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眉月(びげつ)

作者: 碧海コオ

玖美くみの顔はまるでそらね、だってお月さまがあるんだもの。

二つのお月さまを持つ幸せな子、と母は繰り返し歌うように幼い玖美に言った。

玖美の眉は、アーチ型に左右がほぼ均等な長さで柔らかなふくらみを描いていて、その形はまるで新月から三日目の月、三日月のようだ。

玖美は子供の頃、母の優しい声を聞くのが好きで、母の膝に寝転がっては「眉のお話をして」とよくおねだりした。玖美が頼めば母はどれだけ忙しそうにしていても必ず手をとめてくれたから、膝から見上げた母の顔やその声が玖美の思い出として強く残っている。

思えば母も三日月眉の人であった。

眉は母の顔を柔和に見せていたのだろうか。玖美の記憶に残る母の顔はどれも穏やかな表情で、怒っていた時ですらどこかしら柔らかいものが漂っていたように思う。

母の言う宙が、空ではないことは大人になってから気付いた。

母にとっては空に浮かぶ月と宙に浮かぶ月は何が違ったのだろう。


玖美は仕事が終わると、オフィスビルから最寄りの駅の途中にあるデパートによく立ち寄る。だが正面玄関から入る時、玖美はいつも少しだけ緊張する。それは化粧品売り場を通り抜けなければいけないからで、通れば必ずと言っていいほど「ご自分で眉のお手入れをされているのですか」と販売員に話しかけられる。

メイクをする時でもアイブロウペンシルで軽く眉をなぞるくらいで、玖美は二十八歳の今まで眉に手を加えようと思ったことは一度もなかった。母に似た眉の形を変えたくないのだ。

以前は話しかけられれば販売員に失礼でない程度に返答していたが、「その眉をはっきりさせてもっと美しくなりませんか」などと、結局は何かを買わそうとしてくる販売員の態度に嫌気がさし、最近では「すみません、急ぐので」とだけ言って足を止めないまま通り過ぎるようにしていた。


「素敵な三日月眉。まさに眉月ですね。アイブロウをそのままの形でもう少しだけはっきりさせたら、驚くほどお綺麗になりますよ。お急ぎでなかったら少しだけお時間をいただけませんか」

靴売り場に行くつもりで立ち寄ったデパートで、久しぶりに誰かに自分の眉を月と呼んでもらったからだろうか、玖美はつい立ち止まってしまった。

店員はチャンスがあると思ったのか、「メイクのプロとしてのお客様のメイクオーバーに挑戦してみたいので是非お願いします」と自分のコーナーから足を踏み出し熱心に言った。玖美は断り切れなくなって明るいライトで囲まれたオーバルの形のミラーの前にとうとう腰掛けてしまった。


時間はあった。むしろ時間をつぶすために寄ったデパートであった。今夜は功一と会う約束をしていたが、彼の仕事が終わるのはいつも玖美よりもずっと遅い。

半導体を扱う中堅の会社で事務職に就いている玖美は、いつも定時の五時半過ぎに退社するが、営業職の功一の終わる時間はその日によってまちまちである。二人は同期入社だが、玖美は功一よりも二歳年下だ。二人が付き合っていることは社内では秘密にしているので知る人はほとんどいないが、それは営業職の功一が外回りでいつも忙しく、他の社員の前で玖美と顔を合わせたり話をする機会が滅多にないからでもあった。

玖美は退社前、さりげなく営業部の予定が書かれたホワイトボードを確認したが、そこには功一の帰社時間は六時半とあった。出先から直帰ではないということは、社に戻って上司に報告してからの退社だろうから、待ち合わせ場所に来れるのは早くても八時過ぎ、玖美はそう思った。


販売員が「この後、ご予定はありますか」と質問してきたので、「待ち合わせがあるんです」と答えた。「デートですか」と聞かれたので否定する理由も見つからないまま玖美は曖昧に笑った。

「それでは男性に人気のナチュラルメイク系にしますね」と販売員は笑顔で言ってコットンで手早くクレンジングを始めたので、あっという間に玖美は素顔になった。

夕方六時のデパートは慌ただしい。早足で背後を行きかう様々な人々を鏡で見ながら玖美は、ノーメイクの顔をデパートの一階という華やかな場の明るいライトの下で晒している自分を不思議に思った。

