未来を見つめる瞳
そろそろ食事をとらないと倒れるのじゃないかと心配になり、ここ数日まともに口をきいていない彼の部屋を訪ねたら、本人は不在だった。
普段ならば四六時中、油臭い部屋に籠って食事も睡眠も忘れて何かに没頭している彼が。
ここ数日は何を呼び掛けても生返事で、紙に何かを描きつけては横へ置いて高い山を作っていたのに。どこへ行ったのか。
風が私の髪を揺らした。部屋の床に紙が散乱しているのは、この風にばらまかれたのだろうか。首をめぐらせれば、部屋と外を繋ぐ大窓が開いていた。
タイミングよく雲が動いて夕日が差し込み、私の目を焼こうとする。手でひさしを作ると、開け放たれた窓の向こうに彼の後ろ姿が見えた。
玄関で外履きに履き替えて、彼の居た裏庭へ外から回った。
「何を描いているの?」
彼は草に直接座り込んで、イーゼルに立てかけたキャンバスをひっかいていた。いや、よく見たらとても短い木炭がその指の間には覗いている。
夕日にほとんど正面から照らされて逆光のキャンバスは暗く、彼の顔にも陰を作っているのに。キャンバスの向こうに、彼は何を見ているのか。
「ほら」
木炭を持つのとは反対の手の煤で黒い指先は、彼の視線の少し上を指した。
ここは辺りで少し高い土地だから、指を辿れば小さな林の向こうのさらに山の向こうにある空に、夕日が見える。
彼の隣に座って、同じ方向へ顔を向けてみる。
「夕日?」
キャンバスを見れば、雲と電柱と、黒い空と。私にはそこに色を見通すことがまだできない。
私の言葉に、彼は首を緩く振った。両の瞳はずっと遠くを見つめ続けている。
「もう少ししたらさ――」
夕日は山の向こうに隠れようとしている。
少し離れて、一足早く夜が来た空には月の姿もあった。
「あ!」
一番星が光っていた。
「ほら、空が……夜になって」
彼の言葉は、拙いけれど。短くない付き合いだから、言わんとしているものはなんとなく伝わってくる。
でもきっと、彼は自分が言葉を発していることに気付いていないのだろう。
「星空?」
このときを――彼の見ている世界を描きとめるべく脳に焼き付けている間中、彼は他のことが疎かになって、この空気を感じとる以外のことは後になってほとんど思い出せないのだ。
ただきこえた何かに、なんとなく反応しているだけなんだ。
「そう」
言われて見れば、キャンバスには夜空のグラデーションの中で、無数の星が煌めいていた。
いまより少し先を見つめているその瞳は、夕日の最後のあがきで真っ赤に染まっていたけれど。
夕日が夜に追いやられて空気が冷たくなった。
光りは星と月しか供給してくれない。
家の明かりをつけてこようかと私が立ち上がったら、彼がびくりと肩を跳ねさせた。
それに私も驚いて同じ仕草をしてしまう。
「ど……どうしたの?」
「え、いや……いつの間にいたの?」
手に持っていた木炭を落としてしまったようで、慌ててあたりを探る彼を見て、少しだけ落ち着いて。ほら、とすぐ目の前に落ちていたソレを拾って渡す。
やっぱり、気付いていなかったんだ。
「あなたが夕日を見つめてた時から」
「え、僕、夕日なんて見てた?」
「あなたこそ、いつからここにいたの?」
「えっと……太陽が真上に来た頃、あったかくて……」
それから何時間もここにいて、それで星空を描こうとしてたなんて。
一体彼は何を思って行動しているんだ。やっぱり私に、彼は理解できないみたい。
「夕飯でも食べない?」
彼が私に気付いたってことは、絵の方がひと段落着いたんだろう。
彼のお腹が鳴った。
朝に差し入れたサンドウィッチは部屋で見なかったけれど、ちゃんと食べてくれたんだろうか。
「そういえば……朝から何も食べていないや」
そうしよう、と言って、彼は立ち上がってキャンバスとイーゼルを脇に抱える。
「朝の差し入れは?」
「……。」
「やっぱり、食べていないのね」
「……ごめん、作ってくれたのに」
「いつものことじゃないの」
夕食を終えると彼はさっそく部屋に籠って、数日後の満天の星空の夜になってやっと自分から食事をとった。その後すぐに眠ってしまったから部屋に忍び込んだら、新鮮な油の匂いに包まれて、あの絵があった。
きょうの夜空のような、満天の星空ががそこにはあった。
本当に、彼にはいったいどれだけ先が見えているんだろう。
九藤 朋 様(https://mypage.syosetu.com/476884/)より「星空」のお題を戴いてイラスト及び本作品を執筆いたしました。
この場を借りてお礼申し上げます。