刻を重ねる
常に消毒液の匂いが充満している施設だった。
無機質で簡素な箱のような建物。
その中でも、生活のほとんどを窓の無い小さな白い部屋で過ごし、等間隔で白衣を着た見知らぬ大人達が薄型の機械を片手にやって来る毎日。
大人達が実験と称する痛くて苦しい行為は、幼い自分の体が持たないからと時々だけだったけれど、それでも毎回泣いてしまうくらい嫌だった。
物心がつく前からいたそんな場所の記憶は、今だって悪夢となって現れる。
大人達は繰り返し言っていた。
君の異能という名の力は世界の人の為にあるのだと。
君が感じている痛みや苦しさは誰かの幸せに繋がって、この研究で外部から異能の力に指向性を持たせて操ることができるようになれば多くの人が幸せになるのだと。
そう言っていた。
信じていた訳ではないし、彼らが好きだった訳でも無い。
だって、いつだって彼らには冷たさしかなかった。
幼いながらに、彼らの話が破綻している事には気が付いていたし、彼らが善い人でないのはなんとなく理解していた。
今思えば異能という飛び抜けた才能の使い方を覚えた自分が本気で抵抗すれば、そんな悪夢のような場所から逃げ出すのは簡単だった筈だけど。
ただ、この場所しか知らない自分には他に帰れる所なんて無い。
本当にそれだけの話だったのだ。
君の異能が衝撃を吸収するものだからより多くの衝撃を溜め込まなければいけないと、繰り返されるようになった耐久実験は徐々に激しさを増していった。
そんな実験はやっぱり辛くて、最初は全ての衝撃を吸収し切れず、衝撃で怪我する事や骨が折れてしまう事も珍しくはなかった。
異能の出力と性能を強化するためにと、あらゆる実験が執り行われ、常に自分を監視する誰かの数は徐々に増えていった。
自分にこんな異能があることが憎くなって、こんな才能なんて無ければ良かったと思う事は何度もあった。
こんな理不尽な痛みに満ちた世界だったけれど、僕の世界はこれが全てだった。
だからきっと自分が終わりを迎えるその時まで、永遠にこのままだろうなんて思っていた。
だから僕は全てを諦めて、少しでも上手く生きられるよう、出来る限り笑うようにしていたんだ。
それなのに、こんな日々の終わりは唐突だった。
一人の大人が発狂した。
白衣の大人達の中でも一番偉かったその人が、巨大な影が部屋を埋め尽くしていると叫び出した。
困惑する他の人達の視線など無いように、その大人は雄叫びを上げながら自分の頭を抱えてその場で蹲り泣きじゃくった。
何もない宙に向かって頭を垂れるようにして叫び始めた。
「許して下さい」と叫び続けた。
喉が擦り切れ、血を吐き出しながらも叫び続けた。
異常が伝播する。
理解できない複雑な文字列が並んだ電子画面が火花を散らし、これまで少しだって暗くならなかった巨大な電灯が壊れたように明滅を始めた。
悲鳴や恐怖の叫びが部屋中に響き渡り、電子ロックの掛けられていた扉が勝手に開かれていき、大小関係なくありとあらゆる電子画面は雑音と砂嵐を映し出した。
白衣を着た大人達が残らず発狂し、悲鳴を上げてのた打ち回る。
建物に置かれていた機械の全てが、外部からの干渉に抵抗できなかった。
この建物を支配していた人も機械も、等しく誰かの悪意によって壊された。
ほんの数分もしない内に、閉ざされていた白い箱のような研究所は姿も現さない“ナニカ”に掌握されたのだ。
そんな異常を目前にしてもなお、何も感じ取れず、ただただ呆然としていた僕がようやく自分と同種の異能の出力というものを感じ取れたのは“ソレ”が姿を現してからだった。
電子画面に貌の無いナニカが現れた。
肌が粟立ち、毛が逆立つ。
内臓の全てが凍り付いたように冷たくなり、自分の心臓の鼓動さえ聞こえなくなる。