メイクはベースから始まったが、ローション、ファンデーションと自社製品の説明をひとしきりしてから次へ進む作業の遅さに次第に玖美は苛立ち、足を止めたことを悔やんだ。

しびれを切らした頃にようやくメイクは終わったが、時間がかかった割に仕上がりは普通で、全体の印象がやや強くなった以外は普段とあまり違って見えなかった。眉もペンシルで軽くなぞった程度で、メイクの方法にもその仕上がりにも新しい発見はなかった。玖美はがっかりしたが、それでも何も買わないでその場を去る勇気はもてず、アイブロウペンシルに五千円ほど払って礼を言うと足早にデパートを出た。


来週から出かけるオーストラリア旅行のために新しいスポーツシューズを買いたかったのだが、靴の予算を減らさなくてはならない、玖美は足をとめたことにいつまでも後悔しながら先を急いだ。

携帯を見ると功一から「いつもの居酒屋で八時」と短いメッセージが入っていた。玖美は足を速め本屋へ駆け込んだ。オーストラリアのガイドブックだけは買っておきたかったのである。

トラベルセクションの前に立つと、玖美はその種類の多さに驚いた。さまざまな出版社のガイドブックがあり、種類は多様で迷い始めるときりがなかった。玖美はしばらく考えた挙句、オーストラリア全体を紹介した大手出版社の分厚い一冊を選んだ。メルボルンやゴールドコーストなど、今回の旅行に必要ないページも多く掲載されていたが、写真の多いガイドブックは見ているだけで楽しそうだから機内でいい暇つぶしになるだろう。


待ち合わせの居酒屋に入ると、功一がビールを飲んでいる姿が目に入った。

「お疲れさま。ごめんね、お待たせ」

そう言って玖美が席につくと、功一は少し不思議そうな表情で言った。

「何か、違う?あれ、まさか服を変えた?」

「服は同じよ。違うのはメイク。デパートでしてもらったの」

「ふうん、いいんじゃない」

「どう、いいの?」

「うーん、ちょっと・・・濃いかな」

思わず玖美は吹き出しそうになったが、わざと拗ねた表情を作り「それ、本当に褒めているの?」と言うと、功一は笑ってから「似合っているよ」と言った。

「どうしてデパートで化粧をしてもらったんだ?そういうの嫌いだろ」

「そうなの。好きじゃないんだけど、ちょっといつもと違うことをしてみたくなったの。プロのやり方を習ってみようと思ったのかな」

功一は表情で玖美の言葉の続きを促しながらジョッキのビールを飲んだ。

「眉毛の描き方を習ってみようと思ったの。私そういうのは今までしたことがないから」

仕事後で喉が渇いているのだろう、美味しそうにビールを飲む功一の喉ぼとけが大きく上下に動いた。玖美はオーダーを聞きにきた店員に、「ウーロン茶ください」と頼んだ。

「抗がん剤で眉毛がなくなった時に眉をどうやって描けばいいのかな、と思っていたからちょっとしたレッスンのつもりだったの」

功一は突然力が抜けたようにジョッキをテーブルに置くと目線を伏せて「そうか」と呟いた。玖美はしまった、余計なことを言った、と思ったが遅かった。



先週の定期健診で初期の乳がんが見つかって以来、玖美の頭の中から片時も病気のことは去ってくれなかったが、功一に常に同情してもらいたい訳ではなかった。玖美は話題を変えようとガイドブックを袋から取り出した。

「それより見て。ガイドブック買って来たわ。でも本当に旅行行けるの?まさか急な仕事とか入ってないでしょうね」

功一も気を取り直そうとしたのか、笑顔をつくった。

「部長に何度も、来週は田畑くんが休みだからなぁって嫌みを言われたけど。大丈夫、ちゃんと休める。むしろあんなに嫌みを言われたら意地でも休みを返上してたまるか、と思ったよ」

