本格的に世界の均衡の取り返しがつかなくなっちまう。国と国、あるいは異能を持つ者と持たない者の溝が、【UNN】が思う通りになる。今の日本の情勢ほどにどうにかとは言わないけど、奴の力を借りて【UNN】という大元に対処する必要がある。今は【UNN】を相手取るよりも“顔の無い巨人”を相手取る方が大義名分が利くんだよ』
『それは……そうかもしれませんが』
『なんにせよ、このまま世界各地で起きる異能犯罪を解決し続けた所で根本的な問題解決にはならない。【UNN】への強制捜査に踏み切るか、今は大人しい“顔の無い巨人”への接触を試みるか。どちらも危険は伴うが、“死の商人”を下した奴の力を身近に感じた私の主観としては、まだ話が通じると思えた』
ヘレナからの説明に、世界各地で起きた異能犯罪による悲惨な被害を見て来たルシアが表情を暗くして頷いた。
状況と目的を提示され、最初こそ強く拒否反応を示していた者達も仕方ないという空気を醸し出した中でも、未だに難色を示している者は二人いた。
『あ……あれと、手を組む……? あの、異能の怪物と……? お、おら、あの怪物に……今度こそは駄目だぁ、羊が恋しいよぅ……』
一人は実際に“顔の無い巨人”の少女を前にしたミレーだ。
先日“死の商人”と対峙するその存在の事を、ミレーは確かに異能の目で見て、圧倒的なまでの異能の才能に絶望して、恐怖の記憶として刻み付けられた筈だった。
だが、ちゃんと見た筈なのに、ちゃんとどんな人相の人物なのかを記憶した筈なのに、何故だか今は声も匂いも人柄も記憶に無く、記憶にあるのはぽっかりとした人型の空洞だけだ。
思い出す事すら許されない。
頭の中の記憶という感覚にすら干渉してくる、文字通り顔の無い存在との明確な敵対を考え、ミレーはただ体を震わせる。
そして、もう一人。
『……ヘレナ、“顔の無い巨人”の手が未だに容易に全世界に届きうるのは理解しているか?』
来る場所を間違えたと早速後悔を始めたミレーを余所に、もう一人の難色を示す人物である楼杏がじっとヘレナを見詰めたままそう問い掛けた。
異能の凶悪性に関してはヘレナに次ぐとも目される彼女の指摘に、彼女と同様に先日巨大な異能の出力が世界を満たしたことに気が付いていた者達が表情を固くする。
嘘だろ、という表情を浮かべたベルガルドの横で、楼杏は続けて口を開いた。
『“死の商人”が潰えたほんの一瞬、世界を満たした巨大な異能の出力は勘違いなんかじゃない、そうだろう? あの巨大な異能の出力は間違いなく数年前に感じたものと同種の異能の力だった。“顔の無い巨人”は今も、実質的には世界を掌握している事に変わりはない。そして己は自分の首に刃物を突き付け続けている相手に手を差し出す狂気は持ち合わせていない。何を持ってヘレナがそこまで彼の存在に信頼を寄せているかは知らないが、災害に感情はないと己は思う』
『俺としても信じ難い話なんだ。俺としても“顔の無い巨人”が仲間になると本気で信じている訳ではない。だがね、何もかもと敵対して、何のリスクも取らない段階を、今の俺達は完全に超えている。この世界的な状態で“顔の無い巨人”という問題を放置はできない。危険性の事を考えた上で、俺達は“顔の無い巨人”の問題を優先するべきだと思うんだよ』
『ロラン、己はヘレナに問い掛けてる。己は組織としての動きを否定はしない。だが勝算や計画の先を知りたい。何を持って信じるのか、誰がどのように行動するのか。そしてもしもの時はどうするのか。そこだけは今ここではっきりさせるべきだと思う』
仲裁しようとしたロランにそっけなくそう返すと、楼杏はヘレナと視線を交わした。
自身の質問の解答を聞くまでは席を立たないという固い意志を感じさせる楼杏の視線に、ヘレナも黙ったまま彼女を見詰め返す。
別に楼杏はヘレナが嫌いな訳でも、“顔の無い巨人”に恨みがある訳でも無い。
自身を拾ってくれたヘレナには感謝しているし、“顔の無い巨人”には自分よりも高位の異能の使い手として尊敬の感情すら存在する。
ただ、彼女の性格柄、自分の納得できない事はやりたくないし、感謝している相手が不幸になるのを見過ごす事もしたくないからこそ、こうして声を上げている。
そして、それを知っているからこそ、ヘレナは言葉を選びながら楼杏の質問に答えるのだ。
『……“顔の無い巨人”に辿り着いた時、私が直接交渉する。もしも決裂して、アイツがまた世界に手を掛けようとするなら、その時は……』
数百年生きて来たヘレナの脳裏に、ほんの数週間の記憶が蘇る。
思い出の中に仕舞い込んでいたあの子と過ごした一時の記憶が今更鮮明に蘇る。
実際に会った事もない、声を聞いた訳でもない。
名前も知らないし、年齢も知らないし、性別も知らない。
まったくの他人のような関係だったけれども、それでもヘレナにとっては忘れられない相手であり、後悔ばかりを残した相手だ。
大切な記憶で、またあの時のような関係になれたらと、ヘレナは本気で思っている。
けれど同時にヘレナには責任があった。
自分の異能技術を模倣され手が付けられなくなってしまった責任。
子供のように付いて回ってきたあの子の手を取れなかった責任。
異能の力を正しい道へと使うように導いてあげられなかった責任。
近くにいる筈のあの子を見付けてあげられなくなってしまった、愚かな自分の責任を。
ヘレナは自分が背負うべきそれらの責任を、果たすべきだとも思うのだ。
だから……。
『必ず私がこの手で、“顔の無い巨人”の……あのクソガキの息の根を止めるさ』
内容とは裏腹な、酷く力の無い声を発したヘレナはそのまま席を立つ。
誰かの懐に仕舞われていた携帯電話が、悲し気に一瞬光った。
 