巨大で人型で詳細も何も分からないノイズだらけの異常な存在に、自分とは比にならない絶対的なまでの異能の力を知覚して、無意識の内に自分の生存を諦める。
それくらい、画面を通して姿を見せたこの存在はどうしようもなかった。
そして画面の向こう側から覗き込む“ソレ”が嗤ったその瞬間、示し合わせたように部屋に響き渡っていた悲鳴や絶叫が途絶える。
静寂に包まれた白い箱のような建物の中。
全てを諦めた囚人のように、あるいは血が通うだけの人形のように。
“ナニカ”に許しを請うようにただ笑う大人達の姿が目前に広がった。
『……なんだいここは? 何だって急に奴が……子供? …………ああ糞、そういう事かい。まんまとこの私を利用したって訳かいクソガキめ』
その声が響いた次の瞬間、まるで最初から何も起きていなかったかのように、この場に伝播していた異常の全てが溶けるように消え去った。
時間にすれば数分にも満たないような出来事。
でもそれが、僕の始まりの出来事だった。
‐1‐
『……あれ? 僕、寝ちゃってた……?』
『なんだい、もう起きたのかい? まだしばらく移動が続くからもう少し眠っていても良いんだけどね』
静かな車内。
話声も無く、退屈しのぎの道具も無い退屈極まりないこの移動時間。
最近は休む暇なく世界中を飛び回って異能を振るっていたからか、知らず知らずの内に疲労が蓄積していたようで、眠るつもりも無かったのに意識が飛んでいた。
気が付けば扉にもたれ掛るようにして眠ってしまっていた事にレムリアが恥ずかしそうにしているのを、ヘレナは可笑しそうに笑う。
『夢でも見ていたのかい? うなされているのか、楽しいのかよく分からない寝言だったよ』
『えっと……どうなんだろう?』
『本人が分からなきゃ私にはもっと分からないね』
閑静な住宅街の道路を走る車の中。
言葉少ないレムリアの様子にヘレナはニタリと悪い笑みを浮かべる。
どう見ても面倒な事を考えているヘレナの顔に、レムリアは軽く顔を引き攣らせる。
『まあ、大体予想は付くがね。あれだろう? “泥鷹”連中とやり合った時に会ったっていう小娘の事だろう? 傷付いたレムリアを背負って運んでくれた子供。ここ最近はずっとその娘の事を考えているものね? ひひっ、レムリア……それは恋って奴さ』
『違うって!? もうっ、ヘレナお婆さん! いつもからかってくるけどそういうのじゃないってば! ロランも適当な事を言ったんだろうけど、本当にもうっ!』
『人間なんていつ死ぬか分からないし、大事に抱えた気持ちだっていつ枯れ果てるか分からないもんだよ。どっちも無尽蔵なんかじゃないんだからさ、クヨクヨ迷わず玉砕するくらいが丁度良いもんなのさ。そんで、できたら私が死ぬまでに子供を見せとくれよ』
『ヘレナお婆さんのそういう下世話なところ、ルシアとかアブサントとか本気で嫌がってるからね! ベルガルドが言ってたもん! それはセクハラって奴だって!』
ケラケラと悪い魔女のように笑うヘレナに顔を赤くしてレムリアは怒る。
少しだけ意地が悪いけれど、普段は何かと世話焼きで視野が広く尊敬できる大人の女性なのだが、こういう色恋が関わる事(それも他人の)となると一気に面倒臭くなるのがこのヘレナだ。
10歳に満たない程度の、自身の初恋すら自覚したことの無いレムリアだが、ヘレナのこの面倒臭さは彼女の庇護下にあるこれまでの中で嫌という程理解させられているのだ。
同じ組織内で言えば、主に、身分違いの両片想いしているようなルシアとアブサントがその被害者。
間近で見て来たその面倒臭い絡みには、恋愛経験が無くとも傍で見ているだけで辟易とさせられる。
『クククッ、昔のようなじれったい恋はもう飽き飽きだからね。今の主流は素早いハッピーエンドさ。障害の一つや二つ軽く飛び越えていきな』