功一は何か思いだしたのか少し嫌な顔をしたが、「それにしても経理部の玖美が同じ日程で休みを取っていることには今のところ誰も気付いていないみたいだよ」と言った。

「私たちが一緒に旅行に行くだなんてうちの上司も想像していないと思うわ。同じお土産は買わないようにするけど、二人ともオーストラリア土産なら今度こそやっぱりばれちゃうかしら」

功一は照れたように玖美に笑って言った。

「まぁ俺はいいよ。そろそろ玖美とのことが社内の人たちに知られてもいい頃だなと思っていたんだ」



玖美の母親は、玖美が八歳の年に乳がんで亡くなった。母は三十五歳だった。がんの発見も遅かったが病気の進行も早く、診断されてからわずか半年しかもたなかった。

その当時の玖美には、母親の死そのものがよく理解できなかった。半年という短い時間は本人にも周囲の人にも心の準備の時間を与えなかったのである。病床の母は亡くなる数日前、やせ細った手で玖美の顔を何度も撫でて言った。


玖美のお宙のお月さま、お母さんはお星さまになっても、これからもずっとお月さまを見守ると約束するわ。そう話す母親の顔の三日月は、薬のせいでとうに無くなってしまっていた。

お母さんはお星さまになんてならない、玖美はそう言いたかったが、子供の眼から見てもそう言えない程に母親はすでに衰弱していた。


母親の死は玖美のその後の人生を大きく変えてしまった。日常の急激な変化を受け入れるだけでも八歳の玖美には決して簡単なことではなかったが、新しい母親が欲しいとは思わなかった。玖美にとっての母は、玖美と同じ形の眉を持ったあの母でしかあり得なかった。

父親にも再婚の意思はない様子だったので、玖美と父親は、日常という歯車を二人三脚で進める努力をおそるおそる始めたのだった。小学生の玖美が学校の後にスーパーに寄って買い物をしてから帰宅するのが当たり前になっても、波のように辛さは、一度は引いてもまた押し寄せて来た。

玖美の生理の訪れは同級生よりも早かった。学校で教わるよりも早く生理を迎えた玖美は、下着についた血を見て自分は病気なのだと思い込んだ。父親を心配させたくなくて相談できないまま病名を知るためコンピューターで調べるうちにそれが全ての女性に訪れるものであることを知った。

今までスーパーで自分が足を踏み入れる必要のなかった不思議なセクションが、その為に存在していることに玖美はようやく気付き、一人納得した。慌てて日常品の買い物のための財布を握ってスーパーへ出かけ、自宅へ戻って一人で処理を済ませ安堵してソファーに力なく腰掛けた時、涙が次々とこぼれだした。

下腹部にかすかに感じる鈍い痛みを抱え、玖美は何時間も一人で泣いた。



玖美は乳がんの検診を二十歳の誕生日を機に受け始めた。母親が乳がん患者だと発症リスクが高いことを知っていたからだ。

だから、二十歳から二年に一度の定期検診が四回目を迎えた今年、病院での検診後に検査技師や看護師たちがいつもと違う態度を見せた時、玖美は自分の異常を直ちに感じ取った。診断を告げた担当医に、玖美は開口一番に言った。

「二週間後に、友達とオーストラリアに旅行に行くんです」

後でその時を玖美は思い返し、混乱していたとはいえ何故あんなことを言ったのだろう、と思った。今後の治療方法など、大事なことはたくさんあるはずなのに、なぜ自分は旅行の予定が最初に頭に浮かんだのだろう。

その玖美の言葉を医師は不審には感じなかったようであった。思いがけないことに混乱した人々がもらす矛盾した言葉に医師は慣れているのかもしれなかった。

「行ってもいいですよ。進行の遅いタイプのがんですから二、三週間待っても問題はありません。帰国後はすぐ手術をして、抗がん剤治療と放射線治療を始めますから、その前に旅行を楽しむことをむしろお勧めしますね」

玖美は、髪の毛を失い生気のない顔をした母親の姿をふと思い出した。見ているだけでも辛かったあの姿に、今度は自分がなるのかと思うと悲しくてたまらなくなった。

「検診を定期的に受けていたから早期発見でしたね。これは不幸中の幸いですよ。いい事にも目を向けて一緒に頑張りましょう」

医師の不幸中の幸い、という言葉は、頭の中を鐘のようにあちこちぶつかり音を鳴らしながら駆け巡った。そうか私は今日から不幸な人なのか、そう玖美は思った。



約十時間の飛行時間を経て、玖美と功一はシドニー空港に降り立った。

空港のターミナルを出て外気に触れた時、もしかするとシドニーの空気は東京よりも軽いのかもしれない、と玖美は思った。大きく息を吸い見上げると、鮮やかな青の深みのある空が拡がっていた。思いがけない解放感であった。

病気の治療をしないまま旅行に出たら旅先で自分は先の不安に押しつぶされるのではないかと心配していたのだが、それは杞憂のようであった。

「空の高さが違うわ」

「うん、いい天気だな。晴天の種類が日本とは違うみたいだ」

功一は玖美の顔を覗き込むようにして「楽しい旅行にしような」と言った。

玖美は嬉しくなり功一の言葉に笑顔でうなずいた。


シドニーの街並みは美しかった。

他民族、多文化国家を掲げる近代オーストラリアの歴史は、十八世紀頃のイギリス人を主としたヨーロッパからの入植で始まった、とガイドブックには書いてあったが、街のそこかしこには美しいビクトリア朝の建物があり、住民が建物を今でも大事にして住んでいる様子が窺えた。

「素敵な街ね。こんなところに住む人生ってどんな感じかしら」

玖美は自分がシドニーに住んでいる姿を想像した。もしこの街に住んでいたら先程バスの中から見かけた人のように、きっと私も出来たてのバゲットを買い、コーヒーを飲みながら道を歩くだろう。夢のようなことをぼんやり考えていた玖美は、「右手に見えるのは国立病院です」というガイドの声で現実に戻された。

玖美は、大きな病院のビルに建ち並ぶ窓をバスから眺めた。あの窓の一つ一つの奥には今、病気や怪我の不安や痛みと戦っている多くの患者たちがいる。中には、乳がん患者もいるだろう。玖美は、病院から目を逸らした。今は病気のことは考えたくなかった。

玖美はシドニーという街が好きになった。ヨーロッパ風の教会があるかと思えば、その先に中華街があったりして多文化を身近に感じる退屈しない街だからであったが、その反面、それが本来のオーストラリアらしい景色なのかどうかは良く分からなかった。

玖美は次に訪れるエアーズロックへの期待を膨らませた。



赤茶けた色の一枚岩エアーズロックの前に立った時、玖美は自分の身体の中を大きな風が吹き抜けたのではないかと思った。

宿泊施設以外、最低限の商業施設しかない街並みは、高いビルなど視界を遮るものは何もなく低い地平の景色を四方へ描いていた。ウルルの空はシドニーよりも更に高く青く、まるでここでは世界が赤と青と緑色だけで作られているかのようであった。

エアーズロックの頂上は東京タワーよりも高いとガイドブックには書いてあったが、景色の中に溶け込んだその姿は、比較対象の建物を持たないために威圧感を伴わず、それが逆にエアーズロックの壮大さを物語っているようでもあった。

「すごいわ」

「ありきたりだけど、人間って小さいって思う景色だな」

玖美も実はそう思ったのだが、返事はしなかった。自分の存在を小さく弱いものとして受け入れてしまえば、これからの治療に立ち向かうための気力がなくなるかもしれない。玖美はそれを認めたくなかった。

二人は一旦ホテルにチェックインして入ったが、簡単に身支度を済ませ急いで再びホテルを出た。「オージーバーベキューを食べながら夜空の星を楽しもう」という内容のツアーに申し込んであったからであった。

大きな太陽が美しい模様を空に描き沈んだ後に訪れた星空は美しかった。肉眼で見える星の数も東京とは比べ物にならず、玖美は星明りというものを初めて見たと思った。

「ね、見て。綺麗な三日月」

「本当だ。なんだか月までここでは大きく見えるような気がするよ」

「本当ね」


夕食に出されたバーベキューの肉は固かったし、獣臭く、玖美の口には合わなかった。功一は気にならないらしく美味しいと言ってたくさん食べていた。

玖美は病気の診断以来、肉類をあまり食べられなくなっていた。がんは私の身体の中の最も脂肪分の多いところに巣くっている、そう思うと肉類を食べる気分になれないのであった。