『ううぅ……全然反省しないようぅ……ルシアもアブサントも可哀そうだよぅ……』
『ひひっ、あいつらがとっととゴールインすれば全部解決するんだよ? レムリアも一緒に二人をくっつける計画を立ててみないかい?』
『僕はそういうのやらないもんね!』
もはやどちらが意固地なのかと思う程、お互いの主張を曲げない平行線の会話をしていれば、いつの間にかレムリアの眠気もどこかに飛んでいってしまっていた。
少し前までは一切の会話が無かった車内があっと言う間に騒がしくなった事に、運転手が呆れたように笑っているが、そんなこと二人は気にもしない。
『まあね、何にせよ。自分の立場がどうだとかを気にするにはルシアやアブサント、勿論レムリアもまだまだ早いってことさ。レムリアが気になってる小娘については、今度日本に行く時にでも連絡すればいい』
『……』
『ああ、連絡先聞けなかったんだったかい? なら、向こうの警察にその当時に巻き込まれた人の情報を出させれば何とでもなるね』
『……そんなことしちゃ駄目だもん』
『事件解決には必要な事さね。さて、まあ、そんな話はさておいて』
そこまで言って無理やり会話を打ち切る。
いつもならもっとしつこい筈のヘレナお婆さんがどうしたのかと、レムリアが首を傾げていると老女は心底面倒臭そうにチラリと外に視線をやった。
背後から迫って来る大型の車両が3台。
その車両に乗る者達が、足元から大型の銃器を取り出しているのを確認した。
彼らが取り出した高品質の銃器は、最近世に出回っている軍用のものだろう。
そんな風に大雑把に判断を済ませたヘレナは呆れ気味に呟く。
『襲撃だね。改造車両が3台と10人』
『本当に最近治安が悪いよね……僕達がこの車に乗ってるってどうして分かったのかな』
『あの銃器を流通させてる奴が教えたんだろうね。異能を持つ前から傍迷惑な奴だったからね、アイツ』
『それにしたってわざわざヘレナお婆さんがいる所を襲撃するなんてね……僕が行くよ』
『必要ないよ。丁度少し、異能を使いたかった所さ』
立ち上がろうとしたレムリアを制止して、ヘレナはそう言う。
いつもなら訓練と称してレムリアに対応させるヘレナのその言葉に、意外そうにレムリアが首を傾げれば、彼女は手に持っている杖で軽く床を叩いた。
『周りが住宅街で人通りも多いからね。万が一レムリアが力加減を間違えたら大変だろう?』
『むっ! そんなことしないもん! 最近は暴発とかもしないし、むやみに物を壊したりしないし!』
『ひひっ、それは楽しみだ。私はそんな優秀なところお目にかかれていないしねぇ』
『ど、ど、どうしますか!? 車を停車させたりした方が!?』
『いらないよ。まあ、そんなに慌てる必要は無いさ。異能の感じも、どうやら程度の低いものらしいからね』
次の瞬間。背後から迫ってきていた車両から発砲音が連続した。
襲撃者達にとっては完全な奇襲のつもりなのだろう、息を吐く間もないような軍用銃器による連射。
若干の雑さは残るもののどこか手慣れた襲撃に、素人が見よう見まねでやっているだけとは思えない手際の良さを持っており、何度かこういった荒事を行って来た者達なのだろうことは間違いない。
一方で、荒事に慣れていない自分達の運転手が連続する発砲音に怯えて小さな悲鳴を上げたのを見て、ヘレナは仕方の無さそうにレムリアに指先だけで指示をする。
レムリアは運転手をいつでも助けられるようにと運転席に近付き、ヘレナはその場から動くことなくもう一度杖を床に突いた。
『ビビることないさ。私が何とかしてやるから事故だけは起こすんじゃないよ……さて、やろうかね』
彼女のそんな言葉に連鎖するように。
ヘレナ達が乗る車両のすぐ後ろまで飛来していた弾丸が溶けるように消え去った。
それどころか、息も吐かさぬと連続して発射される新たな銃弾が一定の距離を跳んだ瞬間に消えていく。