「知ってる?今見えている南半球の星の位置は、全て日本とは逆らしいよ。三日月も向きが違って見えるんだって」

食後にワイングラスを持ってリクライニングチェアーに腰掛けた功一が言った。

「へぇそうなの。私は星に詳しくないから見ただけでは分からないけれど、おもしろいわね。そうか、ここは逆さまの国なんだ」

「そうだな」

「子供頃テレビで見たアニメみたいに、私たちが突然逆さまの国に来ているのだとしたらおもしろいわね。ここでは何もかもが反対なの」

「そんなアニメあったな。いい子が悪い子になったり、賢い子が賢くなくなったり」

功一は少し笑って、「じゃあ反対の俺はどんなヤツかな」と言った。

「意地悪な人」

「それは嬉しいな。褒めてくれてありがとう。玖美は・・・」

功一の言葉を遮って玖美が言った。

「私はここでは、乳がんのない健康な人よ」

功一は何も言わなかった。

「違う・・・ごめん。本当はそんなことを言いたかったんじゃなかったの。楽しい旅行にしようねって言ってたのに、私・・・」

「いいよ。そのくらいの弱音を吐くのは当たり前だろ」

星を見上げながら、玖美は静かに涙をこぼした。

「ねぇ、弱音を吐くついでにもっと話してもいい?」「うん?」

「私ね、手術や治療が怖いとはあまり思っていないの。・・・それは言い過ぎかな。うん、やっぱり怖いわ。でも本当はもっと怖いものがあるのよ」

玖美は、今夜だけは弱音をはいてもいいことにしよう、と思った。この夜空の下で功一に本音を言おう。でも今夜だけだ、そう自分の心に言い聞かせた。

「一番怖いのはね、もうこれからの私の人生は二度と今までと同じではなくなることなの。今回の乳がんは早期で見つかったし、お医者さまの言う通り、ちゃんと治療すれば完治すると思っているわ。でもこれから先、私の心は完治しない。

私はこの先ずっと、乳がんの再発を恐れたり、別のがんになることを恐れたりして恐怖に震えながら生きていくの。一度知ってしまった恐怖を知らなかったことにはもう出来ないからよ。死の存在に気付いてしまった私は、もう以前の自分には二度と戻ることが出来ないわ。そんな状況で私はちゃんとこれからも自分らしさを保って生きて行けるのかしら。

人は誰でもいつか死ぬから、戦う前からもう負けはもう決まってしまっているこの勝負の中で、私は本当に毎日を大事にして生きていけるのかしら」

功一の眼には同情があふれていたので玖美はいたたまれなくなった。

欲しかったのは同情ではなかった。

「でも私、自分に負けないように頑張るわ。不安だけど自分を見失いたくないの。私が何歳まで生きるかなんて誰にも分からないけれど、人生に一番大事なことはその長さではなく、どう生きるかだってことくらい私にだって分かるから」

功一はうなずいた。「玖美はもしかすると俺よりも長生きするかもしれないじゃないか。先のことは誰にも分からない。そんなに一人で頑張るつもりにならなくてもいいよ。ちょっと待って」

功一が自分のバックパックを手元に引き寄せたのを見て、玖美は咄嗟に功一の腕を取った。彼が何をしようとしているのかが分かったからである。



ホテルを出る前玖美は、夕暮れ前の日差しの強さが心配になり、もう一度日焼け止めを塗ってから出かけようと思った。日焼け止めは功一のバックパックのポケットの中だった。玖美はバスルームにいる功一に声を掛けたがシャワーの音で聞こえなかったらしく返事はなかった。彼は細かいことを気にするタイプではないから、あとで言えばいい、玖美はそう思い、時間も差し迫って来たので功一のバックパックのポケットに手を入れた。

玖美はハッとしてその手を止めた。ポケットの中にある小さく硬いケースが手にあたったからである。


「待って」

本当にそれでいいのだろうか、と玖美は自分の気持ちを確かめながら「ちょっと待って」と繰り返した。

「実は見ちゃったの。ごめんなさい。さっき日焼け止めを取ろうとしてバックパックに入っているものを、私、偶然見てしまったの。あ、でも中身は見ていないからもしかしたら違うのかもしれないけれど」

「・・・あ、ばれちゃったのか」

功一は笑い言葉を続けた。「玖美の考えは当たっているよ。星空の下でロマンチックにプロポーズして驚かせようという俺の計画は消えたけど」

「ありがとう。本当に嬉しい」玖美は涙をぬぐった。

「でもね、少し保留にしてもらってもいいかしら。しばらく時間が欲しいの。そうね、治療が終わるまで待って欲しいの」

功一は不思議そうな顔をした。

「本当はね、すごく怖いのよ。手術も治療も全部怖くて怖くてたまらない。でもこれは私が自分で向き合わなくていけないことだと思っているの。

家族や恋人がどれだけお互いを大事に思い合っても、病気や命は結局それぞれ個人のものだわ。私の母親が家族から悲しまれながらも一人で亡くなったように、周囲の人にはどうしようもないことなの。

私は自分に起ることから逃げることは出来ないし、自分が今後どうやって恐怖と戦っていくかを学ばなくてはいけないと思っている。今、功一は同情しているつもりはないと思うけれど、功一は優しいから私のことを可哀そう、元気づけたいって思ってくれているはずよ。でも私は功一に、そんなプロポーズをして欲しくないの」

功一は何も言わなかったが、少しむっとした様子だった。

「同情なんてしてないよ。それに結婚相手を同情で選ぶほど俺はお人好しではないつもりだよ」

「分かってるわ。でも今私は自分のことで精一杯なの」

「僕が負担になるってこと?」

「そうじゃない、そうじゃないわ」

玖美は涙が出そうになった。本当は喜んでエンゲージリングを受け取ってしまいたかった。功一に甘えて寄りかかってしまいたかった。これからの治療中、もし辛くなる度に功一に泣き言を言い続けることが出来るのなら、それはどれだけ玖美を楽にするだろうか。

だが玖美にはそれが結婚や夫婦の形なのだとはどうしても思えなかった。夫婦が助け合うことは大事だが、助け合うことと依存を間違えたくなかった。

「ほんの少しの間だけ待って欲しいの。病気になったことは本当に悲しいわ。今でも信じられないくらい辛い。でも私はちゃんと病気に自分で向き合わなきゃいけない。

それが出来ればきっと治療後の私は、今よりももっと強くなっているし、賢くなっていると思う。その時の私は、功一が結婚したいと自信を持って思ってもらえるような私になっているわ。どうかその時にもう一度、今言いかけた言葉を聞かせて」

功一は驚いた顔で玖美を見つめていた。

治療中に功一が別の女性を見つけてしまう可能性は多いにあった。本当にこれでいいのか、と玖美は自分へもう一度問いただしたが、考えは変わらなかった。自分を見失わないことが何よりも今の玖美には大事に思えたのである。  


玖美の眼は笑うと三日月眉と同じ形になる。

「玖美はいい女だな」

功一は少しとまどった後にそう言った。自分の決意を話す玖美の笑顔が神々しく高貴な輝きに満ちて見えたからである。それは女性が本来持つ強さの光なのかもしれなかった。

功一は玖美を哀れんでいた自分に気付いた。知らぬ間に自分は玖美よりも上の立場にいると思い込んでいたように思う。

治療を終える頃、おそらく玖美は今よりも強い女性になっているだろう。功一はそう思った。自分もうかうかしていられない。玖美に同情するよりも、彼女を支えながらなおかつ自分にも今出来ることがあるだろう。

「玖美の言いたいことはよく分かったよ」

功一はそう言うと出しかけた指輪のケースをバックパックにしまった。

「・・・うん。ちょっと悲しいけど」

「そうだな」功一は玖美の肩をそっと抱いた。

「オーストラリアに来てよかったな」

玖美は何も言わなかったが、功一が今まで見たことのないような柔らかい笑顔でうなずいた。

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