文字通り、消失だ。
車両による移動速度の中とはいえ、次々連射する銃弾が何一つ物に当たらないまま消えていく光景の異常さに襲撃者達が気付くのはすぐだった。
困惑する襲撃者達。
自分達の銃器が故障しているのではないかと確認する者まで出る始末だが、ヘレナはそれを確認すると、文句を言うように呟く。
『なんだい。私の異能の情報すら貰ってないのかい。奴ら、本当の意味で鉄砲玉じゃ無いか』
『……知っちゃったら襲撃しようとなんて、しないからじゃないかなぁ……』
『なるほどねぇ。また“死の商人”してんのかい、あのトンチンカンは』
『まあ、だからといって手心は加えないけどね』、そう言ったヘレナに対して、襲撃者は次に異能の使用を選択した。
異能という超常が世界を歪ませる。
一つの大型車両の側面が大鎌のように変形した。
異常加速した車両があり、あるいは出射した銃弾を巨大化させたものもある。
多種多様な非科学的な変化を見せた襲撃者達の攻勢に運転手が小さな悲鳴を上げるが、対応しているヘレナは『つまらないね』と言った。
『カーチェイスに応じるのはドラマや映画の中だけさ。特に異能が関わるこういう場面だと』
そして、ヘレナは自身の異能を一度だけ強く放出する。
『弱い方が一方的に潰されるだけさね』
巨大な球体がヘレナの車両を守る壁のように現れた。
物質的でない、歪んだ空間そのもののような球体の内部は渦巻くような流動を見せている。
そして、迫ってきていた銃弾や襲撃者達が乗る車は突然現れたその現象を躱せる筈も無く、自ら衝突し、歪んだ空間のようなソレに喰らい尽くされた。
悲鳴や叫びは聞こえない。
流血や骨折もきっと無いだろう。
けれどもう彼らが襲撃を続ける事は出来ないのだろうなと、背後の襲撃者達の様子を眺めていたレムリアは判断し、その異能の相変わらずの凶悪さに感嘆の溜息を吐く。
『……めちゃくちゃだよヘレナお婆さん』
『初めて見る訳でも無いのにないだろう? ほれ。良いから、あとから来てる奴らに連絡して、動けなくなっているボケナス達の回収をさせときな。有益な情報なんかはなんも出てこないだろうが、まあ、放置してたら他の車に轢かれちまうかもしれないしね』
『……こういう連絡を僕にさせるのって違うような気がするんだけどなぁ……』
『レムリアを一人前にするための親心さ。私がいる内にいっぱい失敗をさせてあげたいからね』
大して疲れても無い筈なのに、まるで大仕事をした後のように『ふぅ、やれやれ』と息を吐いているヘレナにレムリアはジトッとした目を向けながら、投げ渡された携帯電話で担当職員に電話する。
四苦八苦しながら状況の報告をして、電話先の担当職員が仕方なさそうに苦笑するのに対し平謝りして、何とか通話を終えればヘレナはやるじゃないかと褒めて来る。
レムリアとしてはなんだか色々腑に落ちないけれど、褒められるのは悪い気がしないので取り敢えず誤魔化される事にした。
『さてと、次の仕事が終わったらようやく日本に行けるね。あの若造、変なことしてないだろうね』
『日本に行くって決めてからもう数か月も経つんだよね。神薙先生を狙った襲撃って話は聞かないけど、どうなってるんだろう?』
『聞かないってことは無いんだろうね。たとえ脱獄してたとしても、アイツの性格を考えると多くの犠牲者を出すような事はしないだろうし。そもそも現状の異能犯罪の発生率の格差を考えると、あの国は奴の…………ま、そんなことよりも、私としてはレムリアの片想い相手を一目見られるのが一番の楽しみだけどね』
『だからっ、そんなんじゃないんだって! もーっ!!』
襲撃という一大事があったというのに、振出しに戻ってしまったヘレナの面倒臭い絡みにレムリアは頭を抱えた。
 